2018年1月17日水曜日

公官混同?

また古い話ですが、2014年の暮から年明けにかけて、渋谷区が公園から野宿人を締め出したり閉じ込めたりしたという騒ぎがありまして、「おおやけのその」に対するかかる暴挙は到底許し難い、というような意見も散見されました。

さて、その「公」こそが曲者。役所の理屈ではそれとはまったく裏腹に、「おおやけ」の場である公園を不埒にも野宿者めらが「わたくし」しおって、そのほうがよほどけしくりからん、ってことになるんでしょう。私見ではこれ、公私混同ならぬ公官混同といったところ。

                  

こうした語義の混乱は、英語の ‘public' を「公」、 ‘private’ を「私」とする安直な置換の所産ではないか、と常々思っておりました。かつては、「四公六民」(容易に逆転)という語句からも知られるように、「公」は「民」の対立概念、つまりは「お上」って意味だったのが、近代になって性急に西洋の用語、あるいは概念を取り入れた結果、今日的建前としては名目上の主権者たる「民」こそが一応「公」とはなっている、というに過ぎないのではないかと。しかし、21世紀のこの期に及んでなお実状はそれに遠く及ばぬまま、ということを改めて示したのが件の公園閉鎖騒動だったような。

未だに「階級社会」の最大手のように言われる英国では、 ‘public’ はむしろ常に「民」の意である一方、 ‘private’ という表示は大抵、個人、民間の私有地(private property)などに限らず、公共施設内その他に見られる「部外者立ち入り禁止」を表します。部屋のドアにそう表示されていたら、それは「職員以外入室お断り」ってほどの意味。「私」という国語表記には対応しません。

かつては領主(それが日本では「公」)が領民に対し、自らの私的な所有地であるから勝手に入るな、と告げるのがこの ‘private’ という表示。今日の民主主義下では当然領主も領民もあり得ず、一般人、民間人たる ‘public’(今の日本ではそれが安直に「公」と訳される)には開かれていない、立ち入りの規制された特殊な領域であることを示すのが、つまりは ‘private’ だてえ次第。

政府自治体や公官庁が ‘public’ とされるのも、それが現代では飽くまで「民」の代理であるという前提があればこそ。日本ではそれを安易に「公」と言い換えてしまったため、「パブリック」も「民」ではなく、それを監視・統制する側の「お上」の意にしばしば充当される、ってところでしょう。

卸し元の英国では、今も昔も ‘public’ と言えば無位無官の民草が本義。 ‘private’ と語源が交わる ‘privilege’ =「特権」を享有するのが王侯貴族であり、 ‘public’ と括られる民衆はその私的権力に支配される者ども。それが、支配者からの主権奪取によって漸く現今の民主社会という結果を得るに至った、という塩梅かと。

                  

ところが、我が日本では将軍や大名諸侯こそが「公」であり、「民」たる百姓町人はその「公」の一方的支配に甘んじる立場だったわけですから、 public=公、 private=私とは参らぬのも明らかであると思量致す次第。

「公僕」というのも、主権者である筈の我々一般大衆に仕える者という意味かと思うとさにあらず、この場合の「公」はどうも江戸時代的なそれであるような。「公務執行妨害」などは、政治権力とは無縁の我ら有象無象に対してのみ適用される、恣意的な検挙、拘束を官憲が正当化せんがための付会に過ぎぬのが常態のようなもの。「公務」と言ったって決して我々「民」のための務めなどではありません。言わずもがな。

「国」という言葉も似たようなものですな。 ‘country’(土地)だの ‘nation’(人)だのと同義であるとすれば、「国を相手取って訴訟を起こす」などはまったく不可能。自分で自分を訴えられましょうや。 ‘state’ なら多少この場合の「国」に近いかも知れませんが、主権者たる国民が裁判で争えるのは、飽くまで自らの主権の代行者というのが建前たる政府その他ではあっても、決して自分たち、すなわち国民自体の集合を指す国であろう筈がありません。

その、本来主人である「国民」さまに向かって、代理または下僕であるべき政府側の者の説く「愛国心」がいかに胡散臭いものであるかも、こうして語義をおもんみれば昭然とするのではないかと。郷土愛や愛郷心の延長としての愛国心なら、見るも陋劣なる政治屋如きに言われるまでもなく、誰しも自然の情として具備しているものでしょう。わざわざ「教育」で植えつけねばならぬということは、既にして正常な感覚とは無縁の、悪臭芬々たるものであるは灼然。そうまでして愛することを強いられる「国」とは、いったい何のこと、誰のことなのやら。これだけ臭いにもかかわらず、世の中には随分と鼻の悪い人も多いようで。

                  

尤も斯く申すそれがしなどは、どっちかってえとジョン・レノン寄りでして、できれば世界中から国なんてものがなくなってしまうことをこそ夢想しとりますれば、いずれにしろ愛国心という言葉には何の価値も実は認めてはいなかったりして。ごく当然のことだと思うんですが、人がいなければ国は成り立たないけれど、国がなくても人は存在し得ます。と言うより、もともと国なんてもん、ハナはこの地上にただのひとつとてなかった筈。そんなものが湧いて出てきたのは、人類史全体から見ればごく最近のことでしょう。

一方、つい百数十年前までは、この日本だって無数の国に分かれていたのが今は当然のようにいっしょくた。それでも、大半の日本人にとっては別に郷土が消滅したわけではない……のだけれど、無理やり1つの国家に統合した権力側の横暴によって、親代々の故郷が破壊される悲劇は未だに跡を絶たず(「公」共の福祉のため!)。それでもなお、故郷の義訓たる「くに」ではなく飽くまで「国家」を愛したいと言うなら、もはや手の施しようはありません。ご随意に。

あれ? 何の話でしたっけね。失礼。

                  

因みに、君主が不在の、互いに対等の筈である人民のみで成るのが ‘republic’「共和国」だとすると、 ‘democracy’「民主国」(ここでは「民主主義」という観念ではなく「民主状態」のような)は、君主ではなく人民こそが主である、という意味であり、共和国であれば元より民しかいないのだから、もはや主も従もあるまい……なんてのはただの言いがかりか。ふ、またつまらぬことを。

それにしても長えな。誰が読むかよ。

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