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2022年11月25日金曜日

懲りることもなく、またSNSネタの流用です。

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前回の投稿の後で、どうも何か忘れてるような気がしてたんだけど、やがて本当に忘れてることがあったのを思い出しました。同じく‘Help!’の歌詞における発音と表記の齟齬なんですが、その個所も、前回触れた冒頭部分の少し後であり、それほど離れてはいません。またしても音韻の問題に止まらず、一般に流布している「公式」の歌詞が、何だか下手くそっぽいんですよね(そう思うのはやっぱり俺だけ?)。

ほんとは、この忘れてたほうこそ、この歌における齟齬として最初に引っ掛かり、こっちがよほど謎だったのに、たぶん順番が後だったから前回は図らずも閑却してしまった、ってところではあります。どのみち気にならない人にとってはどうでもいい話ではありますし。

2022年11月24日木曜日

またぞろ SNS に投降したネタを横着にも流用:

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自宅から徒歩数分のドン.キホーテ(看板を見たら「・」ではなくこういう表記でした)は、1階が主に食料品、2階がそれ以外の日用品売場で、いずれもかなりの広さなのですが、その2階に行くと、各区域ごとに連日連夜途切れることなく決ったBGMを流していて、自分が最も頻繁に通り過ぎる辺りではそれがビートルズの ‘Help!’ なんです。

それで思い出したこの曲の歌詞の謎ってのがありまして、またぞろ無益なるは承知の上で、それについてひとくさり記したくなっちゃいました。謎ったって、それ自体はとっくに氷解しとりますので、もはや謎でも何でもなくなってんですけど、まあちょいとおもしろい……かも知れない話ではあろうかと。

2021年8月16日月曜日

相も変らぬ無益な所感(3)

【また SNS から流用】

翻訳仕事でだいぶ前に気づいちゃったんですが、「同調圧力」と訳される ‘peer pressure’(てえか、前者が後者の訳語?)って、どうも意味が微妙に、あるいは明らかに違うんですよね。

‘peer’ ってのは、英国では5つの爵位に該当するいわゆる貴族のことでもあるけれど、百姓町人たるこちとらにとっては、要するに年齢だの社会的階層だのといった区分で同等とされる者(括れば当然 ‘peers’ てえことに)の意。つまり、おんなじような部類のやつ(連中)が ‘peer(s)’ という次第で、「査読」と訳される ‘peer review’ は、同業者による校閲みたようなもんだし、‘peerless’ てえと、要するに「匹敵する者とてなき」てな意味。

2021年8月15日日曜日

相も変らぬ無益な所感(2)

【SNS への投稿からもう1つ】

先日、ケチな仕事絡みの調べ物でちょいとウェブ検索してたら、‘Your words, not mine.’ という慣用句について教えてくれてる日本語の記事が目に入っちゃいまして。

何でもそれ、明言を避けるための逃げ口上だってんですが、そいつぁどうですかね。

今さらながら英語のサイトをいくつか覗いてみたところ、結構いろんな人がいろんなこと言ってまして、そりゃまあ、どういうつもりの台詞かなんてのは、当然そのときどきの状況とか文脈とかで変るもんではありますが、「俺はそうは思わない(あるいは思っても黙ってる)けどね」みたような意味だって人もいれば、「その指摘は当らない」(なんか去年あたりよく耳にしたような)とか「その発言は不当である」ってことだと言い張る人もいる、ってな具合。

2021年8月14日土曜日

相も変らぬ無益な所感(1)

既に1年以上放置しておりましたが、久しぶりに投稿したくなりました。

とは言いながら、連日覗いたり書き込んだりしている SNS に上げた駄文を、そのままこちらにも再録して参ろうなどという横着の極み。相済みません。

ひとまずは、英語の綴りについてのつまらぬ愚痴などを――

2020年4月22日水曜日

ソーシャルディスタンス?

久しぶりにして唐突ではありますが、今般のウィルス禍騒ぎから図らずもまた余計なことを想起してしまいまして、それを少々記したいと存じます。

何やら、またぞろ急に「ソーシャルディスタンス」とか言い出して暫くになるわけですが、 ‘social distance’ てえと、社会学とかで言う、当該の社会における各集団の隔たり、とでもいったようなもんじゃないかしらと。問題の感染症に関わるのは ‘social distancing’ の筈であり、しばしば ‘physical distancing’ と併用されるようですが、あるいはその ‘social distancing’ の実施に伴って求められる互いに保つべき距離、とでもいうつもりで「ディスタンス」とは言ってんですかね。でも、「離れた」って意味の形容詞 ‘distant’ の名詞形である ‘distance’ と、それをさらに動詞化した ‘to distance’ の、これまた名詞形である ‘distancing’ は自ずと別物じゃん、とは思っちゃいまして。

いずれにせよ、「社会的距離」ってだけじゃ見当外れだろうし、「社会的距離をとる措置」とかってのも何だか迂遠な感じがするのは、やっぱりあたしがズレてるからでしょうかね。どうも、‘social’ すなわち「社会的」っていう安直な置換が気に入らねえような。じゃあどう言えばいいのか、ったってどうせ何の知恵も出ちゃこないわけですけれど。「社交」のほうがまだ近いか、とも思えど、やっぱりそれじゃいかにも間抜けだし。

2019年9月12日木曜日

外国人の名前とか江戸・東京弁の発音について

またも横着を決め込み、普段覘いたり書き込んだりしてる SNS に最近投稿した記事から、多少とも言語的なネタかな、ってものをこちらに流用。ほんと横着だよな、とは重々承知。

まずは以下の投稿を再録。
 
                  

一向に懲りることを知らぬ我らが安倍晋三、かのプーチンのことを(台本どおり?)気安く「ウラジミール」と呼んだとかいう記事を見て思い出したことを少々。どう呼ぼうがまともに相手にしちゃ貰えないのは毎度お馴染みの図で、既に食傷気味ではありますが。

それより、昔から「ウラジミール」だったり「ウラジーミル」だったりして、いったいどっちなんだよってんで以前ちょっと探ってみましたら、ロシア語の模倣としては「……ジーミル」で、「……ジミール」はチェコ語の真似らしゅうございます。プーチンの場合はやはり「……ジーミル」のほうが日本でも穏当ということにはなりましょう。てえか、ニュース記事とかだと大抵そうなってたような。

2019年8月10日土曜日

一所懸命?

最終投稿から既に3ヶ月あまりが経ちました。最後は「クイーン」にかこつけた言語音ネタを無秩序に連ねてそれっきり、って感じでしたが、本来なら、その前に試みて頓挫した、訓令式ローマ字至上主義者の、甚だ一貫性を欠いたエッラそうな言説に対する論難を再開すべきか、とも思ってはいたのでした。いつの間にか、なかなかそれどころではなくなってしまい、このブログ自体が放置状態になっていたという仕儀。

訓令主義者については、その一見論理的なふりをしつつ、実は相当に滅裂を極めた強引な理屈に、未だ多少の憤りを抱いてはおります。さまざまな知見から、自らに都合のいい部分だけを抜き取って並べたようなものなんだから、早晩破綻するのも当然……ではあるんだけど、当人たちだけではなく、その信奉者もまたさる者にて、ってところでしょうか。

その話柄に限らず、その後もいろいろな事象に対するいろいろな存念もありながら、一旦勢いが殺がれると、かつての如く連日のように投稿するのは至難、ということを痛感しているというのが実情ではございまして。

でもそれじゃ何となくつまんない、ってことで、その後もほぼ毎日覗いている SNS に書き散らしたくだらねえ投稿文から、ちょっとは面白いのではないか、と思われる(勝手に思ってる)駄文を、横着ながら随時ここに再録してこうか、と思い立っちゃいました。まずは1つ、つい先刻(2019年8月10日未明)の投稿をこちらに:

2019年4月27日土曜日

‘QU’ が「ク」で ‘EEN’ が「イーン」かよ(5)

英語の ‘qu’ という字列の発音に対する片仮名表記についての難癖……とでも呼ぶべきものを書き散らして参ったわけですが、早速前回の続きを。
 
                  
 
「クイーン」ではなく「クィーン」、「グアム」ではなく「グァム」といった書き方は以前から頻繁に目にしますし、「クェスチョン」や「クォーター」などは、ことによるとむしろ昔から優勢だったかも知れません。この「イ」だの「ィ」、あるいは「ア」だの「ァ」だのが、本来なら「ウィ」や「ワ」とすべきものであろう、ってなことをこないだから書き散らしとる次第ではあるのですが、ひょっとするとこれ、近世には廃れていたという例の「合拗音」、ほんとだったら「クヰ」だの「クヱ」だの「クヲ」とでも書くべきものを、「現代的」に母音字を小さくすることで代用した結果か?ともチラッと思ったりして。まあそりゃないでしょうけどね。単なる不用意な習慣に過ぎぬものではあるのでしょう。

2019年4月25日木曜日

‘QU’ が「ク」で ‘EEN’ が「イーン」かよ(4)

看板に掲げたクイーン絡みの話はひとまず前回で終った筈なんですが、面倒だからそのまま4回めってことで、今回はついでに思い浮んだ蛇足の類いを縷々記して参ろうかと。

まずは、例外的な ‘qu’ の発音として前回思いつきで言及したスペイン語由来の ‘mosquito’ から連想された話をひとくさり。西語からの外来語には ‘gu’ という字列が /gw/ となる例がままあるな、ってのに気づきまして。「クワ」とか「クヮ」という字音仮名遣いにとってはその有声(いわゆる濁音)版とでも呼ぶべき「グワ」「グヮ」に対応するが如き(しかし似て非なる)事例……って、こんな言い方じゃわけが知れねえじゃねえか。毎度すみません。

それ、日本では「グアム」と呼ばれる ‘Guam’ とか、「グアテマラ」ということになっている ‘Guatemala’ とかのことなんですけど、イラク戦争の捕虜絡みでちょいと騒ぎになってた「グアンタナモ」、 ‘Guantanamo’ ってのも同工。「ガム」「ガテマラ」「ガンタナモ」という、言わば二重の誤記、誤読はちょいと不快なれど、それもまあしょうがねえのか。そう言や ‘Guantanamera’ って歌もありました。長閑なようで微かに切なくもある曲調は昔から好きなんですが、「グアンタナモの娘」の意だそうで。米軍の非道のせいでそれも何だか物騒な印象になっちゃったような。

2019年4月18日木曜日

‘QU’ が「ク」で ‘EEN’ が「イーン」かよ(3)

前回もまた話が逸れどおしのまま諦めて切り上げちゃったんですが、「クイーン」云々の話の「枕」、字音仮名遣いの「クワ」その他についての愚論を今少し。
 
                  

字音仮名遣いの考案者だという本居の腹積りとは裏腹に、[クワ」(「クヮ」)ってのは、単に「ク」と「ワ」を普通の2倍速で、つまり無理やり1音節に詰め込んでやっつけるだけ、って思ってる人にも1人ならず会ったことがございまして。子供の頃に親父が実演してみせたのも、どういう発音だったかなんて憶えてはおりませず、そもそも当時の自分には初めから聴き分けられる道理もなく。

2019年4月16日火曜日

‘QU’ が「ク」で ‘EEN’ が「イーン」かよ(2)

さて、いきなりですが続きです。とりあえず「拗音」というものについての与太話を再開。

現代標準国語における拗音と言えば、キャ行だのシャ行だのといった、いわゆる「開拗音」のことだということは申し述べました。しかしそれらは、決してその仮名表記が示しているかに見える、(現代音の)[キ]や[シ]や[チ]その他(の父音=頭子音)に[ヤ][ユ][ヨ]を添えた音などではなく、その[キ]や[シ]そのものに、母音の[イ]を言わば先取りすることによって生ずるヤ行音的特徴が組み込まれている、というのが実情([キ]の父音は [k] ではなく [kʲ]というように)なれば、専らカ行、ガ行における「合拗音」に当てた[クワ]だの[グワ]だの(現代表記では「クヮ」や「グヮ」)も、便宜的な書き方に過ぎぬは明白でありましょう。ほんとは /kw/ だの /gw/ ってより、飽くまで [kʷ]、 [ɡʷ]、つまり [k] や [ɡ] に円唇を加えてワ行音的要素を込めちゃったもの、というのが正体ではあり、それを示すのが、「くわかく」という振り仮名にも見られる本来の字音仮名遣いの狙い……なんじゃないかと。

2019年4月14日日曜日

‘QU’ が「ク」で ‘EEN’ が「イーン」かよ(1)

だいぶ間が間が空いちゃいましたけど、前回、『奥の細道』の冒頭に出てくる「過客」の字音として、しつこく「くわかく」という仮名が振られていることに、またしてもちょいと要らざる難癖をつけておりました。もうそんな発音するやつなんかいねえじゃねえか(たぶん)、ってことだったんですが、実はそれにつられて思い出した、さらに余計な話があったんです。でも、とりあえず当面の話題(ってのが何なんだか、既に曖昧ですけど)には関係ないか、ってんで言及は避けたのでした。

などと言ったところで、関係ないってんならどうせ全部そうなんだし、既に文章としてのまとまりなんざとうに捨て去ってんだから、今さら気にしたってしょうがねえや、との了見の下に、今回はその、余談のさらなる余談とでもいったものを開陳致す所存。毎回話があちこち迷走するのも、こういう、その都度想起された事柄につい足を取られちゃうから、ってのはとっくに承知ではありますが、もう悪足掻きはやめて居直っちまおう、との魂胆にて。

2019年2月4日月曜日

誤訳邦題など

英語の歌の邦題というやつ、今どきはそのままカタカナにするのが前より普通だったりするから、昔ほどトンチンカンな例は目立たなくなりましたが(ほんとか?)、たとえばプロコル・ハルム(プロウクル・ハラム?……などと、つい無駄な悪足掻きをしたくなっちゃって。どうせ似非ラテン語だけど)の「青い影」ってのも、まったくの誤訳ながら、あれは怪我の功名とでも称すべき見事な日本題(?)。

原題は、それが狙いなんでしょうけど(?)結構長くて、無理やりまとめれば「青白さがより強く」みたような感じ。ちょっと違うか。いずれにしろ ‘pale’「蒼白な」と ‘shade’「色合い」(てえか顔色)を、辞書的な、あるいは中学生的な感覚で、「青い」とか「影」とかにしちゃったんでしょうね。「青」はまだしも、誤訳にしたって ‘shade’ のほうは「陰」なら穏当にしろ「影」(そりゃむしろ「光」に近いような)はねえだろうに……とは思えど、「青い影」っていうキッパリした言いようは、歌の題目としては図らずも秀逸……だったりして。どのみち意味はわかんねえにしても。
 

2019年1月15日火曜日

うっかり1周年

複数の(会ったこともない) SNS 友達に勧められ、この無料ブログを始めて1年が過ぎました。前回の投稿から既に2ヶ月近く、その後は無沙汰を決め込んでおりましたが、書きたいものが払底したわけではなく、いよいよ金欠症が重篤を極め、つまりは生活に追われてその余裕すらなくなってしまったというのが実情です。

ま、正月のめでたさももう終ったことだし、少々勝手な愚痴を記して、ひとまずはまだ書き散らす意欲が消滅し去ってはいない、というご報告まで。いずれにせよ、何かとすみません。
 
                  

最初の投稿の折には、その後むやみに長いものばかり掲げるようになろうとは自分でも思っちゃいなくて、引用(再録)した友人宛の文に書き加えようかと思った話も敢えて閑却することにしたのでした。その1つが、件の ‘Songsterr’ というサイトで見た ‘Stairway to Heaven’ の間奏や末尾のギターソロに対する「弾き方指南」(タブ譜というやつ)への異見または苦言。間奏の始まりからズレてる半拍問題ほど致命的ではないにしろ、「それじゃあジミー・ペイジがやってんのとは違い過ぎるじゃねえか」と思う部分が目についちゃって。でも「もとより正確な記譜など物理的に不可能ですし」などと自ら記しておりますとおり、それを文章で伝えるなど厄介に過ぎるは明白、というわけで、今回もやはりほっとくことには致しました。先述の如くそれどころじゃなくなっちゃってる方今の我が身、ってのがほんとのところではありますし。
 

2018年11月18日日曜日

英語の名前とか(21 ‐ 終)

結局20回で終らなかった英語の名字談義ですが、ともかくも「落穂拾い」を終えようと思います。
 
                  

残る「落穂」の中には、米大統領史上随一の英雄(なのか?)の名字、 ‘Kennedy’ ってのもあるんですが、アイルランドおよびスコットランド発祥とは言い条、両者の家系に接点はないらしい。そこがちょいと謎だったりもするようで。大抵はアイルランド系と見られているようですが。

スコットランドとイングランドの境界辺りを発祥地とする ‘Kennedy’ が「深刻(ネクラ?)なやつ」というほどの名であるという一方で、ゲイル語の古い渾名 ‘Cinneididh’ ([スネディ]みたいな)こそ起源だとも申し、それは何と「醜い頭」てな意味だってんです。ほんとかしら。そのまま「ボサボサ頭」を指す ‘Roughhead’ って名字もありますけれど。

2018年11月16日金曜日

英語の名前とか(20)

早速ながら、「落穂」の残りを拾うと致します。前回挙げた「大小」関連の名字にちょいと倣って、互いに対比を成すが如き事例を少々。

Victor とか Neil とか、‘Young’ っていう名字の有名人ってのがいますけど、 ‘Old’ という名字だってちゃんとあるのでした。これが「若造」とか「老いぼれ」とかいうそのままの渾名なのか、見た目や性格が「青い」、「じじむさい」ってところから来てるのかはわかりませんが。どっちもありそうか。渾名由来とは限らないような気もするし。まあいいでしょう。

それにしても、「ヤング」ってえと「ビクター」だの「ニール」だのと、音楽関係しか知らねえのか俺は……と思ったら、70年代後半、アメリカの二枚目アフリカ系国連大使ってのもいましたな。イギリス訪問の折に「あんたらがアフリカ奴隷の卸元なんだよね」みたようなこと言って、現地で受けてたのを思い出しました。

2018年11月13日火曜日

英語の名前とか(19)

前回やりかけといて中断した「落穂拾い」の続きを。

早速ですが、体格その他の「大小」を表す渾名が名字となったという例もあり、 ‘Big’ もいれば ‘Little’ もいるという塩梅。ただし、前者に関しては ‘Bigg’ という表記が普通である上、その息子を指す派生形 ‘Biggs’ という事例が遥かに多いようではあります。

さらに、古文書の記載には、前回も触れた ‘Nash’ や ‘Rock’、それに ‘Dash’ だの ‘Tash’ だのという「木」に因む名字に絡んで以前述べた、‘de’ (= of) や ‘atte’ (= at the)の付された例も見られるとのことで、その場合は第2区分の「土地型」かとも思われるものの、中英語の時代にはもはや地形・地勢的要因とは無関係になっていたとのことです。

2018年11月5日月曜日

英語の名前とか(18)

ちょっと立て込んでて、だいぶ間が空きました。

前回までは、英語の名字における第4の区分、先祖の渾名に由来するという事例のうち、「鳥」の名が名字になっているものをいくつか恣意的に取り上げた……つもりだったのが、多くは渾名由来ではなかったというのが実情。とにかくも、トリ系については何とか終幕には至ったという次第にて。

今回は、言わば落穂拾いとでもいった風情で、これまで触れていなかった部類についてまたも恣意的に述べ、それでこの「英語の名前とか」などという曖昧な表題の駄論群全体にも引導を渡してやろうとの所存……ではあるのですが、果してそうは行きますものやら。まあ何はともあれ、って感じで、とにかく書き継ぐことには致します。
 

2018年10月22日月曜日

英語の名前とか(17)

毎回無秩序に思いついたトリの名を並べるだけというのが実情となってはおりますが、「オウム(鸚鵡)」、 ‘Parrot’ ってのも思い出しちゃったので、今回はまずそれの話から。

意外なことに、これもまた渾名型であるよりは、人名が先という例が基本とのことなのでした。英語の人名としては、やはり11世紀のノルマン征服に伴ってもたらされた仏語の名前、 ‘Pierre’ から転じた ‘Peter’ という洗礼名、つまりは「ペテロ」が起源だというのですが、「小ピーター」とでもいった愛称が ‘Parrot’ だったんだとか。渾名とすれば、やはり「おしゃべり」ってことだったんでしょう。