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2018年5月3日木曜日

町奉行あれこれ(33 ‐ 終)

前回の予告どおり、前に図書館で見た『大武鑑』所収のちょっと気になる部分について。

武鑑ものの最大手となり、同業者の板株(いたかぶ:版権)を次々に買収していたという須原屋が、宝永7(1710)年に刊行した『一統武鑑』の内容をまとめた項に、同じ須原屋の『正風武鑑』から載録した「諸御役前錄 畧記」というのが挿入されてまして、その10項目めが「町御奉行 前錄」というやつ。「關東御打入之時」、すなわち天正18(1590)年の家康江戸入府から、宝永当時までの歴代町奉行名が記されております(「略記」は『大武鑑』編者の橋本博が付したものかも知れませんが、「前録」は原典どおりではないかと)。

2018年5月2日水曜日

町奉行あれこれ(32)

「まとめ」の続きです(全然まとまってねえじゃん)。

既に再三述べてはおりますが、元禄11(1698)年9月の「勅額火事」で呉服橋(南)番所たる松前伊豆守屋敷が焼け、翌月に、やはり被災していた鍛冶橋内の吉良上野介・保科兵部少輔(ひょうぶのしょう)両邸跡に移転します。同時に、保科は麻布へ、吉良は呉服橋門内の南側へと移るんですが、火災後の区画整理によるものか、火事の前の南番所が南北に3軒並んだうちの真ん中だったのに対し、新規吉良屋敷は2軒並びの南半分で、明暦3年正月(明暦の大火、「振袖火事」以前)の絵図に示された地割に復した状態。その南北二分の形は以後幕末まで不変のようです。

明暦3(1657)年当時は北半分が南番所でしたが、百年以上後に「北」番所となるのは、同じ呉服橋内でもこの南側。3年後に本所へ引っ込むまで吉良上野が住んでた場所でもあるんですけど、それはまだ先の話(いけねえ、おんなじような台詞を何度も言ってる)。

2018年5月1日火曜日

町奉行あれこれ(31)

「江戸町奉行」の「江戸」は冗語であり、単に「町奉行」と言えば江戸の町奉行を指していたのですが、とにかくその町奉行と、役宅(役屋敷)である「(御)番所」、今日言うところの「町奉行所」について、これまでに得た知見(拾得したカラ知識)およびそれについての論考(ちょいと加工を施したその受売り)をざっとまとめとこうかと思います。移転に伴う各番所の(非公式な)名称の変遷、およびその位置に応じた居住者の、つまり各町奉行の(やはり非公式な)呼称の推移、というのが主眼……の筈です。

これまでほうぼう寄り道しながらさんざん難癖をつけてきたのは、何度も申し上げておりますように、かつて三省堂で立読みした『図説 江戸町奉行所事典』という本に記載された説明文や図版、それと、いろいろ確認しようとして覗いたウェブの記事に対してなのでした。もともとこの長大な駄文は、自分の仕入れたカラ知識を自分のために整理せんがための、言うなれば悪足掻きの所産。いったいこれのどこが整理なものか、と思うのは正常な感覚とは存じますが、空間的な認識はともかく、継時的な把握やその記憶については、文章化という作業もなかなか有効だったりするのではないかと。自分にとっては、ってことですけど。

2018年4月30日月曜日

町奉行あれこれ(30)

〔承前〕どうでもいいついでってことで、その話(「ホリヤマト」とは?)についてまたひとくさり。

この元文5(1740)年からは既に30年以上前になりますが、宝永4(1707)年に常盤橋の屋敷が焼けて、例の高倉屋敷での仮営業の後に数寄屋橋へ松野壱岐守が引っ越すまで、その数寄屋橋内に住んでた堀大和守親賢(ちかかた)って殿様については、その高倉屋敷の話のついでに言及致しました。「牛之助騒動」という陰惨な事件の当事者でもありますが、その人の次男で、2代あとの当主がこの「ホリヤマト」、堀大和守親蔵(ちかただ)なんでした。この18年前、享保7(1722)年の 『新板江戸大繪圖(コマ番号4/5または5/5参照)』の同所に「ホリワカサ」と記されていたのは、先代だった亡兄、すなわち親賢氏の長男、親庸(ちかのぶ)氏だったということになります。数寄屋橋からここに移ってたんですね、堀さんちは。

2018年4月29日日曜日

町奉行あれこれ(29)

前回まで、『図説 江戸町奉行所事典』が掲げる町奉行所移転の推移を示す5図中、3つについて長々と文句を言い募って参ったわけですが、残る2つが下記の2例ということに。以前にも申しましたが、〈 〉内は各図に付された説明句であり、また丸数字は拙が勝手に付したものです。

④〈元文年間江戸切絵図による南・北両町奉行所の位置〉
⑤〈天保版江戸切絵図による文化三年以後の南・北両町奉行所〉
 
                  
 
この事典で自分が最も撞着を感じたのが(初めは立読みなのでごく一部しか見ちゃいなかったんですけど)「中町奉行(所)」というものについての説明で、それこそがこの長大かつ不毛なる駄文を書き綴るきっかけとはなったのでした。

2018年4月28日土曜日

町奉行あれこれ(28)

前回に引続き「国会デジコレ」所掲の絵図におけるその後の町奉行の表記例を以下に:

●正徳2(1712)年発行 分間江戸大繪圖(コマ番号4/5をご参照のほどを);萬屋清兵衛版[正徳二壬辰歳……との記載あり]

 数寄屋橋内  松野壹岐
 鍛冶橋内   坪内能登
 同呉服橋寄り 丹羽遠江

==================

次も同年の絵図ですが:

分道江戸大繪圖・乾(コマ番号3/3);山口屋須藤權兵衛版[正徳二壬辰年]
 数寄屋橋内  御奉行 松野イキノカミ
 鍛冶橋内   町御奉行 ツホウチノトノカミ
 同呉服橋寄り 町御奉行 ニハ遠江守(相当なくずし字)

2018年4月27日金曜日

町奉行あれこれ(27)

続きです。

まず『国立国会図書館デジタルコレクション』所掲の『御府内往還其外沿革図書』を見ると、この臨時高倉屋敷の期間については特に記述がありませんでした。図示されているのも、常盤橋内が「町奉行川口摂津守御役屋敷」と記された「元禄十一寅之形コマ番号36/130参照」の次はいきなり9年後の「宝永六巳年之形コマ番号37/130右頁で、その跡地は「本多伊豫守」、そのまた次の図、「享保二寅年之形同左頁だとそれが「町奉行中山出雲守御役屋敷」になってるって寸法。でもそれはまだ先の話。

八代洲河岸の高倉屋敷については、「延寶年中之頃ヨリ元禄年中之頃之形コマ番号73/130」および「元禄十四巳年之形コマ番号74/130に「髙倉屋敷」の表示はあるものの、約70年後の「明和九艮年之形コマ番号55/130にはありません。やはりどこかへ移転していたものでしょうか。


2018年4月26日木曜日

町奉行あれこれ(26)

「国会デジコレ」(『国立国会図書館デジタルコレクション』っていうサイト名を勝手に短縮)で見つけた「中番所時代」前後の絵図を見ていて明らかになったことどもを、相も変らず漫然と書き連ねることに致します。出版年度は飛び飛びで、かつ同じ年の絵図が複数掲示されていたりもするのですが、その中からいくつか任意に選び、それぞれにおける各奉行(所)の表記を以下に示してこうてえ魂胆。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

まずは、《中》〔中(の御)番所=中町奉行所……を勝手に略記〕が現れる前段階、寛永前期(1630年代)から数十年間、《北》こと常盤橋番所と《南》こと呉服橋番所が、道三堀に架かる銭瓶橋の両橋詰付近に、言わば隣り合っていた状態から、元禄11(1688)年、「勅額火事」の影響で、呉服橋の《南》が鍛冶橋内の北側区画、それまで保科邸と吉良邸が南北に隣接していた敷地に越した後の様子を示す絵図から(長くてすみません):

●元禄12(1699)年発行 江戸大絵図(コマ番号2/3参照)(仮称? 書誌情報では「江戸大絵図元禄十二年」);板屋弥兵衛版
 鍛冶橋内     町御奉行 松前イツ
 呉服橋内(南側) キラカウツケ
 常盤橋内     保田エチゼン 町御奉行ヤシキ
*南→北の順です。色付きの文言は町奉行以外の参考情報……のつもり。以下同。

2018年4月25日水曜日

町奉行あれこれ(25)

さて、……という書き出しも使い古しでちょいと気は引けますが、ともかくも言いがかりの続きを。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

前回さんざん文句をつけた③の図ってのは、〈享保二年版分道江戸大絵図による南・中・北町奉行所の位置〉っていうやつなんでした。つまり図中の《北》(本文では《中》)が鍛冶橋門内(の呉服橋方向へ少し寄った区画)から常盤橋門内に移転した年の絵図に依拠したイラスト。でも示されたそれぞれの位置は、本文とは名称が食い違っている上、その移転前の配置、っていうシュールな図版。
 
 

2018年4月24日火曜日

町奉行あれこれ(24)

やっとのことで、長らく懸案であった「中番所」(いわゆる中町奉行所)新設以後の状況を示した図③について開陳。より現実的には、町奉行を1人増やして3交替制としたのに伴い、その3人目、新規町奉行の役屋敷を便宜上《中》と呼んだだけ、と言うべきかとは思いますが、まあそれはさておき――
 
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

③〈享保二年版分道江戸大絵図による南・中・北町奉行所の位置〉

 
……というのがこの図の題目、と言うか説明句。あ、遅れ馳せながら、①とか②とかいう丸数字は私が勝手に付したもので、実際は各図の右に縦組み(5番目だけは上に横組み)で、これまた私が勝手に〈 〉で挟んだ説明句が添えられているという体ですね。
 

2018年4月23日月曜日

町奉行あれこれ(23)

漸くここに至って、本来の主題であった筈の『図説 江戸町奉行所事典』、その「江戸町奉行所の位置」という項に示された5図中、2番目の②に対する難癖に立ち返ることができそうです。毎度ダラダラと、ほんとにすみません。

元禄11(1698)年に《南》(「南番所」、いわゆる「南町奉行所」のことを勝手にこう表記しとります)が呉服橋から鍛冶橋に移転した後の様子を示す筈の②図が依拠する(ったって記載内容ではなく図の形だけなんですけどね)元禄「6」年版『江戸図正方鑑』(なんで5年前のやつに「よる」んだか)と、同一の作成者、版元、出版年の『江戸宝鑑の圖大全』から、「さらなる蛇足情報を示そう」としたところ、その蛇足がまた到底蛇足などと名乗るもおこがましき冗長ぶりを呈してしまった、という恐るべき仕儀とは成り果てたのでしたが、やっとのことで何とか気を取り直したてえ塩梅です。

2018年4月22日日曜日

町奉行あれこれ(22)

またぞろ随分と余談が長引いちゃいました。いよいよ当面の本題に戻……るつもりだったんですが(「本題」なんてもんがあるのかどうかはさておき)、その後またも真砂図書館で余計なもんを覗いちゃったために、まずそれについて言っときたくなりまして。

前回の話の続き、ってより駄目押しみたようなもんです。「駄目」って言うならこれ全体がそうなんですけど、そこはひとつ。いずれにしろ、本旨たる②の図についてはまたも少し先延ばしってことで。
 
                  

さて、またいつもの図書館行ったのは、仕事絡みで別の調べ物があったからなんですが、つい思い出したように、てえか実際思い出したんだけど、ついでに赤穂の浅野内匠頭についてもあれを覗いとこうか、ってんで、例の『寛政重脩諸家譜』を開いたのでした。

2018年4月21日土曜日

町奉行あれこれ(21)

前回予告した永井氏受難の話。

まずこの元禄6(1693)年当時、土佐藩邸の隣に住んでた永井靭負って人自身は、ふつう「能登守直圓(なおみつ)」と記される1万石の小大名なんですが、まだ「靭負」って表記だということは、名乗(なのり)もその前の直好(なおよし)または直員(なおかず)だったんじゃないかと思われます。後者のほうがより古く、その実名(じつみょう)を名乗っていた時分の通称は「大善」だったかも。幼名は「萬之丞」……などといった無益な情報も、悉く例の『寛政重脩諸家譜』からの受売りです。因みに、いつも図書館で覗いてんのは『新訂 寛政重修諸家譜』というやつで、「脩」の字が「修」という表記。

2018年4月20日金曜日

町奉行あれこれ(20)

『図説 江戸町奉行所事典』における、奉行所移転の経緯を示した(筈の)5つの図のうち、漸くその2つめについて。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
 

②〈元禄六年版江戸正方鑑による南北両町奉行所の位置〉

 
 
元禄11(1698)年に、呉服橋の《南》[=南町奉行所=南(の御)番所]が、より南の鍛冶橋内、吉良と保科の屋敷跡に移転した後の図、ってことです。前回までああだこうだ言ってた①の図に示された呉服橋内の《南》にとっては南隣となる位置、道三堀からは屋敷1つ分を隔てた、同じ区画の南側に、〈元禄十一年までそして文化三年より北町奉行所〉との文言が記され、鍛冶橋門内北側の区画には、〈元禄十一年より〉という文句を添えて「南町奉行所」と表示されています。

2018年4月19日木曜日

町奉行あれこれ(19)

〔承前〕何はともあれ、互いに齟齬を含む各種ウェブサイトの記事同様、やはり一部の記載事項が他と食い違うこの『図説 江戸町奉行所事典』の言い草も、到底全面的に信用し得るものではないのですが、とりあえず各者共通の情報としては、最初1人だけだった江戸の町奉行がやがて2人体制となり、その役屋敷の所在地が固定化されるに及んで、それぞれ「北町奉行(所)」、「南町奉行(所)」と称されるに至った、ということにはなるようです。

しかし、この事典の「町奉行歴任表」では、早くも家康入国の天正18(1590)年に、板倉四郎右衛門勝重と彦坂小刑部元成が(同時に?)就任し、かつ10年を経た慶長6(1601)年、すなわち関ヶ原の翌年に後任2人が(やはり同時に?)就役したかのようになっており、まだ江戸時代にもなっていない最初期から江戸の町奉行は2人だったとしか思われぬ記述。

2018年4月18日水曜日

町奉行あれこれ(18)

さて、これまでも既にいろいろと言いがかりをつけて参りましたが、『図説 江戸町奉行所事典』における「江戸町奉行所の位置」という項に掲げられた5つの図について、改めて説明(難癖)を施すことと致します。〈 〉内が各図に付された説明句(タイトル?)でございます……って、それ、前々回断ってんですけど、結局また逸脱が過ぎて、今回漸くちゃんと言及することに。毎度恐縮の限り。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

①〈寛永九年版武州豊嶋江戸庄図による南北両町奉行所の位置〉

 
『図説 江戸の司法警察事典』(1980年刊)より

2018年4月17日火曜日

町奉行あれこれ(17)

卒爾ながら、ちょいと中間報告の如きものを。
 
                  

誰がこんなもん読むかよ、と自分でも思いつつ、どちらかと言うと、自分が調べたことやそれについて考えたことを記録する目的で、つまり自分自身のためにこの一連の投稿を続けてるってのが実情に近いようなところではあるのでした。

で、2016年秋(だったかな)より、飽くことなき迷走を重ねながら連綿と綴って参りましたこの長駄文、「東京語の音韻について」(という話題」からさらに派生した「無声母音欠落の例」)という当初の趣旨からは逸脱したまま、当面は「中町奉行所」、およびそれとの関連で、「坂部三十郎邸」についての、実に以てまったくどうでもいい話を書き散らしているのはご承知のとおり。

2018年4月16日月曜日

町奉行あれこれ(16)

さて、件の『図説 江戸町奉行所事典』ですが、各奉行所(各町奉行の役屋敷)の位置関係について、わざわざ自作の図を5つも添えてその遷移を説いていながら、やはり中町奉行所設置後の混乱状態についての記述がヘン、ってより、その記述自体が混乱してたからこそ、こっちだってわけがわかんなくなっちまうんじゃねえか、っていう悪態の続きです。

文章部分の説明によれば、まるでその当時、北から順に「中」「南」「北」となってしまっていたのを、「中」の廃止を機に逆転していた南北の呼称を改めた、ってことになってるのは既述のとおりなんですが、そうなると北だの南だのってのも俗称に過ぎなかったわけではなく、やはり正式名称で、それが所在地の移動に伴って混乱していたのを、だいぶ後になってから修正した、ってことになるではありませぬか。え? そうだったの?って思いかけちゃったけど、やっぱり到底首肯は致し兼ねます。

2018年4月15日日曜日

町奉行あれこれ(15)

「中町奉行所」と呼ばれるものについての繰り言の続きです。まずはこの『図説 江戸町奉行所事典』による奉行所移転の推移に対する説明を、ざっと以下にまとめてみることに致します。
 
➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢ ➢
 
① 江戸初期の寛永期以来、常盤橋門内と呉服橋門内(銭瓶橋の北詰と南詰)にそれぞれ北町奉行所と南町奉行所があったのだが、元禄11(1698)年に後者が1つ南の鍛冶橋門内北側へ、吉良(東)・保科(西)の屋敷を上地して移転〔東西ではなく、正確には北が吉良、南が保科の模様〕
 
1980年刊行の旧版『図説 江戸の司法警察事典』より(以下同)

2018年4月14日土曜日

町奉行あれこれ(14)

では「見附」について。

さてその「御門」の形状ですが、警備のための見張所というにとどまらず、結局はその必要もないまま明治に至ったとは言え、攻め入る敵の進行を滞らせるための、「枡形門(ますがたもん)」という軍事施設の体とはなっていたのでした。

濠に架けられた橋の内側、つまり城側の橋詰に、大抵は2つの門が、石垣を巡らした方形の空間、すなわち「枡形」を挟んで直角に、あるいはお互い斜向いとなるように設けられ、否応なく進路が曲げられるという仕組み。寄せ手がまごついてる間にやっつけようてえ工夫です。例えば、桜田門を警視庁方面から入ると、すぐに右へ曲がり、さらに大きな門を通って皇居外苑に至る、という具合になってますけど、それが枡形門の例。