2018年1月21日日曜日

月代と烏帽子と兜の話

月代の話」と言いつつ、つい鎧姿の、それも右腕の様子などに話題が逸れてしまいましたが、ひとまず腕から頭のほうへと話を戻します。でもまあ、月代と烏帽子と兜は互いに結構関りが深く、今回はまず眼目たる烏帽子ではなく、後2者についての能書きから。

                  

進歩した戦国期の兜は、防護機能の向上と引換えに頭の蒸れが問題化し、その解消のために頭髪を剃った(あるいは抜いた)のを、やがて常時そのままにする習慣が普及し、以後、兜とは無関係に明治まで続くことになったのが、今日「さかやき」と呼ばれるもの……と、あらずもがなの要約を施しちゃいましたが、それ以前、つまりまだ蒸れない兜の時代の話と思し召されたく。

平安後期から鎌倉初期までは、頭頂部で硬く結い上げた「髻(もとどり)」を兜の頂点に開けた「天辺(てへん)の穴」に通して固定していたのが、やがて(鎌倉以降?)髪を解いてかぶった烏帽子を鉢巻きで固定し、その烏帽子の先端を絞って天辺の穴から引き出す方式に変じた、ってことだったんですが、その場合の烏帽子について、またぞろ与太話を始めようてえ了見でございます。

まずは、先日晒した烏帽子三人衆の写真を今一度ご覧くだいませ。






この左端の御仁が着けている「梨子打(なしうち)烏帽子」なんですが、これは立烏帽子(や折烏帽子)より柔らかい「揉(もみ)烏帽子」の一種で、このとおり立たずに寝てしまいます。「なしうち」は「萎やし打ち」の意で、「梨子」は当て字ということに。岩波の古語辞典(1990年発行 増補版第1刷、大野晋/佐竹昭広/前田金五郎・編)では、この揉烏帽子を

〈兜の下にかぶる、やわらかに揉んだ皺〔しぼ〕のある烏帽子。梨子打烏帽子、引立烏帽子、柳さびの折烏帽子などの種類がある〉

とし、梨子打烏帽子については

〈揉烏帽子の一種。表はふしかね染めの綾、裏は薄様(うすやう)に黒漆を塗ってある。武将が兜の下にかぶった。「なしうち」とも〉

と説明しています。ウェブ掲載の日本国語大辞典第2版によれば、「柳皺(やなぎさび)」とは

〈烏帽子〔えぼし〕の皺〔さび〕の一種。柳の葉のように横に細長い皺をよせたもの。また、そのような皺の烏帽子〉

であり、「柳皺の烏帽子」とは

〈柳皺として細かく折りたたんだ烏帽子〉

とのこと。ただしこの烏帽子は近世(=江戸時代)以降の様式ですね。

一方、「ふしかね」というのは、「五倍子(ふし)の粉を鉄漿(かね)にひたして作った黒い染料」ですって。五倍子は文字どおり「ごばいし」とも読み、タンニンをふくむものとして知られるそうな(ちっとも知りませんでした)。

〈白膠木〔ぬるで〕(うるし科の落葉小高木)に五倍子蛾〔ふしが〕(アブラムシの一種)が生んだたまごがかえったあとに生じるこぶ状のもの〉(角川国語辞典75版、1980年発行)

だそうで(そいつも知らなんだわい)、鉄漿はすなわちお歯黒のこと。

岩波の辞書では、同じく揉烏帽子の一種である引立烏帽子は見出し語になっていないんですが、小学館の古語辞典(1980年発行 新版第13刷、中田祝夫・編)には、

〈かぶとの下にかぶる烏帽子で、後ろのかどを引き立てるようにしたもの。もみ烏帽子の一種。紙などで作る〉

とあります。同じ辞書で梨子打烏帽子を引くと、

〈かぶとの下にかぶる「もみえぼし」で、表は「ふしかね染」の綾〔あや〕、裏は鳥の子紙に渋を引いて漆を塗る。かぶる時は緒〔お〕をつけずに、上からはち巻をする。「なしうち」とも〉

とありました。岩波よりちょっと詳しい。いずれにしても、兜の下にかぶるのが揉烏帽子で、梨子打烏帽子も引立烏帽子もその下位区分ということになるようで。

しかし、辞典におけるこのような説明は、当然のことながら単に語義を説いているに過ぎず、しかも、膨大な情報を記載せねばならぬ辞書類の宿命とは言え、ごく限られた語義、用法しか示してはくれません。挿絵があったとしても、やはりいつの時代のものかわからないのではあまり実際的な参考にはならないのですが、それに気づかぬ向きも少なからず。それどころか、編者自身が実際には当該物の具体的な姿を知らないことも珍しくはなかったりします(自分が知らないということ自体知らなかったりして)。古語に限った話でもありませんけれど。

「兜の下にかぶった」と言ったところで、それはどの時代のどういう者についてのことなのか、というだけでも、このような記述からだけでは何ら確たることはわからないのですが、とりあえずこれらの辞典が触れていない事柄について少々。若い頃に買っといた考証関係の書籍が結構ありますもんで。

まず、兜の下にかぶると言っても、当然立烏帽子をおっ立てたままでは兜はかぶれません。下に着けた烏帽子の先端を兜の天辺穴から引き立てた、ということなんですが、そうするために柔らかく作った烏帽子が、つまりは揉烏帽子ということになるのでしょう。それをまず鉢巻で頭に固定してたってことかと。

で、梨子打烏帽子というのは、写真のように後ろ鉢巻を用いたもので、向う鉢巻(前で結ぶ)にすればそれを引立烏帽子と称する、などとも言うのですが、そう呼び分けるようになった(と言うよりそういう鉢巻の作法が定着した)のはいつなのか、ってところが改めて気になってくるじゃありませんか。またそうなると、下拙の古語辞典にある「ふちかね」がどうとか「鳥の子紙」(卵色の和紙)がこうとかって話も、梨子打烏帽子の特性というわけじゃなかったのかい……といった具合に、疑問はむしろ増して参ります。

                  

てな塩梅にて、少々唐突ながら烏帽子についてはこれまでと致し、あとはちょいと補遺の如きものを書き散らそうかと。

「一心不乱」だの「死物狂い」だのに類する名詞・形容動詞に、「大童」(おおわらわ)ってのがありますね。元来は髷がほどけて髪がバラバラに乱れた状態、つまり子供の髪形である「童」の大袈裟なやつってことで。あるいはまた、とっくに元服していて然るべきを、いい歳をして、と言うより大きななりをして、未だに頭が童のままってのを揶揄したものだとも。

語源説としては、戦陣で兜が脱げ(あるいは自ら脱ぎ捨て?)、結わえられていない髪の毛がバラバラに乱れた状態から、ってんですが、それにしてもこれ、いつから言い出したのかによって、髻(もとどり)がほどけてザンバラになっちゃったものを指したのか、より後世(鎌倉以降)の、初めから結髪を解いていたものが、兜だけじゃなく烏帽子まで取れちゃった姿を表したものなのかが判然とせず。

いずれにせよ、そもそも大鎧姿の絵画史料自体が、多くは中世、南北朝室町以降に制作されたものなので、平安期の騒乱を描いた絵巻物なんかではあっても、その時代の実相を伝えているというよりは、作画当時の装備や服装を示すものと思ったほうが無難ではございましょう。

まあそれを言うなら、テレビ(や映画)の時代劇なんぞは、昔から時代錯誤のデタラメばっかりですけどね。考証者や制作者(の一部)がわかってたってどうしようもない、てのが実情らしい。むしろ、ヘタに写実に徹すると、自分では精しいつもりの視聴者から猛烈な苦情だの叱責だのを受けることもあるそうな。

とにかくまあ、中世末に流行り出す、本来は兜の蒸れ対策だった後発の形態が庶民層にまで波及したのが、すなわち幕末まで続く月代の風習で、平和になり、兜などついぞかぶる機会もなくなってからこそ、階級を問わぬ男子一般の習俗として明治まで遺存することになった……という具合?

                  

やっぱりすっかり長くなっちまったぜ。ごめんなさい。てえかこれ、そもそもが月代の話だったんですよね(思い出したように)。

何年も前に書いた自分の文章をちょいと書き換えるつもりだったのが、到底ちょいとどころじゃ済まなくなって、結局は大半が「書下ろし」とはなりにけり、みたいな。

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