2018年1月21日日曜日

月代の話

忘れてました。先の投稿で「後述する月代」などと書いておりましたが、実はこの(一連の)駄文、2010年に知人の娘さん(当時中学生)のために書いた、結構恐ろしく長い文章の一部を流用したものでして、原文ではその月代についても飽くことなく書き連ねておったのでした。なお、その娘さんに直接会ったことはありません。

むやみに長くなったのは、毎度のこととて、他者の記述に対するあらずもがなの難癖に耽ってしまった故なのでした。だって、やれ九条兼実が自著の『玉葉』で平時忠(「平家にあらずんば……」って言ったことになってる人)の月代について悪口書いてるとか、太平記には片岡八郎だの矢田彦七だのの月代の跡がどうこうってくだりが出てくるとかって話を根拠に、明らかに後世のものである、頭頂部を全部剃っちゃう月代の習慣が、平安末から室町以降まで行われていた、なんて抜かしやがんですぜ。

ご丁寧にも、わざわざ自説(のふりした受売りのしぞこない)の反証にしかならない文言を引合いに出してくれてるわけですが、たぶん、ってより紛う方なく、そもそも自分の言っているサカヤキがいつの時代のどういう形のやつのことなのか、ってのがまったくわからないまま、とりあえず知ったかぶりだけはしときたくてしょうがない、ってことなんじゃないかと。そんなのを読んで鵜呑みにしちゃう人たち、特に小中学生なんかにとっては、まさに犯罪行為にも等しき愚蒙の所行。

まあ、かかる記述を読むほうだって、たとえハナは全然知らないにしても、むしろこうした引用によってこそ、平家物語や太平記に出てくるような人たちの月代は信長なんかのそれとは別のもんである、ってことがわかるんじゃないかしら、とは思うんですけどね。それがまあ、どういうわけか世の中、明らかに辻褄の合わねえそういう御託にも何ら痛痒を感ずることなく、ほんとは謎に満ちたままのそうした「知識」を鵜呑みにし、それをまたありがたくもこっちに教えてくれようてえ奇特な人士で満ち溢れているかの如き様相。まあいいか。

で、結局その「月代論」(それ自体が全文のごく一部)、他者の撞着を一方的に突く(つまり相手は痛くも痒くもない)ことに心血を注いだものにはなっちゃったわけですが、当の女子中学生には随分受けてましたから、こちらもまあ頓珍漢冥利には尽きたる心地にて。

                  

……と、既にまったくの無駄話となり果ててはおりますが(どうせ全部そうですけど)、行きがかりってことで、その月代てえもんについてざっとまとめておこうと思ったてえわけでして。

その娘さんに宛てた長文では、「月代」という表記や、そもそも「さかやき」という言い方自体が何に由来するのか、ってことに関する知見も縷々書き綴ってはいたものの、根柢はやはりウェブ上に蔓延する撞着と滅裂に満ちた知ったかぶりに対する悪口雑言。我ながら己が了見の狭さに多少忸怩たる思いも皆無とは申し難きところ、久しぶりに読み返してみるに、悪態の対象たる多数の記述を勝手に「集約」した箇所は存外おもしろいではないか、などと思っちゃったりして。曰く――

《月代とは、前額から頭頂にかけての髪を剃り上げる(もしくは抜く)こと、またはその部分であり、江戸時代には男子一般の習俗となっていたものの、元来は兜の着用による頭ののぼせを防ぐための風習で、常時施すようになったのは戦国時代だが(信長が最初だとの説多し)、平安末期あるいは鎌倉、または室町、特に応仁の乱以後から行われた(いったいいつなんだよ)、戦時に際しての武士の習慣であった。語源および用字の起源には諸説あるが、「さか」は冠、「やき」は鮮明の意で、冠をおしゃれにかぶるための半月形に施した剃りあとが鮮やかなことによるという説と、兜の着用によって気が逆さに上る(どういうこと?)のを緩和するために行ったことによる逆気(さかいき)の転訛であるという伊勢貞丈(18世紀の言わば時代考証家で、本業は直参=幕臣)の説があり、後者が広く認められている……らしい。》

……てな塩梅なんですが、とにかくまあ、普通サカヤキってえと、大抵は頭頂部を剃り上げた16世紀以降のものを指すわけではあります。それが、平安から室町までは額の部分だけに施したものであった、というのは恐らく間違いないのでしょうけれど、いずれにしろ諸説紛々としたままなんですね。江戸時代には既に語源も詳らかではなくなり、上記伊勢貞丈という物知り旗本の考証による、実は民間語源説の域を出ないものが今も定説となっていたりする、ってのが実情。

平安の当初には烏帽子(の前は冠?)姿を整えるための作法だったのが、やがて烏帽子自体が廃れるとともに、最終的には、緩衝材を施すようになった戦国期の兜による頭の蒸れを防ぐための頭髪処理をそう呼ぶようになった、という説には下拙も首肯するものでございます。件の時忠のは前者の、つまり烏帽子装着を前提としたやつのことだったんでしょう。初めから「平」という同姓だった義兄の清盛とは違って、武家ではなく貧乏公家だったてえし。それは関係ないか。

                  

えー、ここで兜に関してもついでに申し添えておきたくなりました。

源平時代から南北朝辺りまでのエラい連中が着けていた「大鎧(おおよろい)」のセットでは、初めのうちは頭の上で縦に編んでいた「髻(もとどり)」を、兜の頂点に開いた直径数センチほどの「天辺(てへん)の穴」に通していたのが、それだと何かと不安定で痛かったりもしたものか、鎌倉期にはザンバラ髪に烏帽子をかぶって鉢巻きで止め、その烏帽子の先を引き絞って天辺の穴に通すようになった、ってんですよね。

それが本当だとすると、頼朝や義経はおろか、その百年以上も前の先祖、頼義だの義家だのが、兜を脱いだらザンバラに烏帽子って格好で出てきたら、そりゃ相当な間違いってことになりましょう。昔NHKでやってた『炎立つ』って大河ドラマではさすがにそこはちゃんと再現してたようですが。

ああ、でもその同じドラマの最初のほうには、平安初期の坂上田村麻呂がおんなじ格好で出てきたんでした。昔からよく見る、関ヶ原が終った途端に突然幕末のような姿になり、大坂戦争でまた戦国に逆戻り、ってな考証無視の江戸初期ものと通底する、政治史区分と文化史区分とがごっちゃになった例ではないかと。德川三百年の服装は全部こう、平安時代なら400年変らずこう、とでもいうような。

8世紀末から9世紀初頭なら、まだよっぽど埴輪のような装備に近かった筈。てえか、こないだまで奈良時代だったのが、京都引っ越した途端、瞬間的に世の中全体が平安時代に様変り、なんてことがあるかってのよ。その田村麻呂の凱旋場面から2世紀半ほど後の前九年とか後三年のほうはかなり写実的にやってんのに、こはいかに?ってところですが、こいつぁ恐らく、制作現場が考証担当者に諮ることなく勝手にやっちゃったってことなんでしょう。同じ「平安時代」だし、ってことで。

同様の事例はその2年ばかり前の『太平記』でも見られました。タイトルバックに毎回出てくる騎馬武者の群れが、源平もので見慣れた大鎧姿ではありながら、全員右腕を左と同じに籠手(こて)で固めていて、こりゃあかなり期待できそう、って油断してたら、話が進むにつれてだんだん時代を逆行し、右腕は無防備に着衣の袖を絞っただけっていうやつばっかり出てくるようになっちゃって……。

その、右だけ膨らんだ袖のままってのは、弓を引くには都合がよかったんでしょうけど、鎌倉末にはすっかり時代遅れ。「われこそはぁ」などといちいち叫んでるうちにやられちゃう仁義なき元寇の影響により、それまでの国内のいくさでは大将格には無縁だった白兵戦もあり得る、ってことになったからなんだとか。とにかく、尊氏だの正成だのの世代なら、とっくに両腕を防護するのが基本形……だったんですけどねえ。見て来たわけじゃないけど。

                  

おっと、また逸脱に耽ってしまった。腕じゃなくて頭の話でした。それについてはまた次回。どうもまた長くなっちまって。

                  

付録……ってこともないけれど、ついでのことに、その中学生向け原文にも引用していた写真を以下に。


これが南北朝頃の月代の例。小学生の頃は、教科書に載ってたこの絵を見て、てっきり禿げてんのかと思っちゃった。

長らく足利尊氏、ってことになってましたけど、ほんとは誰だかわかんないらしい。尊氏だって言い出したのは前世紀になってからで、結構すぐに異論も唱えられたようですが。仮名手本で吉良になぞらえられた、ハナは尊氏の番頭役だった高師直だとか、あるいはその息子だなどとも申します。いずれにせよ、14世紀頃の装備を写実的に伝える絵画史料ではありましょう。ほんとはいつの絵なのか、ってところからして、実は他の事例と同様、はっきりとはわかんないのかも知れませんけれど。

右肩に太刀をかついでるところなどは、幕末、明治初期まで伝えられた武士の作法、ってより常識のとおり。抜き身をブラブラさせたんじゃ危なくってしょうがねえ、ってことで。右手にはやはり籠手を着けているように見えますね。

それにしても、兜も烏帽子も見当らないのは、顔を描いて貰いたかったから? 箙(えびら)の矢が1本だけ折れていたりと、なかなかにあざとい演出も感ぜられますが、もとより「写生」ではあり得ませず。兜も烏帽子もなくなっちゃうほどの激戦ぶり、ってところを誇示せんがための、やはりヤラセに類する仕口ってことだったりして。

あ、戦闘上の効率を優先し、自ら邪魔な兜を脱ぎ捨てて奮戦、ってこともあったとか。その場合だって後から回収するんじゃないかしらねえ、討死にでもしなければ。もったいないでしょう。いずれにしろ大きなお世話。先刻承知。
                  


これは戦国後期に普及したという月代の形。生前の信長を写生したものではないとのことですが、この人の頃から、平時でもこのように頭を剃り上げとくのが流行り出したようで。てえか、それまで抜いていたのを、いっそのこと剃っちゃえば?ってんでやり出したのがこの織田信長だっていう専らの噂。これを「大月代」と称する由(当然と言うべきか、一気に変換しようとしたら「大阪焼」だってさ)。そりゃまあ、抜いた上に蒸れちゃった日にゃあ炎症必至。痛そう……。

とにかく、防具としての兜の性能向上とは裏腹に、通気性が低下(天辺の穴も消滅)したための苦肉の策だったのが、やがて非戦闘員の間にも広まり、江戸時代には男子一般の風俗として明治まで定着することに。ただし、経時的な流行の変遷はかなり激しく、時代劇で見慣れた髪形は、実際にはどの時代にもなかった、言わば架空の結髪法。

まあ、末期の化政天保期なら、だいたいあんな感じではありましょうが、宛も言いわけのように、ちょっとだけ長めの髻(もとどり)の位置を下げ、ちょっとだけ短めの髷(まげ)との間に角度を付けたカツラが、ときどき元禄期の描写に用いられていたりもします。いずれにしろ月代が小さ過ぎて、まったく当時の再現には及びもつかず。その前に、これは時代の違いにかかわらず、もみあげの下端から残らず引っ詰めってるところがまず、現実には到底無理っぽいし。

黒澤明も結構そうでしたけど、溝口健二などは相当に現実的な描写に拘り、常に実相の再現に努めていたのが映画観ればわかるんですが、普段見慣れたものが昔の実際の風俗だと思い込んでいる人(殆ど)には、かなり意外な、と言うより異様な姿としか思われぬようです。

西部劇に本格的な考証を導入したのはイタリア人のセルジオ・レオーネで、それ以前に本場のアメリカで制作された名画の多くは、日本の時代劇に通底する非現実的な絵に事欠かない、とも申します。確かに、ジョン・ウェインが出てくるようなやつに比べれば、何十年も後のクリント・イーストウッド作品のほうがずっと本物っぽいのは明らか。大半の時代劇はまだまだその水準に遠く及ばず、ってのが実態なんですよね。

それがどうした?

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