「烏帽子の風俗?」という投稿の初めのほうで、〈頭より腰のほうがよほど大時代〉などと書いておりましたが、今さらながらそれを蒸し返そうとの魂胆。ついては、しつこくて恐縮ですが、まずは前回に引き続きその同じ写真を掲示。
(……しつこくてすみません) |
さて、刃を下にして吊り下げる(=佩く)太刀は、常用としては16世紀後半に時代遅れとなり、江戸時代は初めから刃を上にして帯に差す「打刀拵(うちがたなごしらえ)」が普通です。普段はまさに大小を「差して」いるわけですが、これ、大きいほうは3つとも「太刀拵(たちごしらえ)」であり、「猪首」の河津氏と同様、腰にぶら下げてるんであって(河津さんのはまた随分と古風で糸巻もない鎌倉風ですが)、3人とも差してなどいません。見てわかんないかな。右端の人は逆さにして手で押えてますけどね。
打 刀 |
太 刀
文字が滲んでいるのは、下拙のパソコン環境不備による、利用可能ソフトの処理能力限界の故と思し召されたく(金を惜しんでいるだけ)。
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この人が「猪首」の河津さん |
因みに「拵(こしらえ)」とは、刀装、すなわち刀の外装法や外装品のことです(本体が収まる柄や鞘、またその意匠)。太刀と打刀との折衷形とも言える半太刀拵(はんだちごしらえ)というのもあり、過渡期であった室町後期から江戸の初めにかけてのその初期形は、太刀のように刃を下に向けながら、つり下げるのではなく帯に差すものだったとのこと。上級武士のような太刀を所有しない雑兵階級の雰囲気も感ぜられます。
より後世の、一部に太刀と同じ「部品」を用いた打刀もやはり半太刀拵と呼ばれますが、こちらは飽くまで打刀の一種であって半太刀とするのは不当、との説もあるとか。なお、刃を下にする差し方は、江戸時代でも乗馬の際に用いられ、これを天神差(てんじんざし)と称する由。
幕末の「半太刀拵」の実例 |
上の写真では鞘の様子は見えないものの、一見して典型的な半太刀拵です。打刀で「柄頭(つかがしら)」という形状になっている部位に、太刀仕様の「冑金(かぶとがね)」が付いており、鞘の後尾も「鐺(こじり)」ではなく「石突(いしづき)」になっているに違いありません。(半)太刀に付き物である、鞘のやや後部を締めつけるように取り付けた「責金物(せめかなもの)」の有無はわかりませんが、恐らく付いているでしょう。
裏腹に、帯に差した打刀が中身ごと抜けぬよう施された瓢箪形の「返角(かえりづの)」はない筈です。もちろん鞘の裏側、「差裏(さしうら)」の「鯉口(こいくち)」(上手いこと言いますよね)付近に装着される「小柄(こづか)」はありません。前掲の打刀の図で、表側、「差表(さしおもて)」に装着されているのが見える「笄(こうがい)」も無縁でしょう。
因みに、太刀の場合は上下、表裏が逆転し、差表は「佩裏(はきうら)」、差裏が「佩表(はきおもて)」ということになります。
さて、こうした打刀様の半太刀拵には、実用本位で無骨な風情も漂いますが、このとおり愛用者は結構いた筈なのに、時代劇ではその殆どが渡世人のいわゆる長ドスで、武士の差料(さしりょう)としては相当な例外。それも主人公か敵役(かたきやく)に限られるようで、とにかく普通じゃないサムライであるのを示すための演出という感じになっています。制作者はこれをヤクザ専用の拵だとでも思ってるんでしょうかね。
それにしてもこの写真の一品、整然たる柄巻が実に見事。その巻き方も、時代劇では見ることのない「諸撮巻(もろつまみまき)」というやつで、実は近世(中世から?)最も一般的だった様式。
時代劇の小道具や、居合刀、模造刀など、現代普通に見られる刀には、ほぼ例外なく「諸捻巻(もろひねりまき)」というのが施されてるんですが、辛うじて現存する昔の拵の写真を見ると、殆どが諸撮巻、または下側の糸を捻り上側だけを撮む「片捻巻(かたひねりまき)」=「片撮巻(かたつまみまき)」になっています。他にもいろいろな巻き方があり、糸の種類もかなり豊富。
当初は藤や葛の蔓を「平巻(ひらまき)」で、つまり捻ったり撮んだりせずにそのまま巻いていたようなんですが、そもそも柄巻自体の普及が室町時代で、鎌倉頃までは何も巻かないのが普通。「糸巻太刀拵[いとまき(の)たちごしらえ]」というのも室町以降の様式のようで、これ、柄だけではなく鞘の一部にも糸を巻いたやつのことです。前掲の太刀の画像もそれですね。
鞘にも巻くのは、鎧との摩擦による損傷防止などが元来の用途だったとのことで、早くも平安(12世紀)末には主に革紐を平巻にしていたとも言いますが、装飾性がより重視されるようになったのが、室町(15世紀)以降の糸巻太刀ということなのではないかと。
組紐が多用されるようになるのは江戸時代以降で、江戸も初期までは革紐が多かったとのことですが、とりあえず、この一連の与太話の原文である、2010年に知人の娘さんに向けて作成したワードのファイル中に、ネットで拾って挿入した画像を掲げておきます。ただしいずれも現代の製品に施されたもので、撮巻は前掲の幕末の写真に比べるとかなり雑な仕上りになってますねえ。紐の違いによるものかも知れませんけれど。
諸 捻 巻 |
諸 撮 巻 |
ついでのことに、当時中学生だった件の娘さんのために作成した簡単な説明図もありましたので、それも以下に。イラストレータファイルの原図は、使用ソフトのバージョンが古過ぎて(20世紀の製品、しかも貰い物!)とっくに開けなくなっており、唯一使えるのが、そのワード文書に取り込んでいたPNG画像。文字がつぶれてますけど、どうぞ悪しからず。
それはそうと、諸捻巻こそ柄巻の基本、という記述ばかり目につくのですが、上述のとおり、遺存する現物の写真を見ると、この写真集に写っている殆ど全部の例と同様、諸撮巻や片捻(撮)巻のほうが圧倒的に多いのはどういうわけでしょう。いずれにせよ、時代背景を問わず、時代劇では一度もこの撮巻というのを見たことがありません。実際はそっちのほうがよほど普通だったんですがねえ。
柄糸の色にしても、なぜか殆ど黒一色になってますが、実際は結構多彩だったと申します。細かい規定はあったものの(白は殿様級だけとか)、どいつもこいつも黒ばっかりってこたなかったんじゃないかと。その黒も、「烏帽子の風俗?」で触れた鉄漿(かね=お歯黒)を用いたため、経年変化もあり、現代の染料とはだいぶ風合が異なるとのこと。糸の材質や組み方もいろいろなので、その辺で少しでも多様性を出せば、時代劇だってぐっと現実味が増すだろうに、と思うんですがねえ。またぞろ要らぬお節介ではありますが。
この写真集に載っているものも、モノクロなので色はわからないながら、濃淡の違いから黒だけということはないと思われます。柄巻も糸ではなく一見して革紐であろうという例も見られます。
ところで、烏帽子三人衆のキャプションにある「大小刀」って、「だいしょうとう」とでも読むんですかね。両刀に同じ体裁を施したセットが「大小拵(だいしょうごしらえ)」なんですが、それぞれを大刀(だいとう)、小刀(しょうとう)とは言っても、両方合せて「だいしょうとう」とはついぞ聞きません。「小刀」は「ちいさがたな」とも読み、浅野が吉良に斬りつけてしくじる殺傷力の乏しい儀仗用がそれ(刺殺なら充分?)。
「大小刀」という表記で「おおこがたな」という読み方ならあり、刀の装飾品である小柄に取りつける刃、すなわち「小柄小刀(こづかこがたな)」を大きくしたようなナイフ状の短刀を指して「大小刀造(おおこがたなづくり)」と言ったりはするものの、ここで言ってんのは、「本差(ほんざし)」と「脇差(わきざし)」を合せた「大小」のことでしょう。(ひょっとすると、「小柄」という言葉自体が、ほんとは「小刀柄(こがたなづか)」を縮めた言い方だったりして……)
なお、脇差と言えば、江戸時代には大小拵の小のほうを指し、正式には長さにも規定があったものの、元来は文字どおり予備的、二次的な刀剣の総称。ごく短かった先述の「刺刀」から発展したことになりますが、長さや形状はさまざまだったようです。
因みに、脇差だけなら庶民にも所有が認められ、大坂辺りでは常時1本差している町人も多かったとか。旅行者の標準装備である道中差(どうちゅうざし)ってのもありますし、規格外の、大刀に準ずる長さを有する長脇差(ながわきざし)とか大脇差(おおわきざし)――「ナガドス」って言いますな――も、所持自体はあながち違法とは限らなかったようです(あるいは今日に通ずる「ザル法」の類い?)。
秀吉が刀狩りを思いついたのも、刀が決して武士の象徴でも特権でもなかったからであり(だって自分が百姓の出じゃん)、江戸時代になっても、飽くまで2本差しているのが侍であって、それを明示するのが大小拵だったというところかと。
大 小 拵 |
写真は、「殿中差(でんちゅうざし)」「裃差〈かみしもざし」「番差〈ばんざし〉」などと呼ばれる大小拵です。既出の「打刀」の写真はその「大」のほう……って、見りゃわかりますね。両刀ともに鍔(つば)の近くに笄の頭部が見えており、差裏の側には小柄がある筈です。返角の位置から推すと18世紀風?
小柄小刀(こづかこがたな)―― これを小柄に挿し込む
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[小刀(こがたな)を取り付けた]小柄(上)と笄(下) |
小柄の着脱
因みにこの脇差の柄巻も撮巻(革紐)
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表側(柄のほう)
左が小柄、右が笄の穴(櫃)
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なお、鍔に空けられた穴は「櫃(ひつ)」と称し、刀の根元部分である「茎(なかご)」(「中に込める」の意から。「中心」とも表記)を通す中央のものは「茎櫃(なかごびつ)」となります。
茎(なかご) |
時代劇では、浪人だろうが何だろうが殆どのサムライが大小揃いの拵を無造作に差してますけど、これも随分現実味の薄い絵であると言わざるを得ません。また、大小拵に付属する笄も一切見たことがありません。時代劇ファンの大半はその存在すら知らないのでしょう(制作者も?)。なお、「こうがい」とは「かみがき」(「かみかき」)、即ち「髪掻」の音便による名称で、元来は整髪用具です。
一方、笄とセットのような小柄は、腰に差した状態では鞘の差裏側になるので見えなくてもしかたありませんが、明らかに小道具の刀には初めからそんなもん付いてませんよね。それなのに、ときどきその小柄を手裏剣のように投げつける場面は出てくるんです。本当はそのような用途のものではなく、携帯用小形ナイフ(の柄)で、武器ではないし、だいたいその小柄をどこに仕込んでたってんだか。
時代劇で見る刀には、上掲の如き穴あきの鍔ばかりが付いているんですが、その穴に通すべき肝心の笄は一度も見たことがなく、まさか差裏側の穴だけはちゃんと活用して小柄だけはしっかり装着している、なんてこたないでしょう。裏側と言ったって、差し込んであれば頭がその穴から覗くわけだから、一度も見たことがないってことは、やはり初めからまったく付いていないということで。
実際には初めから穴のない鍔も少なくなかったのは既述のとおり。一方にだけ穴が空いていたり、後から1つまたは2つの穴を塞いだ例などは、正式の殿中差仕様だった鍔を改造したものと思われます。
いずれにしろ、そのない筈の小柄をいったいどこから引っ張り出して投げつけるものやら。制作者の誰一人として疑問を抱くことすらないんでしょうか。まあ、投げる時点で使い方間違えてるわけですが、達人なら道具を選ばず、手近の物を何でも有効な武器に利用、っていう凝った演出だってんなら、それを楽しむべきものなのかも知れないけれど、どう見てもそれ、初めから小柄を手裏剣の一種だと誤認しているとしか思われませず。
これもまた、典拠不明のまま、実際にそのような技が確立していた、と主張する古武術家などもおりますけれど、いくら確かめようとしても、近代以前の記述にそんな話は見いだせません。だからと言って作り話だと断ずるのは本来禁物ではあろうし、単に自分が見たことないというに過ぎないのは先刻承知。下拙も断定的な口調で語るのは控えるべきとは思えど、それを言い出したら、ここに書いていることなど、他のすべての方々の記事と同様、と言うより、あらゆる「定説」に等しく、ほんとのことなんかもうどうせ誰にもわからない、という身も蓋もない認識こそが最も妥当……ということになっちゃったりして。ふ、何を今さら言いわけしてんだか。
そう言えば、50年ほど前の小4から小6にかけて、著名な日本史キャラ所用を謳ったプラモデルの太刀や大小をいくつか作ったんですが(諸捻巻はそれで知りました)、大小拵の場合は例外なく、笄が付いても大だけ、小のほうは小柄だけだったんですよね。いずれも差裏は何もないのっぺり状態。果してどこまで実物に忠実だったものやら。後年入手した刀装図鑑の類いやウェブで見る写真では、どうも両刀ともに笄を差表に装着した例ばかりのようなんですが。
ところで、大小拵に付き物のこの笄というやつ、実は打刀の出現よりずっと古くから存在し、平安時代からあった「腰刀(こしがたな)」と呼ばれる鍔のない短刀に付属するものだったってんですよね。いずれにしろ、そうした短刀類と同様に刃を上にして腰に差す大形のものが後代の打刀ってことになりますが、それにも同じ付属品が踏襲されたというところでしょうか。
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