2018年2月24日土曜日

とんだアイデンティティ違い

手抜きではありますが、2016年9月18日のSNSへの投稿をここに再録したくなりました。

カタカナ外来語のみならず、外国語に対して不用意に付された字音語訳(和製漢語)にもありがちなことですが、ときに原語とは語義が乖離してしまっている例が少なくないんですよね。

困るのは、飽くまで国語である外来語と、元の外国語が同一であるわけはない、というわかり切ったことがまるでわかっていない英語通(だと自分を思い込んでいる人)が、翻訳仕事の発注者(である企業の職員)だったりして、いちいち見当外れの指図をしてきたり、こちらの訳にトンチンカン極まる朱を入れて「もっと勉強しなさい」などとほざきやがること。

                  

まあ、個人的に直接請け負うことは稀だし、大抵は間にちゃんと心得た翻訳会社(ブローカーということに)の担当がいますから、こちらが直接どうこう言われることはあまりないんですが、それでも油断してると、忘れた頃に現れるんです、そういう驕った愚者が。

どうすりゃそこまで自分がわかってないってことがわからないまま威張って暮し続けられるものやら。一種の才能か?とさえ思っちゃう。いやその前に、自分が「通じている」などと思い込んでいるその対象、すなわち英語という外国語について、これまたいったいどうすりゃそこまでわかんないままでいられるんだか。いずれが因にしていずれが果なりや、ってところですね。

……と、またしても無益な愚痴に耽ってしまった。でもやっぱりいつも不思議なのが、そんなに英語がわかってんならハナからてめえが訳しゃいいじゃねえか、ってこと。どれほど支離滅裂な訳文だろうと、見ぬもの清し、俺の知らねえところに出回る分には一向に構わず。ま、そんなもんを読んで勘違いする被害者、およびそれを受売りされる二次被害者については、多少気の毒なところもあるけれど、こっちゃあそれどころじゃねえし。

いけねえ、愚痴が止んねえや。とにかく下記がその過去の投稿文ってことで――

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過日、あるニュースサイトの記事で以下の一節に遭遇致しました。

〈自分が自分であることを証明する要素のことを、アイデンティティと呼びますよね。日本語だと自己同一性という訳を当てられますが、実は英単語のidentityには、人やモノの正体とか、身元という意味もあるのだそうです。〉

こうまでキッパリ言われると、「ああ、そうなんですか」としか申し上げようもございませんが、これこそ安易な誤訳が流布、定着してしまった典型例ではないかと。これ、「自分が自分であることを証明する要素」ではなく、単に「何者であるか」が ‘identity’ でしょう。自分に限るわけでもなく、もちろん「自己同一性」でもなければ、そもそも「同一性」、すなわち「同じであること」などという意味ではありませず。

                  

語源(の1つ)であるラテン語の ‘idem’ は、「同じ(もの)」を指す指示代名詞だそうで、現代の英語でもそのまま「上(左)に同じ」という意味の副詞として使われますから、確かに「同一」というのがもともとの語義に近いとは申せましょう。しかしその ‘idem’、英語の ‘it’ に相当する ‘id’ の派生形とも言いますから、「同じ(もの)」というよりは「それ/その」というのがさらなる原義。

人称代名詞である ‘it’ とは異なり、本来はやはり指示代名詞(英語だと ‘this’ とか ‘that’ とかの一派)だったものを三人称代名詞に転用、とのことですけど、人称代名詞ということは、個々の事例・人物を他者とは切り離して個別に特定したもの、とでもいったところではないかと。「それ/その」ってことは「それと同一物/それと同一の」ってのと「同じ」ことだったりもするし。

ともあれ、その ‘id’ を語源(の一部)とする ‘identity’ は、ひとまず他者(人間に限らず)についての客観的な意味で用いるのが妥当、ということにはなりましょう。〈日本語だと自己同一性という訳を当てられますが〉という謬言については、単純に ‘self-identity’ という言わば修辞的熟語と、単語の ‘identity’ そのものとを混同した結果に過ぎないとは思いますが。

                  

因みに「人称代名詞」というのは、専ら話者(一人称)とその相手(二人称)、およびそのいずれでもない、つまり話に加わっていない者、あるいは加わりようのない人間以外のもの(三人称)とを画する文法区分で、実は日本語には存在しません。

って言うと、また何言ってんだ、おまえは、って糾弾されそうですが、国語では単に「人間に用いられる代名詞」とでもいう意味で使われるのが、この「人称代名詞」てえ文法語のような。

でもね、「私」も「僕」も「俺」も、「あなた」も「君」も「おまえ」も、また「彼(彼女)」や「あいつ」の類も、悉く普通名詞か指示代名詞(の流用)であって、「日本語は人称代名詞が豊富である」というのはただの勘違い。「人」を称するから「人称」なのではなく、発話や文章において、それがどういう立場のものであるかを一言で端的に指すのが、英語(その他)の「人称代名詞」= ‘personal pronoun’ なんです。

語源としての ‘person’ は、ヒトか否かを問わず、「役(割)」とでもいったところ。だから人間以外のものに多用される ‘it’ が代表的な「『人』称代名詞」だったりもするわけです。そういう固定、固有の機能を持った言葉は、どうも我が日本語には見当らないようで。

因みに、「我」だの「吾」だのという字が当てられる「わ」だの「われ」だのは、「己」を意味する朝鮮語と同源とのことで、「汝」と書かれる「な」だの「なれ」だの(「なんじ」だの)の代りに、と言うより区別なく、古くから一人称にも二人称にも用いられるところは、「おのれ」(己、俺)や「お前」、「手前」(てめえ)、あるいは「ぼく」だの「自分」(!)だのと同様で、いずれにしろやはり欧語における ‘personal pronoun’ のように専ら「人称」を示す語などではなく、その点はそれぞれに充当される漢字もまた、何せあまりにも昔のことなので判然とはしないにしても、解字的にはやはり初めから純然たる人称代名詞だったということはなさそうです。わかんないけど。

                  

閑話休題。この人称代名詞に対し、一方の「指示代名詞」は、人称、すなわち「構文上の3つの立場」とは関わりなく、話者(つまり一人称)が「どれ(何)のことを言っているのか」を指し示すのに用いる言葉で、それ自体は常に三人称です。

日本語の「これ」も英語の ‘this’ も、ざっと「自分に近いもの」を指す代名詞といったところですが、一旦どれの話をしているのか確定してしまえば、もう「指示」の必要はなくなるので、英語では二度目からは使われません。駄目押しのように念を入れるとかいうのでもなければ、新たに別の何かを指示していることになってしまいます。最初に指示詞によってどれのことか、何のことかが確定した後は、その「どれ(何/誰)なのか」(それこそが ‘identity’ だったりして)を明示する人称代名詞の ‘it’ が取って代るという寸法。

その点、先述の如くその人称代名詞を欠く日本語では、依然として「これ」は「これ」のまま引続き使われる、というわけです。 ‘he’、 ‘she’、 ‘they’ も役どころは ‘it’ と同じですが、一人称、二人称は、初めから誰(どの者)を指すのかわかり切っているので、指示の必要などなく、いきなり ‘I/we’、 ‘you’ が出てくるという次第。

尤も、電話での話し始めでは、 ‘this’ が自分、 ‘that’ が相手だったりしますが……と思っていたら、米ではどうも ‘Is THIS ...?’ で「~さんですか?」ってのが普通らしい。ま、「私は~さんですか?」たあ言うめえから、混乱の気遣いもなく、単純に英式米式いずれの系統の話者かが知れる、ってところではありましょう。イギリス人だって、かけて来たやつがちゃんと名乗らなかったりすれば、 ‘Who's THIS?’ とは言うだろうし。「いったい誰?」って感じで。

                  

さて、 ‘that’ が「あれ」で ‘it’ は「それ」だろう、などと素朴に捉えている人もおりますが、 ‘it’ は飽くまで人称代名詞。それが日本語には初めから存在しない、ということなんです(あんまりはっきりそう言ってる人も見当りませんけど)。逆に英語の指示代名詞には国語における「それ」と「あれ」の区別がなく、どちらも ‘that’ なんですよね。つまり「自分から遠いもの」を指すだけで、「自分より相手に近い」か「自分からも相手からも遠い」かの違いには無頓着。文脈上まず混乱の心配はありませんし。

むしろ、こうした指示代名詞が人称代名詞(的なもの)に転用される日本語では、「これ」も「それ」も「あれ」も、結局英語における人称代名詞に対応すべき明確さは持ち得ず、実態は「人称を表すのに利用される各種の言葉」というに過ぎません。「こなた」(こっち)、「そなた」(そっち)、「あなた」(あっち)のいずれもが二人称に用いられるかと思うと、「彼」にはもともと性別どころか人か物かの区別すらない、というように、とにかく ‘personal pronoun’ に相当する言語表現を決定的に欠いているのが日本語、ってことになるような。

                  

だからって別に困りゃしないのに、近代以降、西洋の文物を熱心に取り込む過程で、もともと国語にはなかった ‘he’ と ‘she’ を言い分けんがため、前者に「彼」、後者には「彼女」などという無理やりの訳語を付してしまい、それが今では日常的「普通名詞」として不可欠の存在に成りおおせてはいるものの、結局「人称代名詞」としては定着せず。と言うより、もともとなかったってことは、今だって必要ないわけで、「あの人」とか「その方」とか「こいつ」とか、つまりは連体詞+普通名詞(こいつ=こやつ=このやつ)で表すのが未だに基本。

その「彼氏/彼女」という普通名詞の基になった訳語の人称代名詞(もどき)が考案される遥か以前に、「彼」と表記される語は、「かれ/かの」(カレカノに非ず)が崩れてとっくに「あれ/あの」という横着な発音で多用されるようになっていたし(「あなた」もほんとは「かなた」だったってことで)、「彼女」と書いたら「かのじょ」なんていう湯桶読みではなく、「かのおんな/あのおんな」としか読みようはなかった筈。わずか百年ほど前でもまだそのほうが普通だったでしょう。

一方、英語で三人称代名詞にのみ性の区別があるのは、単純に直接話をしている者どうしにはお互いそれを言葉で峻別する必要がないのに対し、その場にいない者や、現実には存在しないものまでをも指す「彼(あれ)」については、予め雌雄の別を明示しといたほうが何かと便利だから、ってところですかね。ラテン語や他の多くの欧語とは異なり、屈折語(語形によって各語の文法機能が明示される言語)としての性質が希薄な(というより殆ど消滅した)現代英語では、全般に単語の活用が少なく(その分語順の規則が厳しい)、文法上の性別(gender)もあってなきが如し。無生物に‘she’を用いたりするのも、女性名詞ということではなく、単なる(ちょいと気どった)擬人法という、修辞技巧に過ぎません。

                  

ことのついでに申し添えれば、英語で唯一主格と目的格の違いを残すのが人称代名詞(の一部)ではありながら、その格変化がいかにも無秩序に見えるのは、数や性の別などによる活用が擦り切れ、混淆してしまった結果です。

何の話かと言いますと、主格が ‘I’ なのに目的格が ‘me’ だとか、 ‘he’ と ‘him’ に対して ‘she’ と ‘her’ だとかいった一貫性のなさのこってす。英語の目的格は、僅かな人称代名詞を除けば主格とまったく同じで、だから「通格」なんて呼ばれたりもするんですけど、「格」自体がもともと語形変化、というより個々の語形のことなので、形が同じならもはや格という観念自体が無用、というのがほんとのところ。

でも英語の名詞にだって何百年か前まではちゃんと格の別があり、目的格も、単に主格とは違うってだけじゃなく、対格(直接目的語の形)と与格(間接目的語の形)に分かれてたんです。奪格(受動態で用いられる前置詞の目的語の形)はなかったようですが(千年前にはなくなってた?)。

で、そうした格の違いや、単数複数、および男性、女性、中性のいずれであるかに応じて、かつての人称代名詞はそれぞれ固有の形(すなわち格)を持っていたのが、ここ数世紀のうちにすっかりテキトーになり果ててしまい、ご存じのとおり、 ‘you’ は主格と目的格、単数と複数が一緒、 ‘her’ は目的格と所有格が同形という体たらく。

                  

ここで蛇足を少々。現代文法では上記 ‘her’ の1つと同様、 ‘my’ だの ‘your’ だのは代名詞の「格」ではなく、独立の「決定詞」= ‘determiner’ とするのが普通(その「決定詞」自体が日本では未だに形容詞の一種という扱い)。学校では「独立所有格」などと習う ‘mine’ だの ‘yours’ の類も、 ‘I’ や ‘you’ の派生形というより、それとは別個の人称代名詞であり、それ自体が主語にも目的語にもなる、といった具合です(ただし形は同じなので格の違いを言挙げするには及ばず)。

どのみち文法なんてのは各研究者の「思想」であり、多数の見解を勘案、整理して得られた理論が、一般には「文法」と呼ばれているもの。当然、研究の深化につれて、その都度基準的文法も改められ、その点は自然科学と同工。日本における支配的な英文法なんて、ほぼいつの時代も最新の知見からは大きく遅れている、ってのが実態です。いや、国文法でさえ日本語の実状から乖離した恣意的な規範だったりするのだから、外国語については初めから期待しようもない、とでも言っときましょうか(またエラそうに)。

                  

話を戻しまして、 ‘her’ とはちょっと混乱のありようが異なるとは言え、 ‘his’ もまた所有格(実は決定詞)と独立所有格(実は ‘he’ とは別の代名詞)を兼ねていたりして、それもやはり語形の混用が習慣化した結果に違いありません。実のところ、古い英語の三人称代名詞は、いずれの性でも、単複を問わず皆 ‘h’ で始まり(ただし文字自体が今とは異なるので、ラテン文字による現代表記ではってことですが)、 ‘she’ は後から生じた音韻変化によるもの、 ‘they’ は指示代名詞による置換、とも言いますね。 ‘his’、 ‘him’ が男性/中性の所有格および与格(間接目的語)であったのに対し、女性の場合はそのどちらも ‘hire’ だったとのこと。それが後に ‘her’ へと転じたってことでしょう。

一方、主格と目的格を兼ねる(つまり名詞の通格と同じ) ‘you’ は、ほんとなら複数目的格であり、単数主格 ‘thou’、その対格(直接目的語)たる ‘thee’、および複数主格 ‘yee’、その対格の ‘you’ のうち、なぜか最後のだけが単/複、主/目を問わず使われるようになってしまった、というのが実情。単数の古形は、(独立)所有格の ‘thy’ や ‘thine’ とともに、今でも文語調の諧謔表現では現役ですけれど。

                  

休題閑話。ときに、一卵性双生児のことを ‘identical twins’ と言いますが、それは、日本と違って二卵性も多い西洋において、医学の未発達だった時分に「そっくりなほうの双子」として区別していた名残り。この ‘identical’ という派生形などはまさに「同一の」という意味の形容詞になるわけですが、現代英語における ‘identity’ の基本義は「同一性」ではなく、飽くまで「(それが)何者であるか」です。人称代名詞の欠落と同様、国語にはこれを端的に表す単語がないため、「身分」だの「正体」だのという近似表現もときに用いられるものの、実際はかなり意味の離れた「同一性」が夙に定着しているという次第。

しかしこの記事で何より秀逸なのは、〈実は英単語のidentityには、人やモノの正体とか、身元という意味もあるのだそうです〉というくだり。「だそうです」とはまた周到なる(?)責任回避の言辞ではありますが、「という意味もある」のではなく、上述のとおりそちらが基本義です。昔から英和辞典に載っている「同一性」という訳は、原語(語源ではなく現代英語)ではむしろ二次的な語義。

いずれにしろ、比較対照が可能な複数の要素がなければ、同じかどうかなど論じようもないでしょう。初めから1つしかないものの「同一性」を論うのは論理的に不可能かと。1人しかいない(筈の)「自己」の「同一性」など、あからさまな撞着表現と言うしかないのでは。「統合失調症」だの「精神分裂病」だのって言い方からも明らかなように、自己てえもんが2つ以上あったらヤバい、ってのが当り前の人情てえもんじゃねえですかね。

                  

さて、自然科学やら哲学やらの分野では、近代以降、西洋語の翻訳に当って、これに類する撞着語法が(安直に)用いられ、それがその後長らく定着してしまったために、今では修正もままならず、という例が多いものと思われます。「何者であるか」という、もともと国語の名詞では表現し難いこの ‘identity’ を、本来それとは用法を異にする「同一性」としてしまったのもその好個の例かと。

哲学では、「差異性」(difference? dissimilarity?)の対語にして「実在」の要件、とのことであり(何のことやら)、心理学などで言う ‘self-identity’ も、「自己と同一のものである状態」などと説明されてたりしますけど(あるいは等しく変らぬ一定不変の存在、状態を指すのが「同一」の意だとも)、ひょっとすると最初に「同一性」って訳しちゃった故の、それに対する義理立てのための牽強に過ぎぬのでは……などというのは門外漢の世迷言?

でも、少なくとも現代の英語圏で ‘identity’ と言ったら、十中八九「同一性」ではなく「正体」とか「身分」とか「特性」とか「個(別)性」とか(どう言ってもしっくり来ませんけど)のことであり、分けても ‘self-identity’ は比較的新しい造語(19世紀)なのだから、ラテン語だのギリシャ哲学だのに遡って「自己同一性」などと称するのは、やはり的外れとしか思われません。 ‘identity crisis’ (自己喪失?)は1954(昭和29)年、 ‘identity theft’ (なりすまし)は1995(平成7)年の初出ということですが、いずれも「同一性」じゃわけが知れんでしょう。

眼目たる ‘self-identity’ は、1841(天保12)年に英国の詩人 John Clare が「発明」したということになってまして、「他者でななく自身による自己の認識(=self-recognition)が肝要であり、それによって社会的存在の喪失からも救われ得る」という趣旨の散文で使用、ってことです。さらに、「他者から認識されるのではなく、自ら何者であるかを明らかにすること」という意味でこの ‘self-identity’ という表現を考案したそうで、つまりは「自分が何者であるかは自分自身で決めるべし」との論。これは「自己規定」とは言えても「自己同一性」ではあり得ない……って思うのも、俺がトーシロだから?

                  

でもねえ、例の ‘UFO’ = ‘Unidentified Flying Object’ だって「未確認飛行物体」ってえから意味が知れるんであって、これを「未同定」だの、ましてや「未同一化」なんて言ったらまったくの判じ物じゃあござんせんか。「未確認」は不正確で、正しくは「(既知の何物とも?)同定し得ず」という意味である、なんて文句言ってる人はいませんぜ(私の知る限り)。

いやそれより、 ‘identical’ からさらに派生した ‘identicalness’ だの ‘identicality’ だののほうが、よっぽどはっきり「同一」って意味になるんだけど、それって実は ‘identity’ とは正反対の意味、つまり「『他者』と同じであること」になっちゃうのよね。ふつう「同一」って言ったら、日本語だってそっちの意味でしょう。自分が他人と何か同じ状態であるときに、その他者と「同一である」と言うのであって、「自己同一性」なんざ通常の言語感覚では紛う方なき自家撞着。「ぼくがぼくであること」(山中恒の本の題目)をいちいち「自分が自己(であるもの)と同一であること」なんて言うもんかね。「自分が自分と同じかどうか」なんてのは、哲学ごっこでもやってんでなきゃ、まったくの寝言。

あれ? 哲学に恨みでもあんのかしら、僕。そう言や、和訳された西洋哲学の名著は枚挙に堪えませんけど、その文章はどれも「わざとか」ってほど晦渋。そんなの読んでわけわかる人はほんと凄いと思います(すみません、ちょっとバカにしてるところも)。そもそも「哲学」てえ訳語自体がいかにも仰々しいし、明治以降盛んに訳された諸外国の著述群も、結構とんでもない誤訳だらけ、ってことは夙に知られているのでは。

十代の頃にちょいとヘーゲルの日本語訳を読んでみようかと思ったら、あまりのわけのわからなさに半分も読まずに放棄したって苦い思い出もあります(訳が古過ぎたかも)。ところが、20年ほど経ってから(それ自体が既に20数年前)、半分英人の姪に勧められて同じ本の英訳を読んだところ、その文章の明解さ、理路整然ぶりにびっくり(中身は忘れました。納得したわけでもなかったし)。

どうせドイツ語なんざ読めませんけど、少なくともあの独特の難解さが日本語訳の所産であるは明白かと。母語の筈の日本語より、後から習得した外国語で読んだほうがよっぽどよくわかるって何よ。あれを和訳した人はちゃんと理解してたのかしら、とさえ思えてきます(結構エラい人だったりして。憶えてないけど)。「substance が subject」って言われりゃ、なるほどそうか、って思うけど、「実体は主体なり」って威張られたって、その「実」と「主」の違いって何よ、みたいな。ああ、おんなじって言ってんのか。ふぅん……(つまんねえの。てえか了見が知れねえや)って感じ。やっぱりおいらが特別鈍いんでしょうかしら。

                  

趣旨の逸脱、ご容赦。わざとです。すみません。

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……重ねてすみません。以上がその再録分です。いつに変らぬ言いがかりでした。

実は、改めて読み返したらちょっと気に食わないところもあり(毎度のことですが)、後から少々の修正とかなりの加筆を施しちゃいました。まあ、いいか。

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