2018年2月14日水曜日

すべからくすべき?

先般の投稿でケチをつけた、小学館の大辞泉調べによるという2013年のウェブ記事では、首位の「ハッカー」に続いてその他の誤用についても紹介されており、あの投稿の基になった長文(あれよりさらに長かったんです)ではそれらについても言及した上、触発されたように思い浮かんだ別の例についても書き込んでおりました。そのときに思いついたさらなる類例も加えて以下に記そうと思います。しつこくてすみません。文体は原文どおりですが、単なる横着によるものにて。

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確信犯、姑息、悪びれる……

さて、件の記事によれば、

〈間違いの第2位は「確信犯」で、本来は「信念に基づいて“正しいことだ”と思い込んでする犯罪」だが、「悪いことであるとわかっていながらする犯罪」と間違って使っている人が73%に達した〉

とのこと。知ってはいたけど、こりゃもう派生義として(誤用の慣用化ってことで)とっくに受容されてるもんだと思ってました。

このほか、

〈「姑息」(本来:一時しのぎであるさま→誤用:ひきょう〔←なんで平仮名なんでしょ?〕であるさま、〈「<話の>さわり」(同:話の要点→話の最初の部分)、「悪びれる」(同:卑屈な態度をとる→虚勢を張って悪事を働いても悪いとは思わない態度をとる)などがあがった〉

ってんですが、「姑息」がそんなふうに間違えられてるとは知りませなんだ(因循姑息な役人なんぞは、確かに概ね卑劣怯懦でもありましょうけど)。「歌のさわりを」って言って冒頭だけ歌う人は昔からよくいますな。「悪びれる」は「姑息」と同じく、そういう勘違いが横行していたとはつゆ知らず。

「ことが露見しながら悪びれた様子もなく」ってのは何かい、「居直るそぶりも見せずに堂々としている」ってことなのかい。「バレたとあっちゃあしかたがねえ」ってのも充分堂々としてませんかね。同語反復、ではなくて撞着語法になっちゃうのでは。「悪びれるところのない振舞い」ってえと、おりゃあてっきり「毅然たる態度」みたようなもんかと思ってた。なんだ、それでいいんじゃん。どっちかってえとこれ、反対の意味になっちゃってんのね。

いや待てよ。ことによると世間ではこれを確信犯的態度(正しい意味での)を表すのに用いているのかしら。つまり、初めから悪いことをしたなどとは思ってもいないのだから、無論開き直る必要とてなく、あっぱれ泰然自若たるものである……とか。なるほど、それなら自家撞着にも当りませんな。どうなんでしょう。

さて、このほか〈言い間違いされる言葉〉の一例として〈誤:声をあらげる(本来:声をあららげる)〉というのも挙げられているそうですが、これについては近年ちょいと苦々しく思っていたので、「ほらな」って感じ。

                  

また、記事にはありませんでしたけど、「同級生」という言葉も、昨今は私の認識から乖離した用法が目立つようになっており、一時はかなりまごついたものです。かつては専ら「同じ学級の生徒」、すなわち「クラスメート」を指す言葉だったのが、いつの間にか、同学年、同年齢の者をひとしなみに言うようになってますね。

「同級」には「同じ等級」のほかに「同じ学級」という意味があり、「生」がつくのは後者のほう……だったんですけどねえ。飽くまで同じクラスに所属する(あるいは以前所属した)者のことであって、よその地方はおろか、別の学校、それどころか隣の組の生徒であっても「同級生」とは言いませんでしたよ。いつからこんな妙なことになってしまったものやら。

若い頃に購入した複数の国語辞典を見ると、いずれも「同級」の項に2つの語義、すわなち「同等」と「同学級」が挙げられ、「同級生」という語例は後者のものとされているのに対し、輓近では「同学年の者」という粗放な拡大解釈を追認するかの如き語典類も多いようで。ま、いいけど。

                  

あと、これも言及はなかったんですが、だいぶ前から「おもむろに」と「やおら」という同義の副詞が、どちらもまったく正反対の意味で使われてるんですよね。前者は、「徐」という漢字が当てられるところからも、決して「突然」なんて意味にゃならない筈。「徐々に」ってのを「急に」ってことだと思ってる人なんかいないでしょう。「徐行」っていう表示の意味を逆にとっちゃったら相当にヤバいのでは(「ヤバい」の意味も変っちゃってる?)。

後者の「やおら」などは、意味だけでなく言い方までおかしくなっちゃってて、ここはどうしたって頭高(あたまだか)型とすべきところ、当今はNHKでもよく平板型で言ってますな。「海女さん」とは逆方向の風潮。ヤだ(「海女」だろうが「尼」だろうが、単独では頭高、「さん」が付くと平板……かつては)。

さらに、これは調査項目になってすらいなかったでしょうけど、近来は1人きりで練り歩いたり、はたまた1人だけ偉人を輩出したりと、なかなかシュールな語法も耳に致します。こうしてボヤいていると、ちょいと古老にでもなったような気分に。

敷居が高い、星月夜、憮然……

さて、いよいよ調子に乗ってきちゃったようで、その他にも思いついた間違いを羅列することに致します。まず、気後れして入りづらい高級店などを指して「敷居が高い」と言っている例によく接しますが、これって「不義理があるため気が重くて訪ねるのがためらわれる」っていうような意味でしょう。以前より誤用の頻度は確実に増してますね(てえか、殆どそればっかり)。

星月夜」(ほしづきよ/ほしづくよ)のことを、迂闊にも30歳を過ぎるまで「星も月も出ている夜」かと思ってました。「星が月のように明るい晴れた夜」の由。

憮然」を「ブ然」などと書いて、「ブスっとしてる」ってほどの意味だと思い込んでる人は昔から多く、明らかにその意味で使っている文章のほうが多いくらいですが、あたしは小学生のときに辞書で確かめました。だって意味わかんなかったんだもん。「憮」=「心」+「無」で、「憮然」とはすなわち「心なからしむる事態に遭遇した者の様子」とでも申しましょうか、「驚愕」もしくは「落胆」している状態、ですね。ビックリまたはガッカリってことで。

監督やコーチが選手に「を飛ばす」って言ったりするように、「発破をかける」ってほどの意味でよく使われる言葉ですが、「檄」の字訓は「めしぶみ(召し文)」、「さとしぶみ(諭し文)」で、原義は召集または説諭のための書類。決意を表明し、それによって、あるいはそれのために「多くの人を動かす/募る」というところがミソ……なのでは? 革命家が同志を集めるためにバラ撒いたりとか。

恣意的に」っていうのを、「恣」の訓である「ほしいまま」のとおり、単に「勝手に」って意味で使ったら、間違えてるって言われて驚いたことがありました。「故意に」ってことだってんですけど、これも既に小学生のときに確認済みです。新聞で見たけど読み方がわからず、漢和辞典を引いたんですが、当然意味も知れますよね。自分はこれを主に、為政者や官憲による民衆への暴虐(敢えてちょっと大仰に……でも近ごろはあながち冗談でもなくなってきたような)に対して用いております。

にやける」ってのを、自分も子供のころは「ニヤニヤする」、つまり「にやつく」と同じ意味だと思ってました。それだとどうにも意味が合わない文に遭遇し(山本周五郎だったかな)、中学生のときに辞書に当ってみたら、なんと……。専ら男について使用される語で、妙に艶めかしいとかなよなよしているといった意味だそうで。

後に語源も調べてみると、名詞「にやけ」をもじったものであり、中世(鎌倉? 室町?)の男娼「若気(にゃくけ、にゃっけ、にゃけ)」に由来するものと判明。近世の「陰間(かげま)」(江戸)、「若衆(わかしゅ)」(上方)に相当。基本的に客は同性愛者(両刀使いが武人や通人の基本?)ですが、江戸時代の陰間や若衆は女も相手にしたそうな。美少年であることが前提なので、自然女性ファンも多かったということで。男色、衆道と同義の「若道」という語もあり、読みは「じゃくどう」とも「にゃくどう」とも。

一方、「性癖」っていうのを、SだのMだのといった「性」的な「癖」として使ってる例に初めて触れたのは、せいぜい10年ほど前だったと記憶します。人気ミステリー作家による小説を読んでるときだったんですが、ひょっとするとその前から一般的だった間違いに気づかなかっただけかも。自分には飽くまで「ちょっと変ったクセ」っていう程度の認識しかなく、それも特に病的なものを指すわけではない、って思ってたんですけどねえ。辞書で確かめたらやっぱりそれで間違いありませんでした。
 

すべからく

以上、いろいろ並べてみましたけど、何と言っても「すべからく」ってのこそ間違いの筆頭なのではないか、と自分では思っていたんです。「すべて」をエラそうに言ったもんだと思い込んでる人が多いのはわかってましたけど、共通する部分は「すべ」ってとこだけじゃありませんか。「からく」は何だと思ってんだか。

「必須」の「須」の字訓であるのはみんな知ってると思うんですけど、もともとは「す」+「べし」=「すべし」の派生形で、「すべきことには」とか「そうでなければならないことだが」とでもいった感じ。口語体では対応する簡潔な連用句はない、というのが実情かと思われます。「是非とも」ってしとくのが最も穏当な手ではありましょう。

「べし」の連用形「べく」に助動詞「あり」を付すと「べくあり(=べかり)」となり、意味は結局「べし」と似たようなもん。それのさらなる連用形が「べくあらく」、すなわち「べからく」で、「すべからく」は「すべくあらく」の詰まったもの、ということに(「あらく」は「あり」の未然形「あら」に連用接尾辞「く」をくっつけたもの……ってこってしょう)。

「連用形」と言いましたが、「すべからくは」という言い方も(かつては?)普通で、その場合は「願わくは」とか「惜しむらくは」と同様、「すべきこと」という名詞として用いられていることになります。「恐らくは」というのも同類ですが、これはむしろ「すべからく」と同様、「は」という助詞を伴わずに副詞として使われるほうが多いのではないでしょうか。「いわくつき」とか「いわくありげ」とかの「いわく(言わく)」や、「思惑(思わく)」などの類は、専ら名詞としての新たな意味が生じた例とも思われます。「子曰く」(「のたまわく」とも読みますが)などは前者「いわく」の副詞的用例となりましょう。

「く」という連用接尾辞の代りに「ず」という否定助動詞を用いれば「すべからず」となり、やはり文語調ではありながら、こちらの意味を取り違える人はいないでしょう。たった一字の違いなんですけどねえ。

ところでこの「すべからく」、辞書には大抵「多く『べし』を伴う」というように書いてあるのですが、これを勘違いして、「すべからく」と来たら末尾は「すべし」(または「すべきである」など)としなければ間違い、と主張する向きも少なくありません。意味を解さず形だけをありがたがる愚、とでもいったところ。自分などは、そもそもそれって同語反復じゃん、とさえ前から思ってたんですけどね。

                  

だいたいこういう大時代な言い方ってのは、出自が漢文の読み下し(訓み下し)だからこそ。漢文に「須」ってのが出てきたら、それは「未来」の「未」(「いまだ」きたら「ず」)とか「将来」の「将」(「まさに」きたら「むとす」)なんかと同様、「再読文字」というやつ。

もともと日本語とは文法構造、てえか構文の了見がまったく異なる(どっちかってえと英語によっぽど近い)昔の中国語(風)の文章を、むりやり和文に焼き直す上での苦肉の策のひとつ。一文字のくせに、毎回長ったらしく2つに分断するという力技を要する表記なのでありました。

それで、「須」としか書いてなくても、まず「すべからく」と言っといて、その続きを読んだ(訓じた≒訳した)後、ダ・カーポよろしくまたこの字に戻って「(す)べし」で締める、っていう奥ゆかしくもしゃらくせえ作法。

いずれにせよ「べし」でなくちゃならねえなんてこたなくて、「べきなり」だって構わないし、何なら駄目押しのように「べかり=べくあり」とすりゃあ、いっそ開き直ったかの如き見事な同語反復ワザとはなろうじゃござんせんか。いずれも意味はおんなじ。「べきである」の文語版てえだけ。

                  

さて、後半が「べし」となる再読文字としては、ほかにも「当」、「応」、「宜」というのがあり、前二者は「まさに~(す)べし」、最後の1つは「よろしく~(す)べし」と読みますよね。意味は順に義務、確信、妥当といったところ。しかしそうなると、やっぱり「す『べから』く~(す)『べし』」のトートロジーぶりがますます光りませんかえ。

中には、「漢字は『須』と『可』に表記が分かれるのだから繰返しには当らない」などと寝惚けたこと言う人もいますけど、「須」の一字を勝手に日本語読みしてんだから、どういう字を当てようが、音声言語としての日本語ではまったくの同語。何の言いわけにも威張りにもなりゃしません。

あたしゃ自分の「恣意的な」こだわりで、お尻には「べし」を用いず、できるだけ「(し)なければならない」だの「ありたい/されたい」だの「であること」だの「(もの)とする」だのと言うよう努めてるんですが(曲のアレンジでも、よもや誰も気づきゃあするめえとは思いつつ、執念深く繰返しは毎回避けようとするヤツだったりしますので)、そうするとやっぱり「文尾はすべからくべしたるべし」と教えてくれる人が(たま~にですけど)いやがるんですね、これが。

なんでいちいち頭も尻も「べし」にしなくちゃならねえ、って昔から思ってたところ、もうかれこれ30年は前だったか、たまたま読んでいた本に大御所時代(化政天保期)の幕閣の発言が引用されていて、その中に「須く」が出てきたんですけど、それを受ける「べし」も「べく」も「べか……」もなかったんですよね。「なんでえ、昔の人だってやたらベシベシ言ってたわけじゃねえじゃねえか」と、何となく勝ったような気分に。まあ、当時の記録っていうだけで、実際にその老中だか何だかがスベカラクってしゃべったのかどうかは知れませんけど。

その「須く」、文中の一節でのみ機能していたのだとすれば、「べく(して)」とか「べかりて」とか「べきにて」とか、その他いくらでも「べし」の活用形で話を続けられた筈。でも文全体の末尾にも「べし」の一派はまったく姿を見せずじまいだったんですよね。文尾をどう結んでいたかは忘れちゃいましたが。
 

べきどめ

「結んで」で思い出した。例えば「日本は自主防衛すべき」などのように、近年「べき」という連体形(つまり名詞にかかる形)をあたかも終止形の如く扱う誤用がどんどん増えてますが、終止形は飽くまで「べし」ですので、そこはどうかひとつ。

でもそれって、係り結びが流行り過ぎて使い古され、中世に活用形の混乱が生じ、その結果が近現代の口語体である、ってのと似たようなもんだとすると、いずれそっちが唯一の正しい言い方ってことんなるんですかねえ。連体形の「ある」とか「する」とか、はたまた「うつくしき」の音便「うつくしい」とかが、終止形の「あり」や「す」や「うつくし」に取って代ったのと同じように?

係り結びってのは、なんせ話が古過ぎて諸説入り乱れてはいるようですけど、基本的には倒置による強調っていう修辞法でしょ? 漢文再読文字の「蓋」も、「なんぞ~(せ)ざる」(=なんで~(し)ねえんだよ)と、係り結びで読み下しますが、文中に「ぞ」だの「なむ」だの「こそ」だのという係助詞を用い、本来は後ろに名詞や助詞がくっつく連体形(または助詞がくっつく已然形)という半端な形で結ぶっていう気取った言い方……だったのが、使い過ぎで修辞効果が擦り切れちゃっただけでなく、その半端な形だった筈の連体形がすっかりフツーの終止形になっちゃった、とかいう話なんですよね。

已然形はほぼ「こそ」専用で(実はそうとも限らないんだけど)、柳生新陰流の「(山川の瀬々に流るる栃殻も)身を捨ててこそ浮ぶ瀬もあれ」の「あれ」とか、仰げば尊しに出てくる「今こそ別れめ」の「め」がそれ(それぞれ「あり」、「む」が終止形。ただし本来の発音は母音[ウ]を伴わない/m/だけ)。「好きこそ物の上手なれ」ってのもありましたね。原形は「なり」で、「む」と同じく助動詞。「あり」は動詞だけど、ラ変活用という全部で4つしかない特殊な型。つい思いついたまま挙げちゃいましたが、柳生流の極意、例としてはあまりうまくなかったかも。

                  

ところでこの已然形、口語文法の「仮定形」に対応、って言ってっけど、「已」の字訓(の1つ)は「すで(に)」で、どっちかってえとこれ、英語(その他)の「完了形」に近いような。「完了」ったって、「未来完了」ってのもあるとおり、必ずしも「既に終った」ことだけに用いられるわけではないのと同様、「されば」(そうだから)、「されど」(そうだけど)って具合に、後ろに何をくっつけるかによっていろいろな意味をなします。テキトーに挙げたこの2例、原形(終止形)は「さり」=「さあり」(そうである)、漢字は「然」が当てられるやつでした。

おっと、「されば」に対し、未然形に接続助詞を付した「さらば」は、「そうであるなら」ってことで、「さようなら」とか「じゃあ」も同じこと。日本語の別れの挨拶って、大半が「それでは」っていう意味だったのね。

                  

休題閑話。眼目は「べし」における「べき」、すなわち連体形のほうでした。かつては「うるわし」と「うるわしき(→うるわしい)」、「ながる」と「ながるる(→ながれる)」のように、連体形と終止形が別々って活用語が多かったのが、口語では両者が全部おんなじになっちゃってんですよね。だから、「べし」と言うべきを「べき」とするのも、係り結びの陳腐化による混乱現象の再来か、と見なせそうでもあるけれど、今どき係り結びを心得ているほどの人なら、むしろ絶対に陥らない誤謬であるは明白。純然たる勘違いでしょう。なんで間違えるかなあ。

こういう、口語体に混ぜて使われる文語表現って、ちゃんと文語の作法を弁えてないなら止しといたほうが無難……と言ったところで、間違えてる人ってのは自分が弁えてるか弁えてないのかを弁えてないのだから、まあしかたないんでしょうねえ。

時代劇でも、殿様が家来を呼ぶときに「たれかある」なんて言ってますけど、たぶん「誰か来い」とか「誰かいないか」ってつもりの台詞なんでしょう。でもこれだって典型的な係り結びで、どっちかってえと「誰がいるのか」、というより「いるのは誰だ」って感じなんじゃないかと。疑問とは限らず、「誰がいるもんかよ」っていう反語にもなったりして。

そう言えば、戦前の流行歌で霧島昇の「誰か故郷を想わざる」ってのもありましたな。作詞は西條八十。親父がときどき歌ってたけど、係り結びなんざ知る由もない子供にはまるで意味がわからず、「ヘンな歌」って思ってました(ごめんなさい)。これこそ反語というやつで、「故郷を想わぬ者などいようか」って意味でしょう? 「か」が係助詞、「想わざる」が「想わず」の連体形ということで。口語体では終止/連体ともに「想わない」って寸法。

でも文部省唱歌の「花」、例の「春のうららの隅田川」って歌では、「眺めを何にたとふべき」って言ってますねえ。係り結びなら「何にか」の筈だし、でなけりゃ「べきか」で締めなくちゃ、って思うんだけど、作詞者の武島羽衣(たけしまはごろも)は明治も初めの生れで、西條八十より20も年長、国文学者にして歌人でもあったとか。この歌なんか19世紀最後の年の発表だてえから、相当に古い。でもこれだって、「何にたとえたらいいのだろう」っていう疑問(のフリした修辞)であって、決して今流行りの「べき」、すなわち単純な終止形として「べし」に取って代ってるってわけじゃありませんから。「何にたとえるべきである」じゃヘンでしょ。

そもそも「べし」ってのは飽くまで文語であり、その口語形っていうと、関東東北の訛りである「だべ」とか「だんべ」とか「だっぺ」の「べ」だの「ぺ」という一派。青森あたりじゃ未だに原形の「べし」でさえ現役だったりしますが(亡父は已然形……の前半、「べけ」も頻用しとりました)、共通語では大時代な物言いにしかなりませんよね。誤った終止形である「べき」は、どう足掻いたって現時点では許容し得ないのではないか、と思う下拙が頑迷に過ぎるのでしょうか。

でもヤなもんはやっぱりヤだい。どうせ人の口に戸は立てられないにしても(意味違うけど)、俺は死ぬまで妙な「べきどめ」なんざやらねえぜ!……と強がっておきます。

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何はともあれ、またまた長々と相すみませず。失礼致しました。

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