2018年2月16日金曜日

標準国語アクセントの変容

件の長過ぎるハッカー談義、原文は友人に宛てて書いたもの、と申しましたが、実はそれ、その友人(男)へは、言わば横流しのように後から送ったというのが実情で、まずはさる女人に向けて書いたものなのでした。忘れてた。

初めはメール本文でちょこっと送ろうと思っていたところ、いつものようにすぐにとんでもない長さになってしまい、ひとまずテキストファイルにして添付する作戦に変え、それはまあ数日で書き終えたものの、眼目のハッカーに関してさえ狂的な長さだってのに、別の話題にも野放図に言及した結果、どう見ても文字の表示をいろいろ変えないと話が伝わらないところもあるのに気づき、結局ワードに流し込んで修正することに。

                  

ところが、やはりと言うべきか、次々と気になる点が目につき始め、どうにも止らなくなってしまいまして。まったく無意味な拘りなんですけど、行末はみな文節の切れ目でとか、孤立行は厳禁とか(欧文組版要員だったための職業病のような)、毎度のことながら自縄自縛の蟻地獄(ある種極楽?)。

そういう体裁上の些事のために、これもいつもどおり文章自体をあちこちいじり出し(他人の文章を書き換える翻訳仕事と違って、そこは勝手にどうとでもできるのがむしろ罠だったりして)、それがさらに別の箇所の文言まで無数にいじらなければならない事態を招くという、不毛の連環。文章ってのは内容だけでなく、表面的な形としても繋がっておりますので。偏執的な性格によるものとの自覚はありますが、どのみち自らは如何ともし難く。

それでも何とか最後まで修整は施したものの、これもまたいつものように、途中で次々と新たに盛り込みたい話が湧いて来ちゃって、最終的には元のテキストの数倍に及ぶ長さになってしまったというバカバカしさ。なんとか話が繋がるよう取り繕うのも一苦労でしたが、小さめの文字でも全部で11ページに達してしまい、その11ページめが10行足らずってのがまた気に食わず、それで何の問題もないのに、どうしても10ページに収めたくなっちゃって、また修正作業のやり直し。

既に投稿した分からは除去してましたが、途中「放置」のアクセントについて書き込んだりもしまして、実はそれ、文字間の調整などをやりながらたまたま聞いていたNHK・FMのニュースでつい耳に入り、「そうだ、これもあったな」って感じで、後から無理やり挟んだんでした。苦労して禁則をすべて回避しつつ、やっと10ページぎりぎりに詰め込んだ後だったので、行数が変らないようにするのがまたも一苦労。

ワードのファイルでは妙に文字間が詰まったところもあったのですが、概ねそういう馬鹿げた事情によるものでした。それも、初めから仮名文字の間隔だけを容赦なく詰めたようなフォントセットは使わず、全行1字ずつ調整してたんです。そんなことばっかり何度も繰り返していた己が酔狂に改めて驚愕する思いにて。

……などと言いながら、既投稿分からからは削除したいくつかの「余談」も、多少文章を整理してまた晒しとこうか、って気分になっちゃいまして。いずれにしろ、ワード上で施した調整はすべて雲散霧消。それどころか余計なコマンドの影響を取り除かねばなかったりして、まったくの骨折り損とはなり果てたる次第。初めから何の得にもなってはおりませんけれど。

                  

と、つい口上が長くなってしまいましたが、まずは、さっきもちょこっと触れた、東京語におけるアクセントの変遷について、と申しますか、まあ標準的とされる東京風アクセントにおける近年の変化、ってより混迷について書き散らした与太話などを以下に。

既述のとおり、元々は男女2人の友人に(男のほうへは後からついでに)送り付けた文書の一部を流用したものですので、既出の話題に重複して言及している部分もありそうですが、そこはごどうぞ容赦。

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「ハッカー」は間違った意味で使われているとのことでしたが、そもそも「ハッカー」と‘hacker’は別であろうし、日本語だろうが英語だろうが、個々の語句には大抵複数の意味が併存するのは言わずと知れたこと。原義のほかに、場合によっては無数の派生義を有する例は枚挙に堪えません。古くから生き残っている言葉などは、多くの場合元来の語義は消え失せ、何段階もの派生を重ねた結果、原初とはまったく隔絶した意味に変じてしまっていたりもします。「誤用による慣用」というのも不可避的現象であり、そうした多数の慣用にまた新たな誤用が何重にも加わって現代に至っている……などと、今さらわざわざ言うべきことでもないような。

日頃は他人の誤用を嘆いて(楽しんで)いながら、こいつぁ少しく撞着してやしねえか?って思われるかも知れませんが、いつも悲憤(冷笑)しているのは、飽くまで現段階においては未だ慣用表現とは認め難い(俺が勝手に認めねえ)ものに限るのです。むしろ、ちょっと聞きかじっただけのカラ知識で、21世紀の今時分、高座で古典落語をやってるわけでもあるめえに、「赤とんぼ」を頭高(あたまだか)型で、すなわち第1音節の「あ」を高くして言ってるような奴らなんざ、聞いてるこっちが恥ずかしいや、ってなもんで、そんならなんで志ん生のように「生やさしい」も最初の「な」を高くしねえ?って思っちゃいますね。

もちろんこれはほんの一例で、このわずか数十年ほどの間に変じてしまった例は無数にあり、たとえそれを承知していたところで、もうとっくに現行の言い方が標準的になっているのが明白な以上(実は自分が生れるずっと前に起った変化は知ったことじゃねえてえ身勝手に過ぎんのですが)、後からたまさか仕入れた浅薄極まる雑学を衒うが如き似非懐古趣味など(……とも自覚しちゃいないでしょうけど)、まったくもって鼻持ちならないだけの代物。

「曲」など、今では完全に平板型(頭だけが低く、下接語の助詞も高いまま)が標準化しているではありませんか。逆に「会議」や「沿う」などは頭高型が優勢ですよね。前者は圧倒的にそうでしょう。かつてはどちらも頭を低く発音するのが普通でしたのに。「会議」は本来尾高(おだか)型で、これは下接する助詞(「の」を除く)で下がるのが平板型との違いです。「竹」は平板型、「丈」は尾高型といった塩梅。そのほか「中高(なかだか)型」(3音節以上)というのもあり、平板型以外の3つをまとめて「起伏型」と呼びならわしていたりもするのですが、あたしゃとりあえず「放置」を平板型に切り替えたNHKのやり口が嫌いです。了見が知れません。

いずれにしろ、どうでも伝統的なアクセントを護持するってんなら、赤とんぼだけじゃなくてあらゆる言葉でそれをやってみねえな、って言いたいですな。まずすべてを確かめること自体が不可能だろうし、もしほんとにそれができたところで、単に「訛ってる」って言われるだけだと思いますがね。そもそも伝統的ったって、せいぜい百年前の東京語の好尚というに過ぎないでしょう。より古くはアクセントどころか発音も違ってる筈だけど、それはどうすんのさ、って感じ。

                  

そう言えば、今年(2013年当時)随分当ったというNHKの連続テレビ小説「あまちゃん」(テレビないから一度も見てませんけど)のアクセントが平板型なのはおかしい、って文句言ってんのにも、ネットその他で何度か遭遇しましたが、おかしいのはてめえらじゃねえか、って思ったことでした。

「海女」も「尼」も単語としては頭高型ですが、「あまさん」は平板型にするのが、俗に標準語とも呼ばれる東京方言。そこから類推するなら「あまちゃん」も当然平板型となるが道理。「甘ちゃん」てえなら常にそうだし、それを頭高型で言ったのでは意味がわからなくなりましょう。「あ」を高くした「あまちゃん」のほうがよっぽど奇妙であるは灼然至極……と思っていたら、なんと、今どきのアクセント辞典は、当のNHKのものも含め、軒並み「尼」を平板、「海女」を頭高としているそうな。恐ろしい。

1960年に初版が刊行された東京堂出版の全国アクセント辞典でも、また1969年が初版の角川国語辞典でも、「亜麻」などを含むすべての「あま」を頭高型として記載しており、それ以外のアクセント表示はありません。前者の辞書は、「過渡期」にある語の場合、優勢なほうを先にして2つのアクセントを併記する方針をとっておりますので、少なくとも50数年前の東京語には平板型の「あま」はなかった、ということがわかります(この辞典の編者である国語学者の平山輝男が角川の辞書でもアクセントを担当)。

既出の「曲」と「会議」、および「放置」にはそれぞれ2つの型が挙げられていますが、「曲」と「放置」は頭高、「会議」は平板が先になっており、いずれも現行の慣習とは異なるほうが優勢だったことを示しています。「曲」とは裏腹に「放置」は長らくそうだった筈(9年後に出た角川国語辞典のアクセント表示は各見出し語に1つだけなんですが、この3例についてはやはり今どきじゃないほうになってますね)。「沿う」については平板型だけで、頭高型は選択肢にもなっていません。「尼」の場合は逆に「海女」と同じ頭高型しかなく、いつの間にか「唯一の正しいアクセント」ということになっているらしい平板型など、まったく認知されてはいなかったということに。

一方、この東京堂アクセント辞典が頭高型として掲げる「尼」の項には、用例として「アマサン」が平板型で示されておりました。「さん」がつくとアクセントが変るというわけです。実は5年生のとき、青森から越して来て、普段使わないこの「尼」のような言葉はその東京アクセントがわからず(ほんとは青森アクセントも知らないんですけど。未だに)、とりあえず「尼さん」からの類推で平板型で言ってみたところ、東京生れで年輩の(担任じゃない)先生に訂正され、以来誤ることなく頭高型でやってきた……筈が、知らぬ間にそっちが間違いということになっていようとは。

一部の人が以前から尼を平板型で言ってるのは知ってたけど、そういうのは例の「何でもかんでも平板化方式」にかぶれた(軽薄な?)連中で、当然「海女」もそうしてるんだろうと思ってたんです。子供の私がしたのと同じ勘違いが気づかぬうちに猖獗を極め、旧来の言い方である頭高型の尼を駆逐してしまった、ということなんでしょうかねえ。そしてその平板型の尼との対比から、頭高型である「海女」に「さん」のついた「海女さん」なら頭高型に違いあるまい、ということになっちゃった……とか。

尼さんだろうが海女さんだろうが、頭高型の[ア↓マサンなんて(最近まで)聞いたことがありませんでしたぜ。もっとも、だいたい「海女」を「さん」づけで言ったことなんかないし、あまり聞いたこともなかったような……。違和感を覚えた記憶がないってことは、たとえ聞いたことがあったとしても、たぶん尼さんと同じ平板型だったんでしょう。

似たような例に「姪」というのがありますけれど、これも前掲の辞書はいずれも頭高型としてしか扱っておりません(「甥」は平板型)。白状致しますと、かく申すそれがしも、つい時流におもねって日ごろはこれを平板型で言っております(いわゆる不定見ってやつ?)。しかも↑ー]ではなく↑イ]などという東京弁にはあるまじき発音(だってみんなそう言ってんだもん)。これも「尼」と同様、かつてはちゃんと[メ↓ーって言う人が結構いたもんですが、今ではちょいと気取ったつもりでそのように発音すると、「それって↑イ]のこと?」などと返されることも。「ひょっとして青森訛り?」って言ってきた強者さえおりました(もちろん自身が地方出身者)。

これに「御」のついた「姪御」も、単語としては頭高のまま、つまり[メ↓ーゴだったんですが、やはり今どきは↑ーゴ](と言うより↑イゴ])って言わないと通じなかったりします。ただしこれに「さん」がつく場合は、昔から平板型で↑ーゴサン]となることが、件のアクセント辞典には明記されているのです。あるいはその「姪御さん」の言い方から、単体の姪も平板型という現今の標準が「逆成」したものでしょうか(「海女さん」同様、「姪さん」とはまず言わないし)。「尼」のたどった運命と軌を一にするような……。

                  

因みに、目黒区生れで同学年の盟友、金子君〔←これが後から送った男のほう〕も、「あま(さん)」のアクセントについては同意見でした。

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【追記】ワードの原文では、アクセントを表示するのに、書体も換え、文字自体の位置を上下させたりしていたんですが、ここでは[ ]に入れた上、を挿入し、かつピッチの低い音節とその前の以外はボールドにしております。意味がわかればいいんですが……。

なお、現行のNHK式標準アクセントは、出身地が日本各地にわたる現職アナウンサーを対象にした意見アンケートの結果に依拠したものだそうで、つまり標準ではなく平均。それも標本が過小ではあろうし、何よりあまりにも偏っているのは初めからわかり切ったことではないかと。

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