2018年2月13日火曜日

キング牧師の名言が裏返し(1)

2015年の暮、SNSで「辛い思いをキング牧師の言葉で救われた」っていう女性の投稿を見たんですが、それれに対する一部の蒙昧かつ倨傲なる愚者(毎度失礼)の反応が腹立たしく、思わずまた友人に長文を送り付けて憤懣をぶつけてしまいました。その後もたびたび、そのよく知られた台詞に対する致命的な誤訳がウェブに大威張りで掲げられているのを見るのですが、やはりどうにも落ち着かず、ここにまたその長駄文を晒してやろうと思いましたる次第。

以下に、なんせまたむむやみに長いから何度か区切ることになるとは思いますが、その慨嘆または難癖を、多少(かなり)手を加えつつ記して参ると致します。

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とりあえずそのキング牧師の言葉っていうのは――

‘When you are right, you cannot be too radical; when you are wrong, you cannot be too conservative.’

というもので、その女性はこれを、

あなたが正しいときには過激すぎるということはない。また、あなたが間違っている時は、控えめすぎるということはない。」[1]

という訳で理解し、それに救われた、って言ってんのに、それは誤訳であり、正しくは、

あなたが正しいとき、過激になりすぎてはいけない。あなたが間違っているとき、保守的になりすぎてはいけない」[2]

であるとの指摘が、随分と高みに立った口調でなされていたのです。それどころか、「暴力はいけない」だの「自分が正しいという感覚が怖い」だのといった見当外れのご高説も。

上記2つの訳文(2節を並置した原文をどちらも2文に分けてます)、ウェブ上には流布している定型(?)かとも思われるんですが、自分は1つめの意味でしか捉えていなかったので、むしろ2番めの解釈が意外かつ心外。「ネイティブでも意見が分かれる」との記述もあり、「え、そうなの?」って感じ。気になってほうぼうググってみるも、どうやらその「ネイティブ」という人たちで2番めの解釈をしている例は見当らない模様。

いずれにしろ、正しかろうが間違っていようが、それは客観的にしか言えない話。自分自身がどっちなのかは、結局自分では断定し得ないことであり、この[2]における「正しいとき」、「間違っているとき」ってのは、恐らくその当人が「そう思っているとき」って解釈なんでしょう(原文にはもちろんそんな文言はなく、決然と客観的に述べているだけですが――主観を)。でなけりゃ、過激にも保守的にもなったりならなかったりという加減なんざできませんよね、自分では。

おっと、「なる」じゃなくて「なり過ぎる」だった。ますます無理じゃん。「過激(になり)過ぎる」ってのがそもそもあからさまな同語反復だし。「激し過ぎ過ぎる」?

                  

ともあれ、ちょいとこの2つの訳をそれぞれ同じようにひっくり返したり裏返したりして比べてお見せしやしょう。論理学で言うところの対偶論法とかいうやつを強引に使って、両者の論理的整合性のほどをあぶり出そうてえ魂胆。まず[1]のほうを言い換えると:

過激すぎるということがあるときにはあなたは正しくない。また、控えめすぎるということがある時は、あなたは間違っていない。

となります。ひとまず元の文言(および表記)をそのまま使いました。これをまとめると、「間違いが行き過ぎることもあれば、正しさが不足ということもある」で、結局原文の解釈には揺るぎがなく、何ら矛盾を生じません。言うまでもない当り前のことを言ってる、って気もしますが。

一方[2]のほうはてえと:

過激になりすぎてもよいとき、あなたは正しくない。保守的になりすぎてもよいとき、あなたは間違っていない。

になっちゃうんですぜ。「なり過ぎちゃいけない」を裏返せばどうしたって「なり過ぎたっていい」としかならないんだからしょうがない。「やり過ぎてもいいのは正しくないときで、尻込みし過ぎてもいいのは間違ってないとき」ですってさ。しかもこれ、元が部分否定――「なるのはいいけど度を越すのはダメ」、つまり「なるかならぬか」ではなく「なり方」の問題――なだけに、単なる「なってはいけない」の反対である「なってもよい」よりよほど「過激」。知ったこっちゃねえけど。

まあ、数学の問題でもあるまいし、自然言語が型どおりの論理に都合よく納まらないのは先刻承知。詭弁に過ぎぬと言われればそれまでではありますが(知るもんけえ)、ことによると[2]の信者はこの後段を、「間違っていたらそれを正すのに躊躇は禁物」って意味、つまり「過ちては改むるに憚ること勿れ」っていう例のやつだって言い張るのかも知れませんね。君子も豹変するってえし。でも原文にはおろか、肝心の訳文にだってそう断ずべき因子は見られません(そこまで考えてるかな。単に「萎縮するな」ってつもりだとは思うけど)。

いずれにしろ、こうした言い換えに耐えられないというだけでも、和訳(解釈)[2]の破綻は充分知れるのではないかしらと。自然言語などと申すまでもなく、もとより警句や名言ってのは別に証明すべき命題などではないのだから、真偽を質そうなんてのがそもそも野暮の骨頂、ってことも重々承知の上にて。

しかし、何であれ「~過ぎる」ってのは「過剰」って意味なんだから、「過激」でも「保守的」でも、過ぎちゃったら「猶及ばざるが如く」ハナから正しいわけはなく、そりゃ「いけない」に決ってんでしょ。さっき使った引用句にもあるとおり、「過」の字は「あやまつ」だの「あやまち」だのとも訓じるしね。特に前者の「過激」なんざ、「激しい」ってだけで既に穏やかじゃないのに、それがさらに過ぎちゃってんのよ。その「過ぎた激しさ」をさえもっと過ぎちゃわないと、とても「過激過ぎ」になんざなれない。無理だと思う。

「過激」だろうが「保守的」だろうが、「なり過ぎてはいけない」などと釘を刺されるまでもなく、なりたくたってなりようはあるめえよ……と思うあたしがやっぱりおかしいのかしら。でも、何につけ「行き過ぎは間違いである」という(強引な?)前提に立てば、「正しい(と自分では思っている)なら間違うな。間違ってい(ると思ってい)てもやっぱり間違うな」ってことんなるんですぜ、和訳の[2]は。どう足掻いても支離滅裂でしょ。無理というより無駄。

……さすがにこれじゃただの言いがかりか。すみません。

とにかく、自分ではこの ‘cannot be too ...’、たとえ前後の文脈がなくても、「あり得ない」とするのが最も妥当な解釈で間違いないと、いよいよ確信するに至りましたのさ。ウェブ検索で2番目の解釈を示す英語の(と言うか、英語母語話者による)記述が見当らないという以前に、上記の如くこの和文自体が初めから自家撞着であるは明白な上、実際のさまざまな用例においても、このような文脈でこの ‘cannot’ を「~てはいけない」の意味で使っているものはやはり見当りませんから。【続く】

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