当然かなりの昔から ‘may’ とすべきを ‘can’ で代用する物言いは通用していたものの、かつてはそれが誤用または不作法と見なされていたってことです。今でも、口頭ではなく文書や掲示による許可には、口語としては多少古風なこの ‘may’ がよく使われます(‘can’ と同様、可能性を表すなら口語でも普通)。命令(否定形はやはり禁止)にはご存知 ‘must’ のほか、ちょっと堅苦しいけど ‘shall’ なども現役。
ただ、通常そうした意味でこれらの助動詞が付されるのは、「行為」、すなわち意思によってどうこうできる振舞いを表す動詞であり、意思によらない「存在」だの「状態」だのを表す ‘be’(態度とか姿勢なら意思に左右され得るか)に ‘can’ を用いた場合は、なかなか許可や禁止の意味にはならず、文脈にもよるとは言え、ほぼ「あり得る/あり得ない」という話にしかならんのです。
さらに、これも当然のようではありますが、この ‘can’ が許可の意で用いられるのは主に疑問文や否定(平叙)文(つまり禁止)で、これまた当然ながら、前者の主語は大半が一人称、後者は二人称となります。三人称だと許可も禁止も直接にはできないということで。
むしろ不正確の誹りを受ける余地があるのは「過激」という語。「過激過ぎる」というのがそもそもトートロジーなのは前回述べたとおりですが、英和辞典には昔からこの ‘radical’ を「急進的」とか「過激な」とかって書いてあるのは承知しております。でもそれだとそれこそ激し過ぎましょう。外国語である英語の意味を、誰かの安直な和訳(たとえどれだけ流布していても)を鵜呑みにしてわかったつもりになるのは、ときに危険でさえある……んだけど、その危険性さえ孕んだ伝統的齟齬が我が国の英語教育の場では一向に改められないばかりか、ネット時代に入ってますます増長、じゃないや、増大しているかの如き様相。
「あなたが正しいとき」というのも、古典的な誤訳に類するものでしょう。 ‘you’ =「あなた」、 ‘when’ =「~とき」とするのは、中高生の答案ならまだしも、職業翻訳者の仕事であれば生硬に過ぎます。特に後者は典型的な翻訳口調で、多くの場合接続詞の ‘when’ は「~とき」ではなく、「~なら」とか「~すれば」という言い方にこそ対応します。
‘when the wind blows’ という常套句を「風が吹くとき」としたんじゃ、多少お洒落かも知れないけれど、趣意の曇りは否めません。「風が吹けば」とか「風が吹くと」って感じなんですがねえ。 ‘when the time has come’ なら、「そのときになったら」とか「とき来たりなば」とか「時節到来の折には」とか、いくらでも言いようはあるでしょうが、「ときが来たとき」ってんじゃ、やっぱり間抜けでしょう。 ‘when the time comes’ に至っては「ときが来るとき」になっちゃうんですぜ。
ついでながら、「風が吹けば」なら ‘if the wind blows’ だろう、って(エラそうに)言い返してきた人も何人かおりましたが、そこが日本語と英語の違い。まあ、いろいろな状況があり得ましょうけれど、とりあえず簡単に申しますと、「今風が吹いたら」とか「明日風が吹いたら」ってんなら、そりゃ ‘if’ でないとちょっとヘン。それは「吹くかどうかわからない」から。まったくの無風状態で、そよとも吹きそうにないときに「今吹いたら」って言う場合は、 ‘blows’ の代りに ‘blew’ が使われます。日本の学校ではそれ、「仮定法過去」てえ括りで教えられましたけど、「仮定法」自体が ‘subjunctive (mood)’ に対するヤケクソのような訳で……てな話を始めるとまた止め処ない言いがかりにのめり込むが必至なれば、それについては止しとくことに致します。
さて、それとは逆に、訪ねて来る予定になってる野郎が「来たら」って言うのであれば、 ‘if he comes’ ではなく ‘when he comes’ でないとおかしいでしょうね。実際には結局来ないかも知れないにしても、とりあえず来ることにはなってるんだから、 ‘if’ じゃなくて ‘when’ とはなるてえ次第。これを日本語で「来たときに」って言うとちょっと意味が変りますな。英語では同じく ‘when’ のままだけど。
ではなぜ、吹く予定などわからないにもかかわらず ‘when the wind blows’ なのかと言えば、当面の予定の有無など関係なく、ごく一般的な状況を対象としているから、みたいな感じ。今吹いてなくても、また明日だって吹かないかも知れないけれど、風ってのはいずれは吹くもんだからさ。金輪際吹かねえ場所だってこの世界にはあるかも知れねえけど、普段英語や日本語が使われてるところなら、よもや生涯吹かねえなんてこたねえでしょ。「風」だの ‘wind’ だのって言葉があるってだけで、まずはそういう現象が存在するってことなんだし。
……てことで、ついまた寄り道をしてしまいましたが、 ‘When you are right/wrong’ は、「正しいなら/間違っているなら」とか「正しければ/間違っていれば」というほうがとりあえず自然です(主語は「人」とか「我々」とか? 要らないけどね。日本語なんだから)。
おっと、話を「過激」に戻しましょう。日本の辞書や教科書にどう書いてあろうと、英語は死語などではなく、今現在世界中で使用されている言語なんだし、実際の用例に接する機会にも何ら事欠かない21世紀のこの期に及んで、どうしていつまでもこういう「過激」な訳語が「保ち守られ」続けるんだか。こういうのこそ悪しき「保守」の実例(……なのか?)。
「悪しき」と申しましたが、「保守」という言葉自体は言わば中立的なもので(本来は)、その対義語として「過激」を用いるのは、たとえ悪意がなくとも明らかに保守側に偏った表現ではないかと。英語における政治用語としては ‘conservative’ が ‘radical’ の対義語ではありますが、「過激(extreme=極端)」の反対は「穏健(moderate=中庸)」であり、政治的、社会的な意味での「保守」に対応するのは「革新」でしょう(自らは「進歩(progressive)」を名乗ってたりして)。
「保革」の「革」に当るのは ‘liberal’ だったりもしますが、これ、政党名では例外なく「自由」と訳されますね。何を称して自由と言うかはそれこそ各人の自由なので、ときに極右政党がこの名だったりもしますが、日本の「自由民主党」が世界一実態とかけ離れた党名である、ってことは既に国際常識となっている模様(英語表記だと実際かなり恥ずかしい)。
昔のローマの自由市民、つまり奴隷身分ではない者に由来する ‘liberal’ の基本義が「寛容」であるのに対し(進化を柔軟に受け入れるってことで、革新系だの進歩派だのを指すのに使われるんだけど、「寛大」、あるいは「太っ腹」とか「豪勢」とかって意味も)、「根」を語源とする(思わず「根とする」って駄洒落に走りそうになっちゃったのを思いとどまりました。我ながらくだらねえ) ‘radical’ は「根本的」というのが原義だから、改革にしても「根こそぎ」って感じで容赦のなさも含意されるため、反対勢力がこれを「過激」と評するのも頷けましょうが、逆から見れば、「安寧を保ち伝統を守る」などとは笑止の極み、(既得権益を保持するため)然るべき前進を忌避し続ける因循姑息のともがらこそが「保守」の正体。
その革新または過激を指す第三者的言い方が「急進」ってことになりましょうか。 ‘radical’ の訳としては「過激」ほどの邪意は感じられないものの、その対義語は「漸進(gradual)」であって、「保守(=守旧)」ではないでしょう。徐々にではあっても進む気のあるのが「漸進派」であり、 ‘conservative’ ってのは現状維持、ってより旧態依然を是とするのだから(あわよくば逆行、つまり「反動(reactionary)」?)、本質的に別物です……って思ってんのも僕だけ?
でも、たとえば堀部安兵衛と大石内蔵助との対立においても、亡君の意趣を晴らすという目的では双方一致しており、「機は逸すべからず」とするか、「周到をこそ期すべし」とするかの違い。はたから見ればいずれも忠義の士であり(本性はともかく)、急進か漸進かで正邪が分れるわけでもなければ、そのどちらの言い方も一方に肩入れしたものではない……とかね(例えがズレてんのは認識済み)。
念のため調べてみたところ、 ‘radical’ も ‘conservative’ も、ついでに ‘liberal’ も、政治的用例の初出は19世紀以降でした。 ‘conservative’ と ‘liberal’ は、 ‘left (-wing)’ や ‘right (-wing)’ と同様、フランス革命の影響によるもののようで、革命後の国民議会における共和派(革命派)と王党派(守旧派)との対立に言及した後世(19世紀)の用語が英国にも移入された、ってのが実情らしい。
もとより ‘conservative’ は「保守」ですが、相対する ‘liberal’ は、個人の政治的自由を「容認」する(それが ‘liberal’、 すなわち「寛容」)けしからぬ連中、っていう敵方(保守)からの蔑称だったんだとか。他国の無法状態を想起させるべく、しばしば ‘libéral’ という(下手な?)フランス語が用いられたとも。
17世紀に発足したトーリー党とホイッグ党が、その後それぞれに紆余曲折を経て ‘the Conservative Party’ と ‘the Liberal Party’、 すなわち保守党(正式には「保守統一党」ですってさ)と自由党に改称するのも19世紀前半。当時は二大政党制の典型だったものの、前者が今でも ‘Tories’ と呼ばれて健在(現与党)なのに対し、後者はやがてジリ貧となって20世紀には労働党に役どころを譲ることに。80年代末にはついに看板を下ろすまでとなり、現在は「自由民主党」(おっと!)。袂を分かった新生「自由党」は地方議会のみの存在だってこってす。〔これ、2016年初めの拙文が基ですので、その後の状況とは齟齬があるかも知れません。確認もせず横着を決め込み、毎度恐縮に存じます。〕
余談ながら、元来 ‘Tory’ と ‘Whig’ はあだ名で、それぞれカトリックとプロテスタント(長老派)に対する侮蔑的呼称(普通名詞)に由来します。長老派(Presbyterian)というのはスコットランドの国教で、実は米国でもキリスト教における最大級の宗派の1つだとか。北アイルランドの「プロテスタント系住民」ってのも、主にスコットランドから移住(植民)したその一派の子孫だとも。後世の保守党、自由党の対立は宗教とは無関係ですけど。
と、そんなよそんちの事情なんざどうでもよござんした。肝心の ‘radical’ ですが、政治用語としては1802(享和2)年が初出で、ホイッグ(自由)党(「ウィグ」ってほうがいいとは思うけど、しかたがねえ)内のいわゆる急進派を指す名詞用法。形容詞としてのほうが初出は後で、1817(文化14)年の由(‘liberal’ の初出については品詞の順序が逆)。ただし、 ‘radical reform’、 すなわち「抜本改革」の用例はより古く、1786(天明6)年初出ですって。これも現代語としてそのまま使われてますが。
件の名文句の場合、キング牧師の事績や当時の酸鼻を極める状況に照らせば、 ‘radical’ と ‘conservative’ に多少とも政治的な意味、少なくとも社会的な意味が付随していても不思議はない、とも思えますが、上記のとおり、両者とも政治用語としての語義は一般用法から派生した比喩のようなもの。政治的に用いられていたとしても、別に一般義と対立するわけではないでしょう。
一般語とすれば、「正しい者に行き過ぎということはない=過剰な正義などあり得ない」、「誤った者に抑え過ぎということはない=不充分な錯誤などあり得ない」ってことで、スッパリとしたもんでしょう。これを無理やり政治的にすると、「過ぎた革新などというものはない=革新的であればあるほど正しい」、「過ぎた保守などというものもない=少しでも保守的なら誤りである」……と、なかなかヤバい感じにもできます(ほんとはそれぞれ「正しい限り」、「間違っている限り」という条件が先ですけど、それって結局何にでも使えそう)。もちろん、これは立場を入れ替えればまったく逆の言い分になるわけで、図らずも政治の不毛を際立たせることに。
それでも、圧倒的な不条理の下に理不尽極まる痛苦を強いられ続ける者の心中を思えば、その不正義を除こうとする意志や行動を「過激」として切り捨てる「穏健」な態度こそ、下拙にはとても是認することはできません。政治的な用法だとしても、この ‘radical’ が飽くまでそうした立場に置かれた者についての用例となるのは間違いないのではないかと。
一方的に虐げられた者がその桎梏を脱するには、それに足る強固な意志が肝要であり、その悪弊の受益者である圧制者側がそれを「強固」ではなく「強硬」だとして難ずるなど、盗人猛々しいにもほどがある……なんて思うのも俺自身が過激だからか? 激しくものぐさなんすけど……。あたしゃとりあえず、Rutles(モンティ・パイソンによるビートルズのパロディ)の歌に出てくる ‘Left is right and right is wrong’ って文句が好き。
同様に、「過剰な正義」は「過剰な正義感」とはまったくの別物。後者なら、あり得ないどころかそこらじゅうに溢れ返ってるじゃござんせんか。「行き過ぎ」っていう言葉についても以前から苦々しく思ってることがございまして。体罰事件が発覚するたびに必ず聞かれるのが、加害者側の「指導に行き過ぎがあった」てな言いわけ。行き過ぎてしまったのならもはや何を指してもどこへ導いてもおるまいに。「指導の行き過ぎ」なんざ、「過剰な正義」、「不充分な錯誤」に勝るとも劣らぬ撞着表現。まあいいか。
そういう相隔たる意味合いを併有する語句の一例がこの ‘radical’ だってことなんですが、同様の例は国語にも少なからず。翻訳というのは畢竟意味を伝える作業であり、一語が複数の訳語に対応するのは和英共通(お互いさま)。それぞれの意味に応じて個別の訳語を見つける手間を惜しみ、辞書を引けば載ってるようなもんで間に合わせてたら、翻訳の要諦である文意の伝達に不全が生じるのも避けられますまいて……と、ちょっと威張ってみました。
この ‘radical’ が「斬新」とか「独創的」といった好意的な意味で使われ出したのは20世紀になってからとのことですが、80年代になると、「イケてる」だの「ヤバい」だのに類する単純な褒め言葉として多用されるようになります。「ヤバい」などは「過激」に通ずるようではありませんか。アメリカの若者言葉という括りですが、当時の若者と言えばまさしくあたしの世代――とっくに中高年です。その世代の幼少期に当るキング牧師の時代には、まだそんな用法はなかったでしょうけれど。
一方、この ‘radical’ を端折った ‘rad’ というのもあり、70年代後半には「カッコいい」に相当する(そりゃ60年代か)形容詞として十代の間で流行り出し、こちらは英米を問わず「スゴい」というような汎用の賛辞として、むしろ ‘radical’ より重宝されているようです。簡略が何よりっていうネットやメールの世界ではお馴染みの表記。
しかしこの略語、名詞としては早くも1820(文政3)年の使用例が確認されているそうで、当初は(自由党の?)急進派を指す政治的隠語だったとのこと。 ‘radical’ 同様、今どきの少々チャラい褒め言葉としては、原義たる「根本」ではなく、間接的ではあれ政治用語から枝分かれしたものに相違ないでしょう。
とにかく、保守勢は保守を自任しているのに対し、ちょっとでも自分を過激だと思うような者は所詮過激にゃなり切れんでしょう。「過激」を標榜する反保守勢ってのは、宛然「反動」を誇示する保守政党。そんな肚の据わった物好きがいますかね。「自由」と「民主」を掲げた反動政権なら、現に今日も飽くことなき邪智暴虐の限りを尽しとるわけですが。「過激」は「保守」の対極には非ず、 ‘conservative’ に対応する ‘radical’ の訳語としては正鵠を逸するものである……なんてね。
いずれにせよ、「過激」という過激な訳に引きずられて、キング牧師のこの言葉を暴力的なものだと思い込んじゃったらダメでしょう……ったって、事実そういう誤謬の下に見当違いの指摘をエラそうにする人たちが大勢いらっしゃるんですから、なんともやるせないこって。
さて、「過激」という否定的な訳語が幅を利かせる‘radical’が、実際には概ね好意的な意味で用いられる場合が多いのに対し、一方の ‘conservative’ はてえと、どうもあんまり芳しくないようですぜ。
動詞の ‘conserve’、 およびその名詞形 ‘conservation’ には、政治や社会、文化・風俗についての意味合いは希薄で、生態系や自然環境などの「保護」や「保存」、「保全」などのほか、機械や設備の管理・点検を指す「保守」に相当するのが普通。あるいは経費や資源の「節約」とかね。いずれもごく客観的、中立的(傍観者的)な語義ですな。語源のラテン語では「見守る」、「維持する」って意味だとのこと。
ところが、その形容詞形である ‘conservative’ には、後から派生した比喩的な意味での用例が圧倒的に多いんです。それも、 ‘radical’ を「革新」ではなく「過激」とするなら、こっちは「保守」というより「固陋」、「伝統的」はすなわち「時代遅れ」、「慎重」は「遅疑」で「安定」とは「停滞」のことか?……ってな具合に、いくらでも嘲謔が可能。 ‘radical’ を「過激」ってんなら、そのぐらいでないと釣り合わないような。
「控えめ」という日本語もまた、「過激」とは裏腹の、言わばコンサバびいきの訳(訳者にその意図はないにしろ)。この「控えめ」、数量や金額に用いれば「質素」ってほどの「客観的」な意味になりましょうが、「奥ゆかしい」とか「慎み深い」などといった、態度や人格についての好意的評価を表すのにも使われますね。前者の用法は「穏健」の訳語として前回示した ‘moderate’ に対応し、その類語である ‘modest’ が後者に合致するという塩梅。
しかし同じ「控えめ」でも、 ‘conservative’ はしばしば故意の過小評価、過少申告などに使われるのが実情。不都合な実態を糊塗せんがための卑しい「控えめ」といった風情が漂います。対義語はさしずめ ‘exaggerated’、「誇大」ってところでしょうか。この ‘conservative’ を「保守」としながら、 ‘radical’ を「過激」と訳したのでは、いかにも公正を欠くものと言わざるを得ません……てなこと言ってんのはやっぱり俺だけか。切りがないので、コンサバ攻撃もこの辺にしときましょうかね(そんなのやってるつもりもなかったんだけど)。【また続く】
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