2018年2月27日火曜日

英語じゃないのよカタカナ語は

英文和訳なんてものをやっていると、英語とカタカナ外来語の違いってのがしばしば厄介の種だったりするんですが、人によってはまったく苦にならないどころか、片っ端から原記をカタカナに換えてきゃいいんだから楽なもんじゃん、てえんでビックリ。

でもねえ、日頃ウェブの記事なんか見てても不愉快、ってより不可解なのが、その種のカタカナ言葉てえやつなんですよね。単純に、何のことやら意味が知れねえじゃねえか、って感じ。書いてるやつ自身がわかってない(ことがまずわかってない)のは、文脈を念入りにたどってみればほぼ例外なく知れます。ま、わざわざそんなことしなきゃならねえって時点で悪文たるは灼然なれど。

飽くまでそうじゃないと言い張るなら、とりあえず全部フツーの国語、漢語か和語にしてみねえな、って言いたくなりますね。それができりゃハナから意味不明(てより何ら表意能力のない)カタカナなんぞにゃするめえが。俺だってそれが難しいからいつも余計な手間食ってんだし。

                  

……というのが、ときどき思い出したようにとらわれる(忘れた頃に思い知らされる)和英間の難題なんですが、それを問題だなどと思い込むのはキミの勝手、とは言われそう。言われなくったってわかってらい。わかっちゃいるけどさ……ってところではございます。

と思ってたら、昨2017年の秋にもそうした例をラジオで耳にし、「ああ、またか」ってんで、早速SNSに下記のぼやきを書き込んでおりました。例によってそれをまた再録。横着ですみません。

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〔2017年11月13日の拙文〕
近年よく耳にするようになった「リップサービス」という外来語、迂闊にも英語の‘lip service’って意味かと思ってたら、どうも話が合わないことが多いのに気づくのに暫くかかりました。

どいつもこいつも、要するに「お世辞」って意味で言ってやがるじゃねえか。それはたぶん「サービス残業」なる愚劣な因襲を指す愚劣な文言に示される如く、‘to serve’という動詞、すなわち「供する」とか「遇する」とか、あるいは「資する」とかの名詞形たる‘servicce’を、理不尽にも「無料奉仕」とか「滅私奉公」の類いに置き換えちゃった愚に起因する誤謬なんでしょう。

ああ、でも「当社は以下のサービスを提供しております」てなことも言いますねえ。そりゃいくらなんでも只じゃねえだろうから、相変らず一貫性のねえこと甚だしい。でえっきれえなんだよ、おりゃそういうの。ま、こっちの勝手ではあるけれど。

                  

おっと、その話じゃなかった。原語たる(たぶん)‘lip service’とは、「口による奉仕」。案の定と言うべきか、例のフェラチオ(あるいはカニリンガス……じゃねえか、クンニリングス?)のことだと言い張る向きも少なくないらしいけど、これ、単純に「口先だけ」ってこってすから。

言葉では支持や協力を表明しつつも、まったく実行が伴わない、要するに調子のいいことばかり言って実際は何もやらないこと、ってな意味なんです。‘to pay’という他動詞の目的語として用いるのが基本……てえ言い方も野暮の骨頂か。要するに‘to pay lip service to ...’(不可算名詞ですな)という熟語の類いだと思えば話が早いかと。

まあ、世辞やおだてなんてのも、ハナから口先だけってのが前提なんだから、結局似たようなもんではありましょうか。でもやっぱり根本が別でげしょ、って思うんだけどねえ。

                  

少々似たような例(いつの間にかしばしば耳にするようになったって点で)に「ブラッシュアップ」なるカタカナ語もありますな。これも当初は英語の‘to brush up’(動詞です)のことかと思ったら、どうも話が合わない。何かの素案を練り上げる、てな意味で言ってたりするもんだから「え?」ってまごついちまうじゃねえかい。

これ、ほんとは「ざっとおさらいする」てな意味、すなわち「過去に習得した知識や技術を磨き直す(あるいはより磨きをかける)」とでもいったところ。他動詞としてよりは自動詞として使うほうが普通で、おさらいの対象たる目的語の前には‘on’てえ前置詞を添えるのが基本。愛用のLongmanの辞書には、

‘I must brush up on my French before I go to Paris.’

てな用例が載っとりました。「パリ行く前にフランス語復習しとかなくちゃ」って感じ。つい自分もそう書いちゃったけど、「磨き上げる」という安直な訳に導かれた誤解なんでしょうかね。‘brush’は箒とかはたきとか、せいぜい埃を落すぐらいの清掃具。動詞はもちろんそれを使ってざっと汚れを落すってほどの意味になるかと。ほんとは「磨き上げる」てえほどの入念さは感ぜられぬし、何より「手っ取り早く」って前提が欠落しちゃってんでしょ。

                  

これはほんの一例(二例か)に過ぎず、カタカナ語なんてもなあ所詮日本語としてしか通用しない外来語もどきに過ぎないってことが、この期に及んでまだ大半の日本人にはわかっちゃいない、ってことに日々驚いております次第。てのは嘘で、ほんとはもう驚きもしないんだけど、世間の誤解に気づくのが遅れて当惑することは未だに絶えませず。

俺だって正真の日本人なんだけどなあ。

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……という愚痴だったんですが、この前にもカタカナ語に対する恨み言を書き散らしていたのに気づきましたので、ついでにそれも以下に再録。

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〔2017年8月20日の拙文〕
何となくそうだろうなとは思ってたんですが、「クレーム」は‘claim’の訳語で、「苦情」の気どった言い換えかと言うとさに非ず、改善要求とか履行請求とかよりも、難癖やいちゃもんの類いを指すのが、どうも業界的な用法らしい。自分からぶつかっといて「肩の骨が折れた。どうしてくれる。治療費百万払え」というような類い。さすがにこの例えは古典的に過ぎましょうや。

しかし、いずれにしろカタカナ言葉は外国語に非ず。英語の動詞‘to claim’は、単純に「主張する」「言明する」「公言する」といったところであり、他者に対する苦言や非難もその対象に含まれるというに過ぎません。したがって、‘claimer’も原義は単に「主張者」であって、決して理不尽な言いがかりを為す者の称(に限ったもの)ではないのですが、「クレーム」同様、本朝における「クレーマー」は、苦情者の中でも特に不条理な部類を指すことが多い……らしいですな。

これは人によって正反対の方角に向うことも少なくないのですが、自分の場合、唯一理解可能な外国語である英語を知れば知るほど、それを語源とする筈の安直な外来語、いわゆるカタカナ語のいかがわしさが鼻につき、既に「日本語」として確立した(と自分が見做す)もの以外は、極力使用を避けるようになりました。まあ厳密には漢語だって外来の言葉ではあり、未だに名詞以外には用いられないとは申せ(含形容動詞語幹)、それを排してはもはや立ち行かないのが現行の(千年も前からの)国語ではありますれば、どうしてもカタカナより漢字を贔屓してしまうのも致し方なし、ってことで。

                  

何よりカタカナ語、と言うより、不用意にそれを多用する人たちに辟易するのは、そもそも語義自体があまりにも曖昧模糊として、結局何言ってんだかわかんねえじゃねえかよ、ってことが多いところ。

たとえば「ニュアンス」なんていう語がありますけれど、それこそ何とも言いようのない「微妙な」意味合い、とでもいった雰囲気で用いられるのが通弊、じゃないや、通例で、「そのへんのニュアンスがいまいち伝わらないのよね」とか何とか、そういう使われ方が普通。つまるところ、結局何が言いてえんだよ、としか思われませず。

それでもまだそういう例はマシなほうかも。ひとまず、単に何だかわかんないものを何だかわかんないって自慢してるだけ、ってことにはなりましょう。もっとウンザリするのが「ニュアンスの違い」などという灼然たる同語反復を平然と発する輩。と言っても、そういうことを平気で言う人々には何がおかしいのかがまずわからないのであろう、とは承知の上。これについては、各種辞書の語釈を示すだけで充分でしょう。

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岩波国語辞典 第7版:〈「ニュアンス」――色あい、音の調子、意味、感情などの、ごくわずかでありながら、相当に違う感じを与えるような違い

Longman Dictionary of Contemporary English, 5th edition: ‘“nuance” — a very slight, hardly noticeable difference in manner, colour, meaning etc
 
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奇しくも両者とも2009年の版でした〔後者はその後購入した2014年の改訂版でも文言は変らず〕。いずれにしろ「違い」および‘difference’の一種であるとの定義。仏語から英語への移入は18世紀とのことですが、どう足掻いたって「ニュアンスの違い」とはすなわち「違いの違い」と言うが如く、曖昧ってよりは間抜け。「いにしえの昔の武士の侍が馬から落ちて落馬して……小さな刀の短刀で腹を切って切腹した」ってほうがまだ笑えるだけ上出来だったりして。

毎度くだらなくてすみません。

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ああ、また余計なことを思い出しちゃった。

日常接するカタカナ語で最も違和を感じるのが「アーティスト」ってやつなんでした。「芸術家」という訳語からの連想か、流行音楽の業界においては、アイドルだの芸能人だのとは一線を画す、より「高度」な、主に自作自演の、つまりはシンガーソングライターのような部類を指すような。

でもそれ、まったくの誤解ですから。音楽商売で‘artist’と呼ばれるのは、当初フランス語を真似て‘artiste’、「アーティースト」と言っていた(今も主に舞台関係では同義語として健在)、それこそ「芸能人」って意味。音楽に限らず、役者だの各種芸人だのは悉く‘artists’なんですが、それがわかっていない訳者による英米の音楽・芸能記事はしばしば妙なことになってまして。

‘artist’の第一義が「芸術家」、分けても「画家」ということになったのは19世紀とのことですが、ラテン語における‘art’の原義は、何によらず「熟練の技術」というようなもの。各種の職業、学問の他、文学、演劇、音楽、美術その他、言わばあらゆる領域における玄人の技といったところかと。英語で特に美術に関して使われるようになったのは、やはりフランス語経由で、16世紀末とのことです。

その後17世紀には、より原義に近く、教師、医師、料理人など、さまざまな分野について用いられるようになったものの、現代語としては、美術においても彫刻その他より絵画に特化した用例が多く、同時に、舞台やテレビ、映画などにおける各種芸能人を指すのが普通。したがって「芸能人じゃなくてアーティスト」ってのはかなり間の抜けた言いよう……の筈なんですけどねえ。もちろん外来語という日本語としてはそれでいいのですが(演歌や歌謡曲やJポップにおけるただの歌手ではなく、それよりどこか高級な人たち?)、それを英語の‘artist’の訳だと思ったら間違い、ってことなんでした。

またぞろ「それがどうした」って話ではありますが。

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……という、またしても無益なる記述。相済みませず。

「ニュアンス」に関しては、もうだいぶ前(3年前の2015年2月)なんですけど、高齢の女性作家による差別発言について、ある人が自分のSNSのページで辛辣な批判を加えていたのを読み、それに応じて記した拙の投稿に対し、随分とまあ高みから愚蒙極まる言いがかりをつけてきた頓痴気がおりまして。

まずその拙文ですが、

《逆差別という言葉が「順」差別者をますます増長させたところもあるような気がします。positive discrimination(= positive/affirmative action)ってのが何ら後ろ暗い観念でないのとは対極をなすような。現状が不条理、不公正に満ちている限り、それを少しでも正す上で逆方向への働きかけが穏当かつ不可欠であるは明白、ってことで。》

というもの。これだけでは釈然とは致しませんが、当然この前提となるその御仁の記述が先行するわけで、件の馬鹿はその先行記事を書いた当人をも、実に身の程を弁ぜざる愚劣さ傲岸さでこき下ろ(そうと)してたんです。

とりあえず上記の拙文に対するトンチンカンな難癖を以下に。

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なにがいいたいのだろうか?
英語と日本語のニュアンスの違いは文化の違い。
ある事象に関してモノをいいたいのなら、
日本語で 簡単に 発言してくださいな。
 
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
だってさ。

因みに「~を言いたい」は古典的な破格で、「~が言いたい」でなきゃ、余人は知らず、とりあえずあたしゃどうにも落ち着きません。そもそもこいつ、「違い」は「ちがい」としておきながら、ぜんたいどういうつもりで「何」とも「言いたい」とも書かねえんだか。和語と漢語の別なんて観念があるとも思えねえし。

加うるに、無益なだけでなく邪魔でしょうがねえ改行命令もいちいち気に障ります。句読点を用いたら強制改行が必須だとでも思ってんのかしら。和文中に欧文(半角英数字)スペースを平気で混ぜてやがるし、まったく何から何まで念の入ったる不快さよ。

でもそれらは枝葉末節。眼目はまさにこいつの言う「日本語」よ。それこそ何を指して日本語だてえんだか。とりあえず「ニュアンス」ってのは何語かね。原語であろう英語や仏語はもちろん、外来語としてもこれ、飽くまで「違い」って意味だってことは既述の如し。

〈日本語で 簡単に 発言してくださいな)ってひとに言うぐらいなら(それにしても何なんだよ、その語間の空きは)、まずてめえがまともな「日本語」(含字音語)で「発言」(俺はしゃべっちゃいねえがな)してみてくださいな(ヤだねえ、皮肉のつもりで真似したんだけど)。「英語と日本語の違いの違いは文化の違い」になっちゃうんですぜ、それ。簡単ってより大間抜け。でも「日本語」として「ニュアンス」なんぞよりゃ「違い」のほうがまだ簡単ではあろうよ。やまとことばたるところを誇示するなら、これこそ「ちがい」と表記すべきに非ずや……なんてのはこいつにゃ高尚に過ぎる議論か。

俺だって鬼じゃあるめえし、単にちょいと頭が悪いとか言語能力が希薄だってだけならここまでやっつけようたあ思わねえさ。これはまあ子供の頃から一部の教師なんかについて抱き続けてきた感慨でもあるんですが、つまるところ「てめえがそんなにバカのくせに威張り腐って他人をバカにするんじゃねえ」ってことなんですよね。どうにもガラが悪くて恐縮至極。よっぽど幼児期からの恨みが深いのでしょう。

でもこいつ、上記の言いがかりだけでは飽き足らず、サイトの主たるその批判記事の投稿者のこともやたらエラそうに馬鹿にしてたんですよ(馬鹿はどうしたっててめえだろうに)。まあひとんちで喧嘩を買ってるわけにも行ず、そっちでは敢えて反応しなかったんですが、サイトの主は結構怒ってましたね。

それが、後から自分のところを開いてみると、知らぬ間に勝手に覗き込んだと見え、ご丁寧にも下記の文句が書き込まれておったという次第。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
君はまず
そのダラダラしたくだらない文章を
10行グラにまとめる勉強をお勧めする。

君のマスターベーションに付き合っていられない。
 
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
こんだまたさらに念の入った表記の混乱ぶり。句読点の有無が改行の条件ってわけでもなかったのね。てえか、このバカ、改行と読点が一緒だとでも思ってんじゃねえか。それにしたって切り方が妙ちきりんだし。

ともあれ、これに対し、とりあえずはあたし、「10行グラって何だろう?」とだけ書いといたんです。そのほうが「粋」かな、とも思って。でもどうせ野暮が身上だし、折角「ツッコんでください」とでも言わんばかりの間抜けな、それでいてこうもエラそうな文言を並べられたんじゃあ、ちょいともったいなくもなるじゃござんか。

で、改めて以下の如く「編集」。

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「10行グラ」とは何だろう。「10行ぐらい」のつもりなのだろうが、それにしてもなぜカタカナなのか。

「君はまず……お勧めする」と言われても、 僕は何も勧めなどしない。これも、「君には」ということであろうとは察せられるものの、こうも基礎的な統語能力に欠けるのでは、やはり何を勧める気にもならぬではないか。言語処理能力の貧しさは論理性の乏しさの表れとは言うが、これほど端的な事例に遭遇するのも珍しい。少々驚いた。

「マスターベーション」というのもまた随分と手垢にまみれた比喩ではあるが、今どきではむしろ新鮮味さえ感じられる。しかしそのマスターベーション、果して付き合ったり付き合わなかったりするものなのだろうか。自分には夢想だにし得ないことだが、この人物の場合、相手によっては付き合っていられるようである。いずれにしろ、他者が公然と為したものを指してマスターベーションとは呼ぶまい。正常な知能を有する者であれば。

とまれ、付き合うとか付き合わないではなく、これ以上付きまとわないで貰いたい。そもそも他人のページに挨拶もなく入り込み、正常な知能と人格を備えていれば到底不可能なまでの不遜かつ愚蒙極まるこの所行。かかるともがらが己と同じ人類として罷り通るこそ黙し難けれ。

まあ蒙昧というだけなら多少気の毒に思わないでもないが、愚劣さがそれを遥かに凌ぐのではもはや手の施しようもあるまい。勉強とやらによって何とか身につけられるのは皮相的な知識の形骸に過ぎぬであろうし、愚が過ぎればそれとても到底叶わず、ということを宛然誇示するが如きこの傲岸さ。一口に愚蒙とは言うが、たとえ蒙を啓くことはできても、愚は所詮如何ともし難く、愚が勝ればもはや啓蒙の余地とてなし、といったところか。

こうした手合いとこそ何とか住み分けができぬものかと。

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……てな具合。元より本気じゃありません。威張り腐った馬鹿野郎を理詰めでやっつける稽古、とでも申しましょうか。不毛な稽古もあったもんで。

滅多にありませんけど、英語で威張ってくる手合(母語話者とは限らず)に対しては、

‘Thank you for reminding me of the names "David Dunning” and “Justin Kruger”.’

って言うことにしてます。これでムッとするようなら、まだ少しは物を知ってるってことにもなりましょうか。でも、たとえ知ってはいても、よもや自分が該当するとは金輪際思わないのが、その「ダニング‐クルーガー効果」、すなわち根拠のない優越感、自己に対する現実とは対極の過大評価や他者への非合理な過小評価を眼目とする困った勘違い、ってことだったりして。

あれ? そりゃ俺もか。

                  

まあいいでしょう。ところで今気づいたんですが、‘effect’を何でもかんでも「効果」って言うのはやっぱり誤訳でしょうな。薬の効き目ってのはあっても、病気の効き目たあ言うめえ。怪我の功名ってことはあるかも知れねえが。これもまた「同一性」と同工の安直な和訳「術語」の事例かと。

どうでもいいや、もう。てえか、相変らずわけの知れねえ話になっちゃって恐縮。

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