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each other/one another
‘Each other’ and ‘one another’ are interchangeable in all contexts: no differentiation is made according to the number of the items involved. Perhaps ‘one another’ would be preferred in general statements, ‘each other’ tending to be preferred in particular situations. ‘Either other’ was used in the past exclusively of two items, but has long been obsolete.
大意:‘each other’と‘one another’はあらゆる文脈において交換可能であり、事項の数によって使い分けられるわけではない。前者が一般的、後者が特殊な話題で好まれる傾向にあるとは言えるかも知れないが。かつては2者にのみ用いられた‘either other’という言い方もあったものの、既に廃れて久しい。
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neither
As a pronoun, ‘neither’ is technically singular (along with ‘either’), but it has often been used for centuries with a plural verb when followed by ‘of + a plural’. In colloquial and/or informal English, plural verbs are more usual.
大意:代名詞としての‘neither’は、(‘either’と同様)厳密には単数であるが、「of+複数(代)名詞」の前に置かれた場合は、過去何世紀にもわたってしばしば複数動詞とともに用いられてきた。口語や略式表現では複数動詞のほうが普通である。
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none
‘None’ can be either singular or plural according to whether the emphasis is on individuality or collectivity. When followed by ‘of + a plural’, it is usually treated as plural, especially in informal speech/writing, as a result of proximity agreement. The supposition that it is short for ‘no one’ is naturally a mistake.
大意:‘none’は、個々を指すか集合的に用いるかによって単数とも複数ともなる。通常、「of+複数(代)名詞」の前に置かれたものは、proximity agreement(近接呼応?)により複数とされるが、略式の発話/文章ではよりその傾向が強い。‘no one’の略と見なすのは当然誤りである。
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Sentence patterns 〔文型〕
In most modern grammar, A = advervial is one of the elements of clause structure, comparable to S, V, O, C.
大意:大半の現代文法書において、A=副詞(句/節)は、S=主語、V=動詞、O=目的語、P=補語と並ぶ構文要素となっている。
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subjunctive 〔仮定法……ってこれ、どっちかってえと「言い方」ではなく、動詞の「語形」のことなんですがねえ〕
The order of prevalence (or general preference) in actual use — outside the US — would be: 1. should + infinitive, 2. indicative, 3. subjunctive. The subjunctive largely passed out of use after the 16th century and had almost died out, apart from ‘were’, when it was revived around early last century in the US, having been regarded as a distinct Americanism since. It is, however, much more common today than before in Britain and elsewhere, especially ‘be’.
大意:実際の用例における優勢な(あるいは一般的好尚の)順では、1.should+不定詞、2.直説法、3.仮定法、となる。16世紀以後、仮定法は‘were’(仮定法過去)を除いて殆ど使われなくなり、前世紀初めに米国で(何故か)復活する頃にはほぼ消滅状態にあった。復活後も、長らくアメリカ語法の典型と見なされていたが、今日では、殊に‘be’(仮定法現在)など、英国その他でも以前より遥かに普通に用いられるようになっている。
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tense changes 〔時制(=時間的要因に応じた動詞の語形)の変換〕
By cause of proximty concord, it is usual that the tense of the verb in a subordinate (reported) clause is attracted to the verb tense of the matrix (reporting) clause, unless the speaker/writer wishes to emphasise that what is reported is something (s/he is convinced is) permanent or still a matter of fact at the time of reporting. Hence, ‘Copernicus concluded that the earth WENT round the sun’ is no less acceptable than ‘Copernicus concluded that the earth GOES round the sun’.
大意:proximity concord(さっきはconcordではなくagreementにしたけど、飽きるかなと思って。「近接一致」とでも言うんですかね、これ)により、従属節の動詞の時制は、主節の動詞と同じになるのが普通である。従属節の内容が永続的なもの、あるいは発話の時点で依然そのままである(と思われる)ことを強調したい場合のみ例外となる。よって、「コペルニクスは地球が太陽を周回しているとの結論に至った」という文において、「周回する」という動詞は、現在時制と同様、過去時制でも何らおかしくはない。
【補遺】
普通は‘main clause’の訳が「主節」なんですが、それだと主と従の全体(しばしば文全体)を指すことになるため、主たる節のほうは‘matrix clause’ってんですよね、だいぶ前から。でもこれ、日本語の英文法じゃ何て言うのかわからないので(基盤節?)、とりあえず旧来の「主節」とはしときました。
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than (in the comparative) 〔(比較における)than〕
It is far more common to use ‘than’ as a preposition than as a conjuntion both in speech and in writing unless leading to ambiguity. When it is used as a conjunction, the verb is normally retained, except in very formal or literary writing.
大意:‘than’は、文意が曖昧とならない限り、口頭でも文書でも、接続詞より前置詞として用いられることが遥かに多い。接続詞の場合、ごく格式張った、あるいは文学的な文章以外、通常動詞は省かれない。
【補遺】
You are taller than ‘me’は間違いで、‘I’でなければならない、っていう例のやつです。今どき誰が本気でそう言うかよ。‘I’にしたけりゃ、‘... than I am’と、動詞も添えて節にしなきゃ変。
40何年前に買ったビートルズのアルバム、‘A Hard Day's Night’(てえか「ヤア! ヤア! ヤア!」)のジャケット裏にも、‘If I Fell’の一節、‘... that you would love me more than her’を「正しく」間違えて、「珍しく女性の立場で歌っている」なんてとぼけた解説が載ってましたけど、そりゃ確かにあんたの言うとおり、これだと「正しくは」‘... than (you would love) her’の略ですわな。でも文脈だの状況だのってもんがあんでしょうよ。どんな言語だってそういういろんなもんを踏まえて成り立ってんじゃねえか。演歌でもあるめえに、ジョンとポールが女のふりして「彼女よりあたしを愛して」なんて歌うもんかい。「彼女より君のほうが僕を愛してくれると云々」というこの歌詞も、「正しく」‘... than she’って言わなきゃわかんねえってんじゃ、そりゃ単に英語知らねえだけの話。どうでもそう言いたければ‘... than she “would”’としなくちゃやっぱりヘンテコよ。その後に続く‘love me’はまったくの余剰となるので要りませんけどね。メロディー(音節数)や韻とかの都合で意図的にそういう長い文句にする場合もありましょうが。
ああ、そう言えばこの‘A Hard Day's Night’って文言も、「労働階級出身」たるビートルズの無学ぶりを示す例だとか何とか、知りもしねえでエラそうに恥をさらしてる奴らも目にしますな。曰く「無生物名詞に所有格はないから‘day's’は間違い」とかね。ご丁寧にも「正しくは‘a night of hard day’である」とまで抜かす強者もおったわい(どうしても言い換えたければ‘the night of a hard day’……野暮だけど)。こいつらみんな、いったい何をどうすりゃここまで文法なんざ微塵もわからないまま、エラそうにトンチンカンな文法講釈ができるんだか(これは反語、修辞疑問ってやつです。答えは決ってる。何をどうこうするまでもなく、バカだから!)。
百年も前の文法書、語法書にだって、無生物以外に所有格の‘'s’が用いられる(代表的な)例として「時間を表す名詞」ってのは必ず明記してありますぞえ。でなかったら、シェイクスピアもビートルズ同様「無学な田舎もん」ってことんなっちまうじゃねえかい。だって「真夏の夜の夢」って‘A Midsummer “Night's” Dream’なんだぜ。どうすんだよ。てより、そんなことも知らねえバカが(いくらバカだからって)、イギリス人であるビートルズの英語を高みから論おうとは、身のほど知らずにも限度というものがあろう、ってなもんさね。
これ、単純な話で、しばしば妙な言葉づかいで笑いをとっていたリンゴの発話をそのまま採用したってことです。何が特殊かと言えば、「今日はきつい1日だったな」と言えばいいものを、わざわざ「きつい1日の夜になったな」って言ってるところ。変った表現なので歌詞や題名として重宝したってことであり、文法的破格なんかじゃありませんから。敢えて言わねばならぬこととも思えぬが。
実はこのときのリンゴ、「1日……」と言いかけたら既に夜だったのに気づき、即興で「の夜」を付け加えたってだけだとも。国語の「日」同様、通常は英語の‘day’にも日没後までが含まれるとは言え、原議は飽くまで「日中」ですから。日本だって日が暮れたら「こんにちは」じゃなくて「こんばんは」に切り換えるでしょ。
名詞の主格と目的格は同形なので、「通格」などと称してとっくに一緒くただし、人称代名詞の目的格も、対格(直接目的語)と与格(間接目的語)の区別はなく、まして奪格(行為者、道具などに付される前置詞の目的語)なんざ古英語にもなかった……ようですぜ。‘you’と‘it’は主格と目的格が一緒で、‘she’は所有格と目的格が同じだったり、という一貫性の欠落については、数(単数か複数か)や性(特に‘he’と‘she’)による区分が徐々に曖昧化した結果だそうで。
それより、近年の文法書ではその一部人称代名詞についてさえ主格と目的格しか認めず、‘my’だの‘your’だのは決定詞、‘mine’だの‘yours’だのはそれ自体が主格と目的格を兼ねた独立の人称代名詞であり、‘I’だの‘you’だのとは別語、って扱いになってます。「決定詞」ってのは‘determiner’の訳(仮訳?)で、「限定詞」と訳されている例も散見しますが、これ、‘the’とか‘some’とか‘every’とかの一派で、冠詞、指示詞、数量詞はその細目。でも日本じゃ未だに品詞扱いはされず、形容詞の下位区分のままだったりするんですよ。いったい何十年遅れてんだか。そういう近年の(実は何十年も前からある)本場の文法書なんか読んだこともねえのかしらね、日本のエラい先生たちは。
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……という塩梅でして、終りのほうは先般の「アイデンティティネタ」と内容が重複しとりますが、原文はこっちが先なんでした。いずれにしろ、どの記述にもかなり無理やりの難癖って風情が漂っておりますけど、このぐらいでもまだ敵の強大さには到底太刀打ちできないのは百も承知。無力感に苛まれます(ウソ)。
簡潔な概要とはほど遠いにもかかわらず、いちいち「大意」って言ってんのは、元の文言をまともに訳したわけではないから。自分で書いた英文だし、ハナは真面目に和訳しようかとも思ったんですが、あまりにも厄介なのですぐ諦めました。
普段やってる和訳仕事でも、毎回随分悩んで何とか納期に間に合わせてるような体たらくなんですけど、他人の文章を正しく書き換えねばならない作業だから大変なのかと思ってたらさに非ず。自分で書いたもんでもめんどくささに変りはなかったのでした。厄介さの大半は、単純に文章としての体裁を整える作業におけるもので、読めさえすりゃあ(この場合は書けさえすれば、ってところですが)簡単に訳せるだろう、とは参りませず。結局あたし、この仕事に向いてないんですね。それはとっくにわかってんだけど、10何年前にDTPオペレーターてえもんをやってた印刷会社をクビんなって、どこにも雇って貰えず、やっとありついた仕事がこれでしたのよ。
六十に近い者がコネもなしに職にありつくのは、景気のいいときだって至難(なんか景気は上向いてるとか言い張る向きもおりますが)。学歴も資格も経験も、特に誇示すべきものなどないとあればなおさら。
いや、仕事の経験なら当然あるのですが、世の移ろいが急激に過ぎ、どんな経験も10年で時代遅れとなってしまう昨今、英文タイプだの古い組上げソフト(それもMac版のみ)だのの技能なんて、もはや何の意味もなさず。当初は主に清掃だの仕分けだのといった方面で手当り次第に応募してたんですが、やっと面接まで漕ぎ着けてもやっぱり全滅です(その後視力の低下が甚だしく、いよいよ無理ってことに)。たまたま自分が困っていない連中(明日は我が身かも知れまいに)は平気で、そりゃ君自身に問題があるからだよ、なんて言うけれど、それではどのみちどうしようもないではないか。みんなおいらが悪いのか。
そう言えば、40年近く前の滞英中、ケンブリッジ大の英語検定、外国人対象としては当時2種類しかなかった試験の両方に合格してたんでした。FCEとCPEてえやつ。ただしFCEはGrade Aだったのに対しCPEのほうはB級。Cまでは合格だからまあいいでしょう。今ではその検定にも数段階あり、日本でも受験可能で受験者数もかなりあると聞いてびっくり。かつての日本では殆ど知られておらず、英検ほどの価値もなし。自分自身が軽視していたところ、気紛れにウェブで調べてみたら、なんとCPEはTOEICの満点級に近い水準とのこと。信じられん。今受けたらたぶん落ちるね。
で、肝心の就職試験ですが、結局は「適性検査」という、知能検査(!)がちょっとと血液型占いの如き性格診断が大半の膨大な筆記問題でいちいちまごつき(直感で答えよ、ったって、どうしたって考えちまうじゃねえか、こっちは)、恐らく惨憺たる結果。知能検査的な問題については、「なるほどIQとはよく言ったものよ、生活年齢が上がれば(つまり六十近くの我が身)その分精神(知能)年齢の比率は下がるが道理」などと今さらの如く感心する始末。
そもそも知能検査の問題なんて、昔から余計なことを考えたら即負けって作りだったし(?)、その有効性が否定されて久しい……と油断してたら、この歳になってこんな目に遭おうとは。今の歳じゃ10歳の頃の自分に遠く及ばざるは灼然炳乎。尤も今どきはDIQ、偏差知能指数とかいうほうが有効だとも言いますが、いずれにしろ要らぬお節介。どうやらこの適性検査ってやつ、ウェブサイトの普及によって儲けられなくなった大手求人情報会社が編み出した新手の商法らしい(既に古びつつある?)。
その理論武装の内容(の一部)が上掲の英文群だったわけですが、自分自身も中学高校では、後に大間違いだと判明する「正しい文法」を教え込まれ(勉強なんか殆どしちゃいなかったけど)、それに従っていれば試験の点数は取れるものの、そんなんじゃ新聞だってまともに読めねえじゃねえか、とは思ってたんです。そんなこた現実の英語に接していればどうしたって気づかずにはおられぬ筈、と思いきや、そういう伝統的日本英語に不可解極まる義理立てを続ける者が、肝心の英語業界にこそ依然はびこっていることに驚愕……ってのは嘘で、今さら驚きもしませんがね。
いや、「義理立て」なんて殊勝なもんじゃなく、そうした誤謬が罷り通っていればこその、国内限定外国語商売。ほんとのことがバレちゃったらさっそく身の置きどころに困りそう、ってな手合ばかり(自覚もないんでしょうけど)。「誰も本当のことなんか知りたくもないんだわ」っていう、大貫妙子の歌の文句を思い出しちまったじゃねえか。
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……という愚痴または言いがかりでございました。それにしちゃ長い。先刻承知。またもとんだご無礼を。
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