2018年2月28日水曜日

日本人の知らない「おられますか」

かなり古い話ですが、2010年7月末、またぞろ友人に送り付けた長大な敬語論、ってより「正しい敬語の作法」とやらにに対する言いがかりを、ざっと見直しを施して以下に。

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姉貴んちに「日本人の知らない日本語」てえ「絵本」(読み物なんだか漫画なんだか判然としない本)があったので、ちょいとめくってみたら、なかなかおもしれえじゃねえか。だいぶ前から評判なのは知ってた(こないだ〔2010年7月15日〕からつまらねえドラマ仕立てにしてテレビでもやってやがる)。日本語学校の外国人生徒が発する、大抵の日本人には到底答えるよすがとてなき日本語についての難問奇問にまごつく教師の図、ってのが主旨。70年代の英国で同工のドラマやってたけど、何と申しましょうか、日本も偉くなったものよのう、って感じ?

ところが、ここでも思わず「またかよ」って思った部分がありましたのさ(これわざとね。「思わず」に「思う」たあ俺もなかなか……)。事務員か何かが「先生おられますか」と言ったのに対し、「生徒の前でそういう誤った日本語は……」みたような注意をするてえくだりなんだけど、それもう厭きたよ。

そっちにゃ前にも何度か言ってる(書いてる?)けど、この「おられますか」がなんでいけねえのかってえと、謙譲語「おる」と尊敬語「れる」(「ら」は助動詞のほうではなく、動詞本体「おる」の活用形の一部てえことで)を混ぜちゃダメよ、ってな理屈なのよね。自分を卑下してみせるための謙譲語を、おだてるべき相手の行為に用いたんじゃ台無しであり、後からそれに「れる」だの「られる」だのという尊敬語をつけたって(ついでに丁寧語「ます」もおまけしたところで)、ダメなもんはダメっていうご高説。

                  

でもねえ、この「おる」、いったい誰がいつ謙譲語だって決めたんだか。単純に、実際それだけで謙譲語として使い物になるかどうかやってみりゃすぐに知れるだろうに。てめえがへりくだってる体を表すには、どうしたって「おり『ます』」とでもするしかあるめえ。「参る」だの「申す」だのも一緒。「ここにおる」だの「すぐに参る」だの「成田と申す」だのと言ったんじゃ、謙譲どころか威張ってるとしか思われねえぜ。つまり、この一派はまったく謙譲語なんぞではなく、敬語として機能しているのは付け足しの丁寧語「ます」だけってこったよな、明らかに。

前からおかしいと思ってたから、昔たまたま図書館へ行ったついでに敬語指南の本を片っ端から覗いて調べたことがあったんだけど、なぜこれが相手の動作に用いると間違いとなる謙譲語に区分されるのか、説明している例は皆無。「昔は『おられる』だの『申される』だのという言い方も行われていたが、『現代の用法では間違いとされる』」てな支離滅裂なことばかり言ってやがる。

言語表現の正当性を担保し得るのは、「本来はどうだったか」ってこと。今流行りの言いようを、その妥当性の根拠もないまま強引に基準として、以前通用していた語法を間違いだと決めつけるなんざ、言うなれば狂気の沙汰じゃねえかい。そんな気の利いた沙汰とも思っちゃいねえけど。

昔からさかしらな連中が言いたがる(おっと俺か)、「『言えてる』じゃなくて『言える』だろう」とか「『食べられる』を『食べれる』とはけしからん」とかってのも、すべて以前からの穏当な言い方に反する物言いへの苦言(愚痴)じゃねえかい。いくら言ったって悪貨に良貨が勝てる道理がねえなあ先刻承知。せいぜい己だけは昔どおりの言い方を貫こうと思うしかねえわけだが、貫いたからって、「それは今の言い方では間違い」だなんて言う奴ぁいねえぜ。そのうち「古い」って言われるようにはなるかも知れねえにしたって、古いから間違ってるってことにゃなるめえよ。

                  

尤も、大野晋によれば、「おる」の原義は「低い姿勢で座ってる」ってことだそうで、だから謙譲表現てえことにもなったらしい。「参る」、「申す」、それに「致す」、ついでに「存ずる」なんてのも似たような例だと。最後のは半分漢語みたようなもんだけど。

一方、明治から昭和初期にかけての文法学者、松下大三郎はこれらを「荘重語」であると主張した由。おらもそう思うだよ。

尊敬と謙譲ってのは、つまるところ相手をおだて上げるかてめえが這いつくばるかの違いで、つまりは同じ効果を逆方向から狙ったもんでげしょ。尊敬語と謙譲語がお互い反対の方向から相手を持ち上げようという、言わば直接的な敬語だとすると、丁寧語ってのは、何でもかんでも角の取れた丸い言い方にすることで、間接的に相手への敬意を表そうというちょいと姑息な手だよな。で、それと言わば対をなすのが、何でもかんでも勿体つけて立派に見せようという荘重語てえことになるんじゃねえかと。

荘重ってだけじゃ威張ってるようにも聞こえるわけだが、これに柔らかさを加味するのがデスマス系の丁寧語てえ連中。その両者の抱き合せによって、勿体つけながら如才なさも抜け目なく示すという、敬語表現としてはより高度な技とはなるてえ寸法じゃねえかい。丁寧語を間接的敬語(とは誰も言っちゃいねえが)とするなら、それを補完するのが荘重語であるとも言えよう、なんてね。

松下大三郎ってのは遥か昔の、文法と語法も未分化だった時代の野郎だし(因みに敬語ってのは文法=統語則ではなく語法の問題と存ずる)、その文法論もかなりクセのあるもんだったてえ話で、だから大野も言及していないようだけど、金田一春彦(既に故人)はだいぶ前に、この荘重語と丁寧語の結合体を「丁重語」と命名してますな。さらに「美化語」という概念も導入し、敬語の分類を従来の尊敬、謙譲、丁寧よりかなり精密なものにしてたりして。

                  

さて、「おられますか」誤謬説こそ誤謬と断ずる根拠として、「おる」だの「申す」だのが、実際には何世紀も前から謙譲語ではなく「荘重語」として通用してきたのが明白だから、ってことでどうでしょう。今どきの浅はかな敬語通どもは、明らかに何の理屈も道理も考えることなく、恐らく大野の伝える古代の用法なんざ知りもしなけりゃ知ろうともせぬまま、単に習い覚えたカラ知識を受け売りしてるだけじゃねえかと(相変らず失礼な)。

もとより大野は語源論を説いているのであって、それは「正しい敬語の使い方」なんていう俗臭芬々たる代物とはまったく趣きを、ってより次元を異にする話でござろう。上代の語義がどうだったにしても、現代口語どころか近世、いや中世には既にそんなもん一部の物好き以外知ったことじゃなくなってんだから、それを根拠に「おる」は謙譲語なので「おられる」は成り立たない、なんて言いぐさはまさに愚の骨頂(おっと、こういう紋切型は避けたいとは思っててもついね)。

同じく大野の本で知ったことだけど、形容詞「あたらし(い)」と「あらたし(い)」は元来まったく別の意味だったのが、千年も前には既に混同されるようになり、いずれも後者の意、すなわち「新」の意味で使われるようになった挙句、今ではちょいと文語調の形容動詞としてしか後者が用いられることはなくなった、ってな例もある。だからって、「あたらしい」は間違いだから「あらたしい」と言うべし、なんてことんなるかよ。同時に、「新たな」だの「新たに」だのは「現代語としては間違い」なんていう言いがかりがつけられるもんなら、構うこたねえ、やってみりゃいいだろうぜ。

いや、俺だって今どきの妙な物言い(「日本語の乱れ」なんて言い方も嫌でね……ただのわがままか)にケチつけるときには、既述の如く昔の語法、すなわち「かつてはどうだったか」ってのを基準にしてるさ。それしかねえもん。しかし、だからこそ、この「おる」その他を謙譲語と決めつけ、自分以外の主語に用いるのは無礼だとか、尊敬語の「れる」をくっつけた「おられる」という言い方は成立しないなどというたわごとにゃあウンザリしてんのさ。

                  

これがどうでも謙譲語だと言い張る連中は、その妄説を正当化せんがため、止め処もなく屁理屈を並べやがるね。曰く、昔の侍が「そう致せ」だの「何を申すか」だのと言っていたのは、本来謙譲語であるものを相手の言動に対して用いることにより、目下の者をことさら貶め、自らの優位を誇示しているのだ、とかさ。ついでにそういうのを「尊大語」などと名づけてたりもするんだけど、これ、韓国朝鮮語の念入りな敬語表現を指す「尊待語」を聞き間違えた末の、勝手な解釈の産物だって噂も。

ちょっと考えりゃすぐに気づきそうなもんだけど、上記の如き侍の台詞は、目下(これ、「もっか」って読みたくなるね)に限らず同格の者に対しても使うじゃねえかよ。対等の相手に向ってわざわざそいつを貶めるようなことを言ってたんじゃ、ばんたび斬合いにもなり兼ねまい。つまり、「致す」も「申す」も、もちろん「おる」も、何ら相手を貶める効果はなく、そもそもハナから謙譲語ですらない、ということになるではないか。

で、現代語としてもその意味に変りはなく、どっかのおっちょこちょいがそれを謙譲語であると言い出すまでは、松下が名づけた荘重語こそ、誰もが納得する妥当な用法だったろうに、と思慮致す次第。

                  

因みに、上述の如き台詞は、よくある時代劇の脚本家が勝手に作ったもんじゃなくて、実際昔フツーに言ってたのは、当時の「口語体」による文書(ここは「もんじょ」と読まれたし)からも明らかでござる。

同じく誤った敬語として、目上に対する「ごくろうさま」はけしからん、って言い張るのがいつの頃からか流行るようになってますけど(てめえよりえれえ奴には「おつかれさま」だってのね)、もちろん平気でこういう受け売りをなさる方々は、なんでそうなのかなんてこたあ生涯お考えにもならない。で、これこそ時代物の台詞を発生源とする間違いの例だてえ説もあるのよ。

つまり、殿様が家来に向って「ご苦労であった」なんて言ってんのがその元凶なんだとか。黄門様も助さんや格さんによく「ご苦労じゃった」なんて言ってるしね(東野英治郎の頃だな、そりゃ。今(2010年)の里見版だと「ご苦労でした」か)。それを愚かにも誤解して、上の者が下の者に言うのが「ご苦労」だろうと思い込んだんじゃねえかてえわけさ。立場が逆の場合は「お疲れ」ってのもまったく根拠が見いだせない。これ、上か下かとは無関係に、もともと意味が違うだろう、ってことにも金輪際気づかないほどの愚劣さだからこそ、まったく理由もわからぬまま(ありもしねえ理由にゃわかりようもねえわな)、平然と他人に「教えて」やれるわけだ。やっぱり恐ろしい。

そもそも、殿様が家来の動作に対してなんで「ご」なんかつけるかよ、バカバカしい。昔の時代劇じゃあ「大儀であった」とか言ってたもんだがねえ。「『ご』苦労(さま)」って言ったんじゃ、どう足掻いたって(安直な)敬語とならざるを得まい。下位の者にも敬意を払うべしてえなら、そもそもこんな時代になってまだ目上だ目下だって言ってんのこそ度し難いってことになろうよ。

てえより、語尾にこの「~さま」を付す形ってのは、「ごちそうさま」だの「おきのどくさま」だのと同工の、やっぱり敬語表現としてはかなり安直なもんじゃねえかえ。後者などは、いつのまにか肝心の敬意は薄れ、何やら高みから憐憫を表するのに用いられてんじゃござんせんかね。

「ご苦労」だろうが「お疲れ」だろうが、本来は相手の労苦への敬意を示す名詞の筈で、然るべき構文の下に然るべき形で用いられてこそ然るべき敬語機能も生じる、ってところではないかと。それにいきなり「さま」だけくっつけるってのは、随分と横着な仕口でしょう。あんまりそういう文句言ってる人もいないようだけど(あんまりどころか、一度も聞いたことねえか)。

水戸黄門とかがどうこう言う以前に、この「おつかれさま」、芸能業界(あるいはテレビ関係者間?)の隠語だったものを、例に漏れずちょいと聞きかじったトーシロが真似し出したのが一般化しただけ、との穿った説もあるようですぜ。いずれにしても、ハナはどうだったのか、自らの体験として憶えている人は既に相当の高齢者の筈。もはや少数ではあろうし、存命ではあっても「初出」を明言し得る者は皆無なんじゃないかしらと。

ま、どのみち「正しい作法」などを論うべき正統性を有する語法とも思われず。それはまさにその語形からして既に充分察せられるところ、って気もするけれど、そうなると、対を成すような「ごくろうさま」だって、あんまり立派なやつじゃなかった、ってことに……なるんですかね。わかんねえや。てより、もういいや、それは。

                  

さてと、日本語の美しさだかなんだか知らねえけど、敬語全体が過去の因襲であるは明白。それをどうでも温存してえなら、せめてかつての用法を遵守し(ただし千年も前に廃れたものが使えねえのは既述の如し)、一切の撞着を排するよう極力努めねばなるまいて。俺の知ったことじゃねえが。

過去の因襲なんてえと怒り出す愚者もいそうだけど、敬語たあ本来そうしたもんでしょうよ。美しい日本語がどうこうって話なんざもとよりどうでもいいわい。むしろ、実際はこれっぽっちも敬っちゃいねえのに簡単にそのフリができる、あるいはフリだってのがバレてても体裁だけ取り繕って丸く収めることができる、ってところが最大の効用たるは明白。虚偽もまた美しい、ってんなら俺は一向に構わんが。

でも敬語自体が別に日本語特有の言語現象てわけじゃねえし。そこがわからねえバカが「得意の」英語で随分無礼な物言いをしてたりするんだけど、しゃべり自体があまりにもヘタクソだから大目に見て貰えてる、って実情に生涯気づかなかったりしてさ。韓国語なんざ、なんせ卸し元の中国より儒教大事のお国柄ゆえ、敬語についての厳しさは日本語の比ではない、とも聞くね。知らねえけど。「尊待」なんて「尊敬」より上等って感じはする。

とにかく、「おられますか」が間違いだってほうがよっぽど間違いだってのが俺の言い分よ。文句があるか、てなもんさ。

                  

しかし敵も引っ掻く者、おっとサル者にて(敵ったって誰なんだか……『レマゲン鉄橋』の‘Who's the enemy?’を「何を指して敵という」とした吹替えは秀逸ですが……閑話休題)、犬養道子なんざ、とんでもねえ屁理屈をおっぴろげてましたぜ。

これも前に言った(書いた?)とは思うけど、まあこうなったら行きがかりでえ、読んでくんな。この犬養毅の孫娘、「申される」はやっぱりけしからねえとしておきながら、それが正しい場合もあるなどとお抜かしになりやがる。どういう場合かてえと、「ただ今部長が社長に申されたように」てな場合なんだと(もちろんうろ覚え)。

なぜかと言うに、この台詞を吐いてるのは課長だか係長だかヒラだか、とにかく部長より身分の低い野郎で、だから部長の発言に対しては尊敬語を用いねばならぬは言うに及ばざれど、さてその部長の発言はてえと、それよりエラい社長に向けたものだから、当然ここは謙譲語の出番となり、部長対社長の関係においては「申す」、それに言及する自分と部長との関係では、その「申す」に尊敬語「れる」を付すがよろしく、結果、めでたくも「申される」とは相成り候、てなご苦労千万なる屁理屈。思わず「本気かよ」と思ったね(また思わずに思ってしまったけど)。

ちょいと手が込んでるだけに一見厄介そうだけど、論理の体をなさねえ面妖極まる屁理屈であるは歴然。自分にとっちゃ部長も社長もとにかくおだてとかなきゃならねえ相手にゃ違えねえんだから、てめえが部長と一緒くたになって社長に何か言うってんなら、そりゃ好きなだけ謙譲語だと信じてる「申す」って言ってりゃいいだろうけど、ハタから部長の発言に対して、いくらその部長の相手が社長とは言え、勝手に謙譲語(だと思い込んでるもの)を使ったんじゃ、どう足掻いたところで部長に対する無礼とならざるを得まい。敬語の使い方って以前に、そいつぁ人の道に外れようぜ。勝手に他人に成り代ってへりくだってんだよ、当人の意思を無視して。俺なら怒るね。

これほどの不遜に対し、後からいくら「れる」てえ尊敬語を付け足したところで、そんなもん何の言いわけになるかよ。礼儀作法というより、むしろ根本的な論理の問題でしょうけどね。語法がどうだの文法がこうだのという長閑な話じゃなくて。あまりにもくだらなくて、そのくだらなさを説明すること自体が至難って感じ。くたびれた。

つまるところ、「申される」は謙譲と尊敬の混淆なので間違い、っていう間違いに固執するから、両方を一挙に言うべき場合は可、なんていう寝言(寝ちゃあいめえが)まで捻り出すことんなるわけよ。自分は一人しかいねえんだから、相手が何人いようと、敬語は常に一方向にしか使いようがなく、他人の他人に対する謙譲の念と、その謙譲の姿勢を取っている、と言うより自分が勝手に取らせているほうに対する自分の尊敬とを一度に言い表す、なんていう重宝な手がほんとに使えると思ってんだとしたら(本気なんだろうけど)、やっぱどうしようもねえバカでしょ。また随分と知恵のあるバカもいたもんで。

そんで、こういうちょっとは知恵のあるバカの言うことを、ありがたがって受け売りするまったく知恵のねえバカ(それでも大学教授とかだったりする)がまた跡を絶たねえのさ。めでたいねえ、まったく。

                  

念のために言っとくけど、上記「一方向にしか使いようがない」ってのは、たとえば、部長が課長なりヒラなりに「社長に申し上げなさい」ってんなら別におかしかねえよ、ってこってす。つまり、部長である自分も、それより下の課長その他も、社長に対しては等しくヘーコラすべき立場にあり、実際に「申し上げる」のが課長その他だとしても、自分自身が社長に何か言うとすれば、やっぱり同じく「申し上げる」しかねえってことさ。

だから、他人である課長その他の行為について謙譲語を用いたって、それは自身をその課長その他と同列に置いてのことであり、決して、他人を勝手に謙譲させた上でなおかつその他人に対する自らの尊敬も一度に言い表そう、なんていう犬養婆さんのお説の如き横着な了見たあまったくの別物。

さらに申すならば、ここでもやはり飽くまで「申し上げる」であって、「申す」だけじゃあ敬語にすらならねえってことがバレてんでしょ。課長その他に対しては「申し上げなさい」とか「申し上げたまえ」、あるいは「申し上げてください」とでもなろうし、自分が言うなら「申し上げます」だろうさ。どうしたって「申せ」だの「申す」たあいくめえ。改めて「申す」だけじゃあ謙譲語とは言い張れないのがわかるんじゃねえかと。

                  

ついでのことに言っとくと、これら「おる」だの「申す」だのにちょいと類する例として、より卑近なものに「あげる」ってのがあるね。下から上へ移動させるってんだから紛う方なき謙譲語、したがって「犬に餌をあげる」ってのと同様、母親が自分の子どもに「おもちゃ買ってあげるね」なんざ言語道断、っていうあれよ。

けどさ、そんならほんとにその「あげる」を敬語として使えるもんか、おめえ一度でも確かめたことあんのか、って言いたいね。部長でも課長でもいいけど、社長に向って「これをあげる」って言うかね。ま、そこはその会社のありようの問題で、言ったって別に構わねえけどさ。

敬語を使おうてえならどうしたって「差し上げます」とでも言うしかあるめえ。「差し」をつけて初めて謙譲語っぽさが生じ、しかも「ます」という丁寧語を付してやっと何とか敬語として使えるもんになる、ってのが実のところじゃねえかい。「あげる」だけじゃ到底謙譲表現として通用し得ず、てこたあ相手が犬だろうとガキだろうと、別に使ったっていいじゃねえか、って思うのは私だけでしょうか、てなもんよ。

「あげる」がダメだとしたら、何て言うかね。「くれる」ってのが何だか専ら受け手側の言い方ってことんなっちまってる以上、「やる」としか言いようはなさそうだけど、ほんとにそんな荒っぽい物言いが「あげる」より正しく「美しい」日本語だってのかしらねえ。随分と粗雑な美しさもあったもんじゃねえか。「くれてやる」って言い方は嫌いじゃねえが、それはおいらが似非江戸っ子だからであって、敬語の使い方に一家言ありってほどのお上品な方々が今どき用うべき言辞とも到底思われぬし。ま、どうでもいいや。

                  

おっと、もひとつ思い出しちまった。殿様が家来の行為に「ご」なんかつけるもんかい、ってくだりについて少々補足を。

旗本や御家人が自ら「御直参」と名乗るのは、主君である将軍への敬意の表明ってより、言わば普通名詞としての直参、すなわち一般大名の直臣(将軍の直参から見りゃ陪臣)如きとは格が違うもんね、って自慢でしょう。いずれにしろこの「御」は、「直参」が自身のことではあっても、「将軍家の」って意味の尊敬語で何らおかしかねえ、ってことでひとつ。そう言や「御家人」も「家人」(漢音の「かじん」じゃなくて呉音「けにん」のほうです)とは別語だしね。

ついでに、直参の対義語である陪臣は、義訓で「またもの」と読むのがとりあえず基本かと思ってたのが、近頃の時代物じゃ「ばいしん」って台詞が浸透しつつあるね。間違いじゃねえのかも知れねえけど、やっぱり雰囲気が出ねえてえか腰が締らねえてえか。不勉強なのは脚本屋なのか演出屋なのか……いずれにしろ役者の責任は問えまい。

……って言うより、つい調子ん乗ってまた随分と長えもんを書いちまった。いつもすまないねえ。じゃ。

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と、以上が2010年に書き散らしたその長大なる私信(一部修正)。まあ、数少ない友人の中でも特に、下拙と類似の結構な物好きなれば、しばしばかかる駄長文を送り付けてはおったとのでした。

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