2018年2月4日日曜日

目貫あれこれ (1)

また少し間が開きましたが、前回に続き、大小拵(だいしょうごしらえ)の付属品についてのまったく要らざるカラ知識などを。

笄(こうがい)と小柄(こづか)が多少とも実用を兼ねたものであるのに対し、柄の表裏両面に付す装飾品、「目貫(めぬき)」というものもありまして、これら3種の意匠を揃えたセットを「三所物(みところもの)」と称します。こうしたお揃いの刀装品は「揃金具(そろいかなぐ)」と呼ばれ、三所物に加えて「柄頭(つかがしら)」と、反対側の鍔側に嵌める「縁金(ふちがね)」(単に「頭」「縁」とも)を合せた「五所物(いつところもの?)」もあり、その他、鍔なども含め、任意の2種を抱き合わせたものは「二所物(ふたところもの)」ということに。

三所物:目貫、小柄、笄 
二所物(目貫と小柄)
二所物(笄と小柄)
 
さてその三所物の1つ、目貫についてです。装飾品とは言い条、これも起源的には実用品に類するもののようで、打刀様式以前の太刀の時代だと、柄と茎(なかご)とを固定すべく茎に空けられた「目釘(めくぎ)穴」(茎穴とも)に柄の上から通した「目釘」の頭を覆ったもの、とのことなんですが、その前に、そもそも目釘自体が当初は目貫と呼ばれ、「目」はすなわち穴の意で(字義から言えば「孔」が正しいでしょうね)、その目、つまり穴を貫くもの、との謂いであった由。

茎の目釘穴
                   

「太刀」で思い出したんですが、そう言えば子供の頃、「ふとい」ではなく「おおきい」の字を用いた「大刀」という、つい「だいとう」と読みたくなる表記に「たち」と仮名が振ってあるのを見てまごついたことがありました。「太刀」は主に「打刀(うちがたな)」の対義語たるより古い拵の様式を表し、「大」の字の「たち」のほうはさらに古代の、まだ反りのない(打突を基本とする諸刃の?)ものを指すとのことですけれど。

「ふとい」のほうの「太刀拵」にも、経時的な流行の変遷に応じて多くの下位区分があるんですが、とりえあず16世紀に確立した最終形、とでも申しましょうか、柄にも鞘にも丁寧に糸を巻いた「糸巻太刀拵[いとまき(の)たちごしらえ]」の豪華版が、いわゆる「陣太刀」と呼ばれる形式のようではあります。

今日一般に日本刀と呼ばれる、片刃の湾刀、要するに「斬る」のを主旨とする剣は、平安も半ばを過ぎた11世紀かせいぜい10世紀末に出現したとのことで、だとすると、将門なんぞは言うに及ばず、八幡太郎義家なんかが鎌倉風の太刀を持って出てきたら相当に嘘っぽいってことになります。ごく写実的とは言え、何世紀も後の南北朝時代に制作された『後三年合戦絵巻』なんてもんに11世紀頃の装備が正確に描かれているわけはない……っていう、ごく基本的な認識すら、学校の日本史教師には望むべくもなかったりして。

それはいいや。とにかくその平安後期にやっと出回るようなったという湾刀(太刀)なんですが、初めのうちは目釘も目貫も無用の、刀身と柄が一体となったもので、言わば全体が板状の鉄棒。握った手への衝撃を和らげるため、柄には毛抜きの形をした細長い透かし、すなわち「毛抜形(けぬきがた)」が施されております。

国宝・金地螺鈿毛抜形太刀(きんじらでんけぬきがたのたち) 12世紀 春日大社所蔵
柄の様子
 
重文・伝俵藤太佩用毛抜形太刀  10世紀? 伊勢神宮所蔵











 
刀身の反りは控えめ(初期は直刀?)な一方、柄の湾曲は結構顕著で、鍔を境に柄と刀身がかなりの角度を成しておりますが、この基本形は鎌倉初期まで継承されたようです。

それにしても下のほうの写真は、将門を討ち取ったという、「ムカデ退治」で有名な藤原秀郷の佩刀ってのはかなり胡散臭いような。10世紀も前半の人ですから(将門同様、通説の大半はだいぶ後からできた伝説の類いだし)、まだこのような「進んだ」刀は流行っちゃいなかったんじゃないかと。

『岩波古語辞典』によれば、「かたな」の「かた」は「片」、「な」は「刃」の意とのことで、同辞典はまた「たち」の語源を「絶」や「断」と同根と記しておりますが、とにかくその「かたな」、つまり「ナイフ」状の武器は、いわゆる「日本刀」誕生のずっと以前、奈良時代の頃に、「蛮民」たる東北一帯の蝦夷(俺はその裔か?)が古くから用いていた「蕨手刀[わらびでとう(わらびでのかたな)]」を踏襲したもの、との話もあります。たぶんそうなんでしょう。

蕨 手 刀
秋田県仙北郡六郷町六郷東根字上中村出土 古墳時代
 
当然これも刃と柄が一体で、柄の先端(末端?)の形状が山菜のワラビを思わせるところからの命名。もちろん後世の用語です。初めは直刀だったのが、後に反りも加えられるようになり、また柄には紐(蔓とか?)を巻いていたのが、後にはやはり毛抜き形の透かしを施すようになった由。その「毛抜形蕨手刀(けぬきがたわらびでとう)」からさらに「蕨」部分の消失したのが「毛抜形刀(けぬきがたとう)」で、そうした変化が平安の前半と申しますから、日本刀の走りの如き「毛抜形太刀」がそれを踏襲したというのも充分腑に落ちましょう。

さっきの俵藤太の太刀も、ほんとにあの人のものだったとすれば、それはむしろ北関東在住という地理的条件により、蝦夷のオリジナルになる毛抜形刀を中央に先駆けて実用化し得た証左……とか? どうせまたわかんないけど。

                   

ええと、しょっぱなから随分とズレちゃいましたが、ここで漸く話を戻し、目貫のこと。

当初この語が意味していたという「目釘」は竹製が基本なんですが、銅や角などもあったとか。と言うより、短い棒状の竹が利用されるようになったのは後から(中世以降?)のようで、柄巻のない古式の太刀の時代には、装飾が施された大きめの頭部を有する金属製が普通だったのでしょう。

ここが目釘(現代のもの)
竹の目釘(やはり現代のもの)
 
先ほど紹介した「覆った」という言い方は真意がはっきりしませんが、鎌倉頃の例を見ると、多くは釘とその上部が一体であると思われます。「釘」の部分は「根」または「足」と称するのですが、時代や用途、形態の違いを越えてまったくの同義語なのかどうかは判然と致しませず。

古代(から中世前半まで?)の目釘(目貫?)は、頭部が大きな、いわゆる「鋲釘(びょうくぎ)」形状で、その「鋲頭(びょうがしら)」と「座」に装飾を施したものが、やがて目釘の本体(元来の目貫?)とは別物として「目貫」と呼ばれるようになった、とも言うのですが、この表現もまた曖昧で釈然と致しません。「座」というのが鋲頭の基底部のことなのか、座金(ざがね)、すなわちワッシャーという意味なのか……。

時代の違いによるのかも知れませんが、前者の、つまり釘の部分、と言うより先述の「根」または「足」と、その上部の装飾部分とが一体になった目貫もあれば、後者の、すなわち鋲釘状目釘の鋲頭の下に装飾座金を敷いた例もあるようですね。いずれも柄の表裏両面に装着するため、2個(2本)で一組。ただし、より古くは佩表(はきおもて)側に1つだけ用いる方式だったとも申します。

実際は、充分な径の単純な円筒形の竹(その他)を挿し込んでおけばそれで充分に固定できるのですが(くたびれるまでは)、古くは柄の両側から茎の穴に通して留めるべく、釘の部分たる根/足が陰陽(雌雄)の対を成し、佩表(はきおもて)側の表目貫が「陽」たる棒状の、言わばプラグ、佩裏(はきうら)側の裏目貫が「陰」に当る筒状の、つまりはソケットになっていたとも言います。合せて「陰陽根」。前者を後者に挿し込むわけですが、両者の頭部、つまり柄の両側表面に露出する部分が、つまりは「鋲頭」とか「座」とかいうことになるのでしょう。

いずれにしろそれだと金属製でなければ用を成さないんじゃないかって感じですけど、竹を削った消耗品のほうが当面は安定性が高そうではあります。後には(16世紀後半?)ネジ式も採用されたということですが、それ以前は、陽根の先端近くと陰根の根元部分に空けられた横向きの穴に革紐などを通して抜け落ちないようにしていた、とも申します。

さらに古く(平安中期?)は、(陽)根の先にそうした紐通しの穴の付いた目貫(目釘)を、既述の如く1つだけ用いていたとも言い、その穴に通した紐を佩裏側から柄に結び付ける(?)、という留め方も行われていたのだとか。ただ、そうして留めている写真の類いは見ることもなく、やはり判然とはしません。いずれにしても固定度は素朴な竹製に及ばないでしょう。座金式ではない一体型ならば、頭部に装飾を施す以上、到底消耗品の扱いではあり得ず、摩耗なども避け得べからざるところでしょうから、脱落やグラつき防止のためには種々工夫を凝らさねばならかった……とか? やっぱりわかんないけど。

                   

ところで、昔はいくら見たくても無理だった史料類が、ウェブのありがたさ、今どきは自室で容易に閲覧可能となり、数年前に偶然見つけた「国会図書館デジタルコレクション」というサイトには、(失敗した)寛政の改革で高名な18世紀末の筆頭老中、松平定信[ほんとはこのように名乗(なのり)=実名(じつみょう)を氏(うじ)ではなく苗字とくっつけるのは明治以降……なんですが、そんなことはさておき]が(政界引退後に)中心となって編纂したという大部の図録集『集古十種(しゅうこじっしゅ)』が掲げられてまして、その1冊が『刀剣之部 全』という数十ページに及ぶ「刀剣図鑑」。

この『集古十種』の第一弾は寛政12(1800)年、後編の数十冊が1世紀近く後の明治25(1892)年、松平康民によって刊行されたってんですが、こっちの松平さんは、定信さんが若い頃、田沼老中の差金で将軍継嗣争いに負けた相手、とよく言われる十一代家斉の子孫だったりします。国会デジコレ(と勝手に短縮)に掲載されているのは、20世紀初頭の明治後期に出版されたもののようですが。因みに定信は「暴れん坊将軍」八代吉宗の孫、家斉は曾孫という間柄でもあります。

それにしてもこの本、谷文晁(本業は定信の家来)などによる精密なイラストが満載で、眺めてるだけでもつい嬉しくなっちゃう。ウェブ上には刀や拵に関する記述も溢れているとは言え、なかなか不用意には信頼し兼ねるばかりか、そもそも文意曖昧なる例が多く、こういう本物の殿様によって編まれた図解集は本当に重宝。たまたまこれを見つけたおかげで、長年(子供の頃から)よくわからないまま諦めていた事ども(の一部)が漸く腑に落ちたという次第。

尤も、編者も作図者も江戸後期の人たちではあり、古代の様式については、何しろ当時既にオリジナルのまま遺存する例は少なく(どんなに古い刀や付属品も基本は実用品でしたろうし)、拵に関する知見は飽くまで執筆当時のもの、と思ったほうが無難かも知れません。各巻の収録図は、書画類も含め、所在地での実地の図取りもあれば、現物や既存絵画(含写本)を取り寄せての摸写もあるということですが、いずれにしても、今日ネットに溢れる記事のむしろ大半が一知半解の所産に過ぎぬのが明らかなれば、やっぱりこりゃ相当に嬉しいじゃござんせんか。とりあえずその「刀剣編」しか覗いてませんけど。

こんなおもしろいもんを子供の頃から見ることができていれば、この歳になるまであれこれ悩むこともなかったろうに、などと、ちょいと恨み言のひとつも言いたくなったりして。そりゃ勝手過ぎるか。

                   

閑話休題。とにかくまあ、中にはそういう掘り出し物のウェブ情報もあるってことで、件の『集古十種 刀剣之部』の終盤には、鎌倉初期の実物を描いた『鬼丸太刀金具図』というのが載ってまして、これは国綱(くにつな)作の名刀の各部を図示したものなのですが、それには〈目釘竹〉〈目貫金〉との説明句が付されておりました。つまりこれ、太刀の本体はオリジナルでも、刀装は後世に改められたもの、ということなのでしょう。鎌倉初期の作とすれば、当初は目釘と目貫が一体で、竹の目釘に金属の装飾目貫ってことはなかったんじゃないかしらと。

写真がないかと思って探したんですが、明治以降は皇室所属の御物となっていて、直接見ることはおろか、写真もわずかしかないのだそうな。それを、谷文晁か誰かが詳細に写生していたということで、それだけでもこっちにとってはありがたい限り。北条、新田、足利、織田、豊臣、徳川と、中世から近世にかけて各権力者の所有を経た後、『集古十種』制作当時は京都の本阿弥家所蔵だったとのことですが。

いずれにせよ、まだ柄巻が標準的ではなかったと思しき平安末(から鎌倉初期)の太刀には、なるほど目釘の頭が大きく、飾りを付されたものがよく見られます。オリジナルのままではないにしても、それが目釘と目貫の分れる前の様式なのでしょう。画像が充分に鮮明でなければ、鋲釘式+座金なのか、上部と根が一体なのかは判じ難いものの、ワッシャー方式の場合は、確かにその飾り座金の中央に丸い鋲頭が見て取れるようではあります。

国宝・沃懸地杏葉螺鈿太刀(いかけじぎょうようらでんのたち)
 
これは、鶴岡八幡宮所蔵、二口(2本)揃いの通称「衛府太刀(えふのたち)」というやつで、頼朝所用とも言われますが、真偽のほどは相わかりませず。(因みに「衛府」の発音は「えふ」ってより「よう」って感じ?)

……と思ってたら、相当に古い写真のようですが、2本揃ったやつも見つかりました。両方とも佩裏側で、陰陽の目貫(目釘)の根元と先端に施された横向きの穴に短めの紐を通して垂らしているのものと思われますが、紐のない現在の状態はいつからなのでしょう。まあこれで、歴史的遺物の現状が決して古くからの形を伝えるものとは限らない、ってことはわかりますがね。

鎌倉 國幣中社鶴岡八幡宮國寶 金作衛府太刀
 






いずれにしろ、この目貫は恐らく「鋲釘」方式と思われます。件の『集古十種 刀剣之部』の末尾近く、前述の「鬼丸国綱」の『金具図』の後に『相模国鎌倉鶴岡八幡宮蔵杏葉太刀金具図』というのがあり、これの柄を両面から図取りしたものが載ってるんすが(2本のうち、上のカラーの写真と同じほうですかね)、目貫は装着した様子しか描かれておらず、ちょっと残念。ページをめくっても同じ佩表側の図しかないんですけど、上の古い白黒写真にある佩裏側に垂れた短い紐を見るに、いずれにしろ表裏とも同じような目貫が付されているのではないかと。

……と思って、もう一度その『刀剣之部』を最初から覗いてみたら、前のほうに2本を並べた図がありました。一度全ページをじっくり確かめてみたいところです。結局裏側の様子はわからずじまいなんですが、紐は描かれてませんね。すると上の古い写真に示された状態は、またその後に改められたものだったということになりましょうか。どうもこれ、昔の絵葉書らしいのですが、撮影時期その他、詳細は不明。

かと思うと、後のほうには、同じ鶴岡八幡宮の所蔵ながら、別の太刀の図解も載っており、それには柄から外したワッシャー様の目貫が描かれておりました(左側のページ)。表側の分しか示されていないのは、裏には目貫を用いない(より古い?)やつだったのでしょう。鞘の部品はそれぞれ表裏の対が描き込まれてますから。

なお、「衛府太刀」というのは本来、より古い時代、平安中期の形式を指し、既述の「毛抜形太刀」の別称との記述も見ます。上掲の「頼朝のか?」ってやつの「衛府」は、あるいは頼朝の(一時的)名誉称号、「右近衛大将(うこんえのだいしょう)」(=右大将)の建前上の所属機関が「衛府」、すなわち宮廷守備当局(の1つ)だったから、ってことだったりして。知らないけど。

因みに、例の「征夷大将軍」ってのは本来、蝦夷の反乱に際して派遣された緊急鎮圧軍の臨時司令官のことで、常設の地位でもなければ、政治権力とも無縁……だったんですがね。

まあいいか。いずれにしろこの写真のやつは、原議(?)の「衛府太刀」が表す様式よりはよほど「モダン」な作り。「毛抜形」に相当するものは、透かしはおろか、装飾用の目貫もありませんので、これの「衛府」の由来は結局判然とせぬまま。やっぱり頼朝所用だった(らしい)ってところから? まあ、作られたのが鎌倉初期だとして、その後も諸々マイナーチェンジを施されたのがこの状態なのだとは思いますけれど。

……と言うか、そもそもこれの「衛府太刀」っていう通称がいつからのものなのかも知らなかったんだ。件の『集古十種 刀剣之部』では飽くまで「杏葉太刀」ですし。

柄が刀身と分離し、茎を着脱する方式になって後(平安末?)、旧来の透かしに代る飾りの毛抜形、つまり「毛抜形目貫」を施したのが、要するに「毛抜形太刀」であり、同時に、宮廷警護兵の標準仕様たる「衛府太刀」なのである、とする記述も見られるのですが、それは単に、装備の規定のようなものが時代とともに変ったってことでしょう。初めのうちは兵仗(ひょうじょう)、つまり実戦用だったのが、後には儀仗、すなわち装飾的武器に転じた、とも言いますし透かしの毛抜形から装飾用目貫に替ったのは鎌倉初期とのこと。

因みに、「野太刀(のだち)」と言えば、後(室町期?)には軽く背丈を超えるほど長大な「大太刀(おおだち)」と同義となりましたが、その前はこの衛府太刀の別名だったとも申します。透かし式も目貫式もそう呼ばれてたんでしょうかね。野外での使用から、とも言うので、儀仗用となる以前の実用時代のほうが語義にはより合致するような。わかんないけど。

それにしてもその目貫仕様の「毛抜形太刀」、どうも主として江戸以降の復古調、言うなれば「なんちゃって古代風」を指すようで、いずれにしろ毛抜形は雰囲気だけの形骸。ところがそれ、源平ものの時代劇にはよく出てくるんですよね。50年ほど前に作った「源義経所用」を謳った金ピカのプラモデルもそうでした。

毛抜形目貫の例 江戸末期
 
これが近世における「毛抜形」で、飾りの目貫が古代の透かしを模した形になってるってわけです。目釘(本来の目貫)は素っ気ない鋲釘状になってますが、たぶんネジ式でしょう。柄の周囲を金物で締めつけるのも、こうした目貫式の毛抜形太刀では基本のようで。

それより、「毛抜形太刀拵」として刀剣類販売会社のサイトにあったこの写真、間違いなく太刀拵なのに、どうして裏返しの佩裏側を掲げてるんだか。表裏というより上下を取り違えてんでしょうけど、業者なのに太刀と打刀の区別もないってこと? まあ、それで裏側の目釘(目貫)の様子はよくわかるわけですが。

ともあれ、上の例は江戸期の言わば擬古形式。通常は、目釘と一体、あるいはその頭部やそれに付随する部品だったものを、飾りのない(竹などの)目釘の頭を柄の表面に覗かせたまま、それとは離れた位置に飾り物として施すようになったのが、最終的な「目貫」の語義、ということにはなりましょう。

                   

えー、冒頭から逸脱が過ぎたりもして、またぞろ無駄に長くなっておりますれば、とりあえず今回はここまでで一区切りと致し、続きはまた次回ということに。

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