2018年2月5日月曜日

目貫あれこれ(2)

引き続き「目貫」に関するカラ知識を書き散らします。

古代風の、すなわち茎(なかご)と柄とを固定する「目釘」と一体のものは「真目貫(まことめぬき)」、後世の装飾専用のものは「飾目貫(かざりめぬき)」または「空目貫(そらめぬき)」と称する、とのことなんですが、前者は後者の「そら(=虚偽)めぬき」に誘発された誤用の流布したもの、との指摘もあります。「まことめぬき」ではなく「間塞(まふたぎ)目貫」と言うほうが正しいのだとも。わかりませんけど。

                  

ああ、でもこういう「飾(かざり)」だの「間塞(まふさぎ)」だのという言い分けが生じたということは、同じ「目貫」という言葉が2つの異なるものに対して併用された時期があったということでしょうかね。やがて旧来の「間塞」あるいは「真(まこと)」のほうは用途に特化して「目釘」と呼ばれるようになり、単に「目貫」と言えば専ら新参の「飾」のほうを指すに至った……とか?

何やら「ちくわ」と「かまぼこ」の関係が想起されますな。後者のほうがよほど新参者のくせに、遥か古代からあった前者の形状による呼称を奪い取り、あわれ元来の「蒲鉾」は「竹輪」に「格下げ」……みたいな。

いずれにせよ、頭部の装飾の有無はさておき、古来の目貫(つまり後の目釘)と、何ら「目(穴)を貫く」ことのない装飾専門の目貫とが併存した過渡期があったのだとは思われます。それが鎌倉初期の辺り? やっぱりわかんないけど。

                  

ともあれ、その新参者のほう、飾目貫には「釘」に該当する部分がなく、それの形骸化した、径の小さい丸形、あるいは角形の短い棒が裏面に付いていて、それが以後「根」とか「足」と呼ばれるに至った、ということなのでしょう。柄の表面は曲面なので、そこにしっかりと留めるためかとも思われますが、薄い金属の板を表裏から力を加えて細工したのが飾目貫なので、上から強く握っても変形しないための工夫だったかも知れません。

柄巻がなく、上から糸を巻いて固定することのできない柄には、漆と松脂で飾目貫を固定したというんですが、根/足が目貫の底辺より少し長めの突起になっているものもあれば、底からはみ出さないものもあり、用法に明確な違いがあるのか否かは存じません。概して前者のほう、突起状になっているほうが古いようではあり、14世紀、南北朝の時分に使われ出したとも申します。初めから根/足のないものもあるんですが、それは時代が下ってからに限られるのか、中世から存在したのかがまたはっきりしなくて。

多少とも柄に食い込ませて固定を助けるための突起だとすれば、丸形より角形のほうが効果的ではありそうですね。プラグもソケットも丸ではグルグル回っちゃいそうで。もとよりそれほどの長さ、深さでもないでしょうけれど。角形のほうが時代は下る、との記述も散見されるとは言え、いずれにしろ先が底辺より出ていなければ、何ら実用に資することもなかろう、とは思われます。やっぱりわかんないけど。

陰陽根の付いた一対の飾目貫
長めで角形の根を有する例
根のない(または取り去った?)例
 
さて、遺存する各時代の実物も少なくはないものの、かつてはどれほど古くとも骨董扱いとは限らず、時代を越えて実用され続けた個体も多いようで、近世の使用者が底部をヤスリで削るなど、中世の製品に手が加えられた例も珍しくはないとか。近世には厚めの素材が多用されるようになったと申しますから、それで圧迫による変形の気遣いがなくなったのだとすれば、やはり後のものほど初めから根/足が施されていない、ということにもなりましょうか。

いずれにせよ、飾目貫はもはや目釘の役割とは無縁であり、どのみち茎を貫いて柄の反対側に達するなどということもなければ、表目貫と裏目貫の根/足を噛み合わせる必要などなかった筈なんですが、依然「陰陽」の組合せという形式は温存され、一方が棒、他方が筒のようになっていたのは、ことによると表用と裏用との区別のためだったのかも知れません。わかんないけど。まあ、意匠の主題に応じて、上下のみならず左右の向きにも決りがあったから、製作者はもちろん、使用者もあまりまごつくことはなかったとは思います。表目貫に陰根、裏目貫に陽根を付した例も現存するそうで、まあ、何にでも例外はあるってところでしょうか。

因みに、少なくとも打刀拵(うちがたなごしらえ)の様式が確立して後は、表目貫と裏目貫は装着される柄の位置が必ず離れておりますので、やはり根/足がプラグやソケットの役を担うことはあり得ず、陰陽、雌雄の別が習慣的な形骸に過ぎなかったのは確実でしょう。表裏を取り違えて装着したものは「逃目貫(にげめぬき)」と言うそうですが、すると昔から間違える人はいたってことでしょうか。そうなると、表裏峻別の便、というのも結局は意味を成さないようではありますが、そもそもこの逃目貫という言葉自体、いつ頃から用いられていたものやら、っていう疑念も生じて参りました。図書館行って、全5巻っていう『角川古語大辞典』ででも初出を確かめりゃいいんでしょうけど、今寒くて。

私見ではありますが、「逃げ」ってのは、絵柄の左右が逆向きになり、本来は鍔の側が前になっていなければならないものが、表裏を間違えると宛も正面に背を向けるかのように、つまりは「逃げて」いるように見えるから、ってことじゃないかと。……などと申したところで、結局はわかんないままなんでした。またも無用の言辞を連ねてしまい、あいすみません。

あ、上下を誤ったものは「逆さ目貫」と称する、とも言うのですが、表裏と上下の両方を間違えると、結果的には「逃げ」は回避し得るということになりますね。いずれ見る人が見れば笑止の沙汰ってやつなんでしょうけど。

【追記】その後近所の図書館に確かめに行ってみたんですが、その大部の古語辞典にも、小学館の『日本国語大辞典』全14巻ってやつにも、結局その記載はございませず。

                 

ときに、糸巻は施さずに、かぶせた(着せた)「鮫」(鮫皮、ただし実際はエイの皮)を露出させた柄の様式は「出鮫(だしざめ)」と呼ぶそうなんですが、近世以降の脇差類に多いと申します。いつごろからの言い方で、いつごろから普及したものかはやはり未確認。鮫皮の利用自体が近世以降に広まったともいうんですが、中世末の「天正拵(てんしょうごしらえ)」などは、黒漆で着色した鮫の上から、主に革紐を巻いた柄が基本仕様とされていたりもするんですよね。いずれにしても、まだまだ知らないことのほうが多いのは、いなかる事物、領域においても同様。こうしてダラダラ書いていて初めていろいろ気づいたりして。

ともあれ、例の写真集『よみがえる幕末・明治』を始め、幕末期の写真で見かける何も巻いていない脇差には、目釘とは別に飾りの目貫が付いてます。

出鮫柄(だしざめづか)
16世紀の実物とのこと。ただし部品は交換してあるかも。目釘は角製?
こちらは18世紀の由。目釘は鉄?
 
一方、先日の投稿で写真を呈示した野沢氏のいわゆる半太刀拵(はんだちごしらえ)では、目貫が目立つよう、両端の2箇所だけが柄糸の下になるよう巻いてます。柄巻固定方式だと、折角の目貫が一部隠れてしまうための苦肉の策? 無骨なのかと思ったら、実はおかなり洒落だったりして。顎に梅干しができてましたけど。それは関係ないか。


この(飾)目貫の位置ですが、既述の如く差表(さしおもて)の側と裏側、すなわち表目貫と裏目貫とで位置を違えるのが基本。意匠に応じた上下左右の決りがあったことは申しましたが、基本的には装飾品とは申せ、建前は武器である刀の付属品であれば、抜いて構えたときの握り具合、手溜りの便から、差表側は右手の薬指・小指が当る、鍔や目釘寄りの位置に、差裏側は左手の同じ部位が当る柄頭寄りの位置に配置されるのが「順目貫(じゅんめぬき)」、それとは反対に、左右それぞれの手のひらに当るように按排されたのが「逆目貫(ぎゃくめぬき)」だそうで。

後者はもともと、実戦第一(?)の柳生流、正しくは新陰流だそうですが、それ(の一派)がオリジナルとのことで、江戸前期、尾張家中の剣術指南だった柳生連也斎厳包(としかね)の考案によるとのこと。それで、この逆目貫を用いた様式を「柳生拵とも「尾張拵」とも称する、との記述も散見されるのですが、正確には両者は同義ではなく、逆目貫を特徴とするのは前者だけだとも言いますね。たぶんそうなんでしょう。

どのみち拵の名称は剣術の流儀とは別概念で、もちろん(柳生)新陰流門下だけが柳生拵を用いたわけもなく、順目貫か逆目貫かは所有者のお好み次第(あるいは帰属先の規定に準拠?)、というのが実情であった模様。「順」と「逆」の他にも、柄の中ほどに目貫を置いた例だって珍しくはないし。

ただしこれは「大」のほうの話で、柄の短い脇差類の場合は、当然片手で持つのが前提ということでしょうか、目貫の位置も自ずと表裏ともに中央辺りになるようではあります。

なお、剣術には疎いまま甚だ恐縮とは存じつつも、初代の但馬守宗矩(むねのり)が家康の剣術指南を発端に配下として台頭し、旗本から大名へと躍進、政治家としての手腕も見せ、以後は代々将軍の兵法師範を勤めるに至ったという江戸柳生流(この「流」は剣術の流儀ではなく家系のことではないかと)よりも、こちらの尾張柳生流のほうが、新陰流においては正統……って話は聞きますね。いずれにしろ、今日剣術の流派として残っているのは尾張の系統だけだってこってす。やっぱりよくは知りませんが。

順 目 貫
江戸時代(時期は不明)のものに柄糸を巻き直したとのことです。
逆 目 貫
これは現代の製品

飾目貫は近世以降、と説いた記述が多いものの、既述のとおり、中世前半の南北朝の頃(14世紀)には存在したようで、中世末(16世紀後半)には、柄巻で留めるのもとっくに普通だったのは確実でしょう。

先般触れた小学生時代のプラモデルで、秀吉所用の大小というやつも作ったんですが、緑と赤と金という、秀吉ならではの派手な色彩がちょっとうるさいほど。で、少し後に連れてって貰った上野の国立博物館で思いがけずその実物に出くわしたところ、色こそ褪せてはいたものの、デザインはそのままだったのに驚喜したのでした。ただしプラモのほうは、誰の差料、それどころか太刀にも同じ型を使っているのがバレバレで、太さや反りなど、全体の形が随分いいかげんだったのは痛感しましたけどね。


重文・金蛭巻朱漆大小拵(きんひるまきしゅうるしのだいしょうごしらえ) 豊臣秀吉所用

偉くなってからの秀吉ってんだから、安土桃山=織豊の後半、桃山=豊たるは言を俟たず、ってつもりで、特に時代は表示しませんでしたけど、当然16世紀末ってことでひとつ。これ、笄や小柄はないものの、飾目貫はしっかり顕在。位置はほぼ中央ですね。返角(かえりづの)はだいぶ栗形(くりかた)に寄ってますが、これがこの時期の標準的な位置だったのでしょうか。江戸後期にはずっと後方に移動するようですが。

そう言えば、差表側の目貫はこのとおり多少柄頭寄りではありますけれど、これを柳生拵の特徴たる逆目貫であるとする記述はやはり誤りではなかろうかと。例の連也斎が生れるのは秀吉の死没から30年も後ですぜ(中山安兵衛・決闘高田馬場の年に死去)。秀吉は剣術なんかからっきしだったろうし(偏見?)。まあ、時代を遡っても、このような配置のものはひとしなみに逆目貫と称する、ってことなのかも知れませんけど。てえか、どのみち知らないけど。

                  

さて、時代劇に出てくる刀についてはまだ気に食わないところがございまして、それについてもまたひとくさり。

打刀拵の鞘にはほぼ例外なく、たびたび言及しております「返角(かえりづの)」というものが付いておりまして、これは抜刀に際して鞘ごと抜けないようにするため、帯に引っかかるように設けられたとされる突起物なんですが、材料は主に水牛の角だと言い、「逆角(さかづの)」とも呼ばれ、金属製のものは「折金(おりがね)」、総じて「帯留(おびどめ)」とも称するとのこと。帯に巻きつける「下緒(さげお)」を通す栗形とともに、古くから帯に差す短刀である「腰刀(こしがたな)」の鞘には付き物で、笄や小柄同様、室町末期以降の打刀にも踏襲されたという次第かと。

ほんとはこれ、差したときにグラつかないようにするためなんじゃないか、って気もするんですが、刀を抜くことがまれになって久しいからか、江戸後期には初めから付いてない鞘もありますね。いずれにしろ付いてたら帯は傷み易い。帯の形状の変遷にもよるのでしょうか、位置や角度は個体ごとに異なりますが、時代が下るほど後ろ寄りに取り付けられているようではあります。

返 角
 
これが時代劇ではまったく出てこないんですね。刀を腰から外すときに、ほとんど右手だけで簡単に帯から引き抜くなどは序の口で、大小を両手で同時に外したりする場面も結構出てきます。返角があったら絶対にできませんし、大小揃いの拵なら付いていないほうがよほどおかしいということになります。

時代劇の侍が差しているのは、平常はむしろ例外的だった大小お揃いのデザインばかりなのに、それで返角が全然ないってのは、柄糸がみんな黒で諸捻巻になっているのと同様、著しく現実味を欠く演出と言わざるを得ません。時代劇の小道具だけでなく、居合刀でもモデル刀でも、こんなのがくっついた鞘は見たことありませんね。

                  

ところで、正式の場では大小ともまったく同じ拵を用いることになっておりまして、それぞれ長さまで細かく規定されていたのですが、殆どの侍は普段そんな気取ったもんを差して歩いてたわけじゃありません。随分と高価だったろうし。規定はいろいろあった筈ですが、江戸後期の絵画や幕末の写真などを見ても、大のほうは立派でも小はとにかく差してさえいれば体裁が取り繕えるって感じで、柄巻や鍔のない申しわけ程度の短刀ってのが普通です。

件の『よみがえる幕末・明治』にもそういう例は散見され、若き日の一万円札・福沢諭吉の脇差も、特に短くはないけど鍔も柄巻もありません。先述の腰刀というのに該当する形態。笄は付いていませんが。

 
 
いわゆる出鮫(だしざめ)ではなく、柄に巻いているのは銅?
 
……という次第にて、太刀と打刀(の大小)という、言わば対極を成すが如き刀装の違いなど寸毫も解さざる者による、幕末の演出写真に対する見当外れの「解説」を揶揄するのが、ここ暫く耽っております投稿の主旨ではあったのですが、ついまた無益極まる余談に溺れてしまい(どのみち初めから全部が無益な与太話たるは承知)、かかる仕儀とは成り果てております次第。ここでまた今回の無駄話も終えることに致しますが、まだいくぶん申し述べたきこともございますれば、次回も同工の長駄文を晒す所存。そりゃもうしかたがありません。

                  

いずれにしろ件の烏帽子三人男の姿は、どう足掻いたって幕末の武士の平装とはまったく無縁……てなことは、敢えて言うまでもないわかり切ったことではないかしらと。

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