もともとは、そのまた1年あまり前の2016年秋から書き始めるも、趣旨の逸脱から回帰できぬまま、昨2107年春、つまり今から約1年前に一旦放棄し、漸く同年の終盤に至って投稿を再開した、東京語の発音やアクセントについてのとんでもない駄長文が発端。その主旨とも言える「歌メロと歌詞の高低アクセント問題」から派生的に思いついた事柄を、後から一応まとめてみた、といったところです。
歌メロとアクセントの関係という話の流れから何となく言及した、「エイトビート」という和製語の「いかがわしさ」がきっかけだったと思うんですが、まずはその愚長文の当該部分から示しとこうと思います。
ああ、でもそのとんでもなく長大な「本文」、およびさらに長い(のではないかと思われる)複数の逸脱ネタも、いずれ何とか整理してここに晒したいものとは思っとります。いずれったって、いつになるかわかりませんけど。
ともあれ、まずは今回の本旨たる「ロック論」(一部また「英語論」その他になっちゃってますけど)にとってのマクラ、とでも申しましょうか、上述した先行長文の一部を呈示。本来は繋がった話の一部をぞんざいに切り取ってますんで、冒頭から随分唐突な感じになってますが、そこはどうかご容赦くだされたく……。
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……と言いながら、どうもそれ、この駄文の趣旨にもまったく無縁とは思われず(わかんないけど)、最小限の能書きだけは垂れときたくなっちゃいましたので、以下にそれを。
とりえあえず「ビート」というカタカナ言葉の元ネタたる ‘beat’ ですが、「拍」という訳語ならまだ「ビート」よりはよほどマシかって感じでして、これ、音楽に限らず、詩文の韻律その他の言語的事象を含み(ってよりそっちが先?)、要するに時間の経過を成立条件とする現象や人為における、その時間の規則的、均等な区分の最小単位……って、今思いつきで書いてるんで、精確さの欠片もございませんが、まあとにかく「ビート」= ‘beat’ とは行かないって認識は肝要、ってことでどうか。
音楽でも基本的にはやはり「拍」に相当するのが個々の ‘beat’ で、「エイトビート」の「エイト」に対応する英語は ‘eighth’、すなわち「8分の1」であって「8つ」じゃないんですよね。数字は「ビート(=拍)の数」ではなく、音(符)の長さなんです。 ‘eight beats’ じゃあ文字どおり「8回叩くこと」にしかならないし、 ‘eight-beat’ という形容詞があったとしても(いくらでもあり得ますが)、音楽用語としては意味をなさんでしょう。
「エイトビート」に相当するのは ‘eighth-note groove’ とか ‘eighth-note feel’、 あるいは ‘eighth-note pattern’ ってな言い方で、いずれにしろ「拍」ではなく「ノリ」って感じですね。 ‘eighth-note drum beat’ とも言ったりするけれど、その場合は ‘drum’ がないと、やっぱりどうも個々の「拍」の意味にしかならないようですぜ。
さらに、その ‘drum’ という語(形容詞用法)も、リズムまたは拍の明示を最大の特徴とする現代の大衆音楽(古典的管弦楽だのがエラいのは、そういう刻みを鳴らさないから? ふ、しゃらくせえ)、要するにジャズだのポピュラーだの、もちろん我らがロックだのにおける基幹装置(?)たる ‘kit drums’ の演奏法、編曲上の使用法を意味するものであって、一般義としての ‘drum beat’ は ‘drum stroke’ と同義、つまり太鼓の「一打ち」って意味でしかありません。「ノリ」のつもりなら、 ‘beat’ ではなく ‘groove’ その他のほうが穏当であるは確実でしょう。 ‘groove’ だの ‘feel’ だのにも ‘drum’ という語を冠することはあるようだし、 ‘pattern’ などはそのドラムの演奏様式自体を指すものとは言え、いずれも単に ‘beat’ と言うのとは異なり、初めから複数の拍の連なりを前提とした観念、表現なので、特に ‘drum’ と断らなくても語義に混乱は来さず、ってところではないかと。
しかも、この ‘eighth’ っていう序数(実は分数)を用いた言い方は米語(北米、すなわち合衆国+カナダの言い方)に限るもので、英国式(オーストラリアやニュージーランド、アイルランドも一緒)だと、普通は ‘quaver groove’ ってことになるんですよね。もともとジャズだのブルースだのロックだのという、それこそ ‘beat’、つまりはリズムあるいは韻律を明確(ときに強烈)に可聴化した大衆音楽は悉くアメリカが卸元なので、イギリスでもそういう「軽」音楽の業界では米式の言い方もありなのかも知れませんが。……知らないけど。
ともあれ、これが「フォービート」なら米が ‘quarter-note groove’、 英が ’crotchet groove‘、「ツービート」だとそれぞれ ’half-note groove‘、 ’minim groove‘ ってな塩梅。「エイト」だの「フォー」だのに該当する音符の名前が、同じ英語とは言え、イギリス流の一党ではヨーロッパ古典音楽の親玉たるイタリアと同様、ラテン語風の言い方になってるってこってす。
ついでに申し添えときますと、音符とは無関係の、つまり一般義としての「2分の1」は ‘a half’、「3分の2」なら ‘two thirds’、「4分の3」なら ‘three quarters’……てな具合なんですけど、アメリカじゃあ(カナダでも?)‘quarter’ の代りに ‘fourth’ も用いられ、1/4なら ‘a/one fourth’、3/4なら ‘three fourths’ とも言うそうな。でもそれ、どうやら数学とかでしか使わないって人が多いようですねえ。その北米でだって、4分音符(♩)のことは ‘quarer note’ としか言わねえんじゃねえでしょうか。同様に4分休符なら ‘quarter rest’ となるんですが、それも英国流だとそれぞれ ‘crotchet’、 ‘crotchet rest’ という具合。日本の「~分音符」って言い方はアメリカ式に倣ったものなんでしょうかしらね。やっぱり知らないけど。
蛇足ここまで。〔後略〕
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……というのをとりあえずの前置きにしとこうという次第。で、この「蛇足」(全部そうじゃん)を挟んだ後も本論(?)を書き続け、何とかその長大を極めた愚文にもケリをつけたってわけですが、〈いずれまた所思を述べることも……〉などと言っていたことは忘れず、結構すぐにその「所思」てえものの投稿も始めたのではありました。それを今後数回(もっとかな)にわたってここに再録して参ろうとの了見。音楽ネタなれば、やはり音もあったほうがよかろうかと、YouTubeで見つけたリンク先も随時貼り付けてこうと目論んでんですが、そりゃさっきも言ったか。
では……。
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先頃晒した無声母音云々の駄文中に、〈いずれまた所思を述べることもありましょうや〉などと記しておりました、「エイトビートたあ笑わせる」(とまでは言ってなかったか)てな話について、またぞろあらずもがなの能書きを試みようかと。
普段から楽譜だの音符だのが身近な一部の人には笑止の沙汰でしょうし、そうではない(堅気の?)人たちには結局何だかわからない話になろうとは承知の上。斯く申すそれがしとて、学校の音楽の教科書に書いてあった程度の知識しかなく、しかもそれ、算数や国語同様、授業なんて何も聞いてなかったから、結局だいぶ後になってから必要なところだけ拾い読みってのが実情。てえか、楽譜の読み書きなんか無縁の生活なんだった。
それでも、音符を見なきゃ何も弾けない、っていう厄介なベース担当者なんかがときたまいて(それでロックバンドなんかやるかな)、そいつのためによんどころなくメロディー譜ぐらい書くことはあっても、書いた自分がそれ見てスラスラ弾くなんてこたできねえんです。ロックだのポップだのという音楽の性質上、音符に書き表せるほどのものは聴きゃあわかるし、逆に音符にはできないような部分こそが眼目なので(そりゃクラシックだって同じか)、結局は自分の耳だけが頼り、って感じ。音符を1つずつたどってゆっくり弾くなら、ヘタクソな鍵盤のほうが、本領たるギターよりまだ何とかなるってくらいのもんで。
さて、今般の趣旨、ってほどのもんでもねえけど、これ、別に「エイトビート」その他に対してのみ恨みがあってのことではなく、何と申しましょうか、ジャズだのポピュラーだのロックだのに関する外来語、と言うより和製語、と言うかカタカナ語、ついでにその訳語(なのか?)の多くにおける、元の英語とのズレっぷりが腹に据えかねる……こともあるか、って(だけの)ことなんです。そんなこと言ったら、「ジャズ」だって、かつては大衆向けの洋楽(およびその模倣)全般に対する総称だった、ってのも夙に知られるところではありますし。
とにかく、何だか妙なことになっちゃってるポピュラー音楽(という言い方自体が既にテキトー)におけるリズム関連の用語について、自分自身のために再定義の如きものを施してみようか、ってのがつまりは今回の趣き。「エイトビート」その他がまったくの和製語であり、たとえ ‘eight beats’ だの ‘eight-beat’ だのと書いたところで、英語としては何ら音楽的な用語にはなり得ず、ってことも既に先般申し上げたとおりではございますが、その辺のズレっぷりについて、無益にもちょいと掘り下げてやろうという、まったくもって要らざる試み。毎度のことです。
これまでは各用語の定義など特に考えたこともなく、「ビート」あるいは「拍」などという言葉についても、いかに体系的な理解、認識とは無縁のまま感覚的に把握していただけだったかということを、こうして文章による描写なんぞを試みることにより、改めて思い知らされるが如き心地。日常、音楽的な事象は、言わばそれ自体として認識し、自分自身にとってはそれで完結しちゃってるため、敢えて言語化する必要なんかなかった、ってところです。
先日言及したときは〔←前述の長大な「本文」中でのことです〕、飽くまで無声母音問題が主旨ではありましたので、あまり深入りする前にテキトーなところで切り上げたんですが、なんかずっと半端な気はしてたんです。それで、またぞろ懲りもせず再説などやってみようかなどとと思い立ちたる次第。もちろん余計なお世話とは百も承知。
えー、まずは、ほんとに今さらなんですが、前提のようなものを確認しとこうかしらと。
音楽の主役ってえと、例の三役、すなわち「旋律」「和声」「律動」のうち、恐らくは誰もが旋律、メロディーだと思いますよね(……たぶん?)。と言いながら、自分自身は結構幼い頃から一貫してメロディーと和声が不可分っていう野郎で、それが実は例外的だってのに気づいたのはかなり後からなのでした。ともあれ、この3つの区分、改めて考えてみるに、いささか公正を失するところがあるのではないか、って気も致しまして。少なくとも三者均等とは断じ難いのではないかと。
もともと影も形もない「音」というもの(臭いでもありゃあ屁ぐらいには対抗し得ようが)を組み合せてできる「音楽」てえやつは、徹頭徹尾「時間の経過」をこそ成立の条件とするものにて、って言うと大仰だけど、どんな短い音だって「瞬間」ぐらいはなくちゃ鳴りようもねえでしょう。で、そういう、時間を不可欠とする代物を按排した音楽ってものにとっては、その音ってもんさえありゃ何でもいいわけじゃなく(それなら人為によらずともこの世には溢れ返ってます)、最低でも高さと長さが、これまた最低でもある程度は整然と配置されてなくちゃ(ついでに強さ、音色なんかも揃ってりゃなお結構)、とても音楽でございたあ名乗れめえ、などと思量致します次第。
「旋律」ってのが、その音てえやつを長短、高低取り交ぜて1つずつ並べたもんだと致しますと、「和声」、ってよりまず「和音」ってのは、単純に高さの違う複数の音を同時に鳴らしたやつ、ってことになるのではないかと。ピンの主役(の芝居)がメロディーで、大概はその引立て役たる脇役陣が和音(コード)、その脇役の息の合った台詞回し、つまり高さの異なる複数の音の重なり具合が和声(ハーモニー)……とはまた、比喩にしたって随分と迂遠たるは承知の上ですが、まあそんなところではないかしらと。旋律が、多くは高さと長さの違う個々の音を、言うなれば横に並べたものだとするなら、長さが同じで高さの違う複数の音を縦に揃えたのが和音で、その縦の揃いぶりが和声……とはまた、ヘタな比喩ばかりで恐縮しきりではありますれど、まあ、だいたいはそんな感じではございましょう。
しかし残る「律動」、リズムってやつには出る幕がねえのか、ってえと、とんでものうございまして、こやつこそは、旋律や和声などという表向きの主要キャストにとってこそ、まさに根柢、土台を成すが如き存在。いちいち言うことが大袈裟であいすみませぬが、土台ってのは、何しろ一番下に控える基盤そのものですので、ちょっと見は地味で目立たないかも知れないけれど、柱も壁も屋根も、基礎がなくちゃ築くこたできません。でもその基礎たる土台自身は、上物があろうとなかろうと己ひとりで存在可能……って、しまった、こんだ芝居じゃなくて建物を例えにしちゃったい。ますます何だかわからねえじゃねえか。俺も大概テキトーだよな。
ともかく、メロディーもハーモニーも、材料たる音に「高さ」という要素がなければ成り立たず、その高さ自体が振動の周期、すなわち時間の経過を必須とする現象であるとともに、その高さに規則的な長さの区切りが伴わなければ、旋律も和声もあったもんじゃないのは理の当然……であろうと思惟致すものにて。さらに、整然たる高さを伴わずとも、とりあえず何らかの規則性をもって音……じゃなくて時間の長さを按排して得られる「律動」てえやつこそ、真の主役(黒幕?)ってことんなるんじゃないかしらと。
ああ、でもこの律動、リズムってのは、音として鳴らされ、かつその鳴り方が充分に規則的で、つまり聴く側が容易に了解し得るものでないと、なかなか把握は困難だったりもしますねえ。実際には音なんか鳴ってなくても、単に時間を一定の間隔に分割して規則的に並べ、かつ強弱の感覚または観念(詩文の韻律が本家?)によりかかって規則的に区切りをつけりゃ、それでもう立派なリズム、ってことにはなりましょうか。少なくともあたし自身にとってはそんな感じです。
英語では詩の韻律を ‘metre’、音楽における律動を ‘rhythm’ と呼び習わしておりますが、後者が比喩として多用されるのは国語の「リズム」と同工。おっと、音楽では拍子のことも ‘metre’ って言うんでした。 ‘time’ とも言いますけれど。因みに、 ‘metre’ は「メートル」と同じく、合衆国では計量器の「メーター」と一緒くたに ‘meter’ って書くんですが、北米でもカナダの綴りは英国その他と一緒だったりします。
まあいずれにせよ、音として鳴らしゃしなくたって、つまり耳に聴こえちゃいなくたって、概念、と言うか観念、と言うか感覚としてそういう規則的時間の区切りがあればこそ、高さとともに相対的な音の長さの配分によって成り立つ旋律てえもんにも何とか立つ瀬があろうてえもんじゃねえかい、とは思ってんです。基準となるリズム(の感覚)がなくちゃあ、メロディーをメロディーたらしめる個々の音の長さの対比なんざ認識し得ず、結局のところ、旋律を成立させるのも、また和声を実用に供する、すなわち音楽の実践において有効たらしめるのも、時間的な規則性から成る律動ってやつの働きではござんしょう?
だいぶ無理のある言い方ばかりとは承知致しておりますが、ざっとまとめれば、リズムという観念あるいは現象と無縁のメロディーだのハーモニーだのはあり得ぬ一方、リズム自体は、高さについてはとりあえず不規則、恣意的であっても、一定の長さ(時間区分)の規則的配列で成り立つものにて、メロやハモがいなくたっていくらでもピンが張れる、てえか聴いてるこっちが音楽としてちゃんと感知し得る、ってことになろうかと。やっぱり言い方に随分と難があるか……。そりゃもうしょうがねえ。毎度すみません。
今回はここで一区切り。次回に続きます。
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……てことで、以後はもとの記事を挨拶もなく再録して行こうかと。予告したYouTubeへのリンクは当分出てきませんね。それより、バックビートだのロックだのって話にも当面は行き着かず、またも看板に偽りありってことに。なんせ話が長いもんで。どうもすみません。
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