「ロックでは(いや、ポップ全般がそうだろう、っていちいち言うのもダルい)2拍目、4拍目に手拍子を打つもんだ」ったって、そりゃ別に拍子のありようがひっくり返ってるわけじゃなくて、強勢が弱拍に置かれる、ってだけの話。……ったって、これじゃ何度言ってもよくわかりませんけど、単純に、その曲を聴いたとき、自分がどういうふうに「ノッてる」かってのをちったあ考えてみりゃよかろうに、って感じ……ったって、依然わけわかんねえか。すみません。
「ノリ」ってのを、ひとまずは、当該の曲に合せて(無意識に)頭や足先を上下させたり上体を揺らしたりする場合に、拍子のどこで、ってより小節内のどの拍で上げたり下げたり揺らしたりするか、ってところに表れる感覚、とでもしときましょうかね。で、「通」どもがエッラそうに言ってんのが、1拍と3拍で手拍子打つのは「日本人特有の」大間抜けで、それらの「裏」に当る2拍4拍(これをぞんざいに「裏」って言ってんのもヤだし)でノれなきゃダサ過ぎる、てな文句。そう言ってるてめらこそ間抜け過ぎようぜ、ってのがあたしの了見……てことも既に申し述べてはおりますが、ほんとにそう思うんだからしょうがない。
とりあえず、強拍(奇数拍)で手拍子打つのは、ヨーロッパ系アメリカ人にも(未だに!)よくいるそうで、「日本人特有」なんかじゃないのはとっくにバレてます。でもそれ、アフリカ系のリズム感覚に基づく(ということになっている)ロックだの何だの、もちろんジャズだのブルースだのソウルだのに限ったものではなく、きゃつら(おっと)にとってはよほど肝心であろうカントリー音楽だって、やっぱり手拍子入れるなら弱拍(偶数拍)が当然……かと思ってたんだけど、結局わかんない人は世界中どこにでもいるってことで。
どっちかてえと、今の時代は(数十年前から?)、合衆国生れの一部の「白人」より、イギリスを始め、概してヨーロッパ人のほうが、素人でもよほどそのバックビート感が確かなんじゃないか、って気はします。アメリカの田舎じゃあ、何かと19世紀で止っちゃってるような人たちが結構その辺にまだまだいる、ってな話も聞きますしね(アメリカ行ったこともねえし、こいつぁただの偏見。でも平気で短筒持ち歩くなんざ、腰に刀差してるようなもんじゃねえか、って気はします)。それに比べれば、平均的現代日本人の(音楽的)感覚なんか、充分ヨーロッパ人のそれに近いのではないかしらねえ。わかんないけど。
おっと、そんなことより、いったいこいつら「ロック通」の那辺を指してあたしがダサいと思ってんのかって話。まあ根本的に「拍」と「勢」の見分けならぬ聴き分けができてねえ、ってより、そもそも自らは何も聴き分けてなんかいなくて、何となく習得(拾得?)しただけの極めて皮相的なカラ知識だけでエラそうなこと言ってんのがあまりにも明らな……って、俺こそ相変らずエラそうではあるけれど、少なくともこっちゃあ自分の脳味噌で考えたこと言ってんだから、やっぱりカラ知識受売り専門の自称「通」どもとは一緒にしてくれるな、とは本気で思ってはおります次第。
さて、ではそいつら「通」を気取る連中について、いったいどこがどうわかってねえのか、ってことを述べようとしても、う~ん、こいつぁあ結構厄介かも知れねえな、って今さらのように思ってるのが実情。とりあえず思いついた御託を並べてくことにしましょうかね。それしか手はなさそうだし。
その「ロックとは……」っていちいち言いたがる連中(そんなのいたっけか?)が、宛もロック音楽の要件であるかのように主張する、「偶数拍 ≒ 弱拍(offbeat)に強勢(accent)が置かれたリズムあるいはノリ」ってのが、そもそもほんとにロックなのか?……ってこれ、あたしゃ中学高校の頃から疑問に思ってたことなんですよね。
そういう「『強』勢」を付された「『弱』拍」(ご丁寧にそれ自体を間違えて「強拍」って言ってたりするもんだからもう……)を指す(筈の)‘backbeat’ もそうだけど、そのちょっと前に使われ出したとされる、それこそ偶数拍、弱拍を指す ‘offbeat’ もまた、初出は1920年代後半、ってことは前回申し上げました。言うまでもなく未だロックもロールも影形すら存在しない時分のことで、当時流行り出したスウィングジャズ、あるいはそれ以前に流行したラグタイムの「ノリ」を指したもんだったのかも?ってことも既述のとおり。
それだけでも、これを「ロックの条件だ」ってのがハナからズレてるのは歴然ではないかしらと。いや、語源論なんかより、その「ノリ」の正体こそがそもそもの問題なんですよね。あたしが疑問に思ったってのは、これも既述のとおり、音楽の授業で聴かされた名曲のレコードのどれ1つとして、「強・弱・やや強・弱」てな「正しい」拍子の型なんざまったく「聴こえない」ってのと同様、とりあえあずロックとかポップとかのメロディーを聴く限り(歌モノならそれこそが主役じゃん)、2拍4拍が1拍3拍より「強い」なんてこたあなく(拍を跨いだシンコペーションだらけだし)、単純にそれ、バッキングでスネア鳴ってんのが偶数拍ってだけの話じゃねえか、ってことなんです。
キック、つまりバスドラ(ベースドラムてえならまだしもベードラってのはなんか嫌で。単なるわがままですが)よりスネアのほうが絶対的に「強い」なんて、いったい誰が決めたんだよ。音の強さってのを理論どおり(?)振幅のことだとすれば、少なくとも聴覚上同じ程度に感じられる限り、つまり同じ「大きさ」に聴こえてんなら、そりゃ間違いなく低い音のほうが強いに決ってます。ライブで見物してりゃわかるけど、バスドラのヘッドが容赦なく震えてるのに対し、スネアの表面の揺れなんざ見えませんぜ(振幅が小さいだけじゃなく、何せ揺れが速いから当然とも言えますが)。でも高い音のほうがはっきり聴こえるのも自然の摂理ってやつで、音の大きさは強さと高さの兼合いで決るってのはそれでしょうよ。
各管弦楽団の基準ピッチがどんどん引き上げられてきたのも、聴衆の増加につれて演奏会場が広くなったからだてえじゃござんせんか。つまり、人工的、機械的な増幅装置とは無縁の業界なれば、強さには自ずと限りがあり、広い場所でもよく聴こえるようにするには高さを上げるしかなかった、ってことで。電気的増幅機器を前提とし、強さが自由自在(しばしば過剰)であるロック業界、分けてもヘビメタ界隈なんかじゃあ、逆に体感的な迫力を誇示せんがため(?)、しばしば半音下げチューニングが(ときに意味もなく)多用されるのとはまさに対極。
ジミヘンもサバスもAC/DCもハナはフツーのピッチだったけど、ヴァン・ヘイレンは初めから半音下げでしたっけね。時代の違いか。リフを耳コピするときにめんどくせえから、おりゃ嫌いなんだけどね、そういうあざとい調律。そりゃ俺の身勝手、ってより関係ありませんでした。すみません。
ええと、いったいどういう話だったかってえと、「強弱」ってのは基本的に単なる観念、あるいは各人の勝手な感覚に過ぎねえってことなのでした(たぶん)。だからこそ、聴く者の感性、というより習癖とでも呼ぶべきものによって、同じ音楽がいくらでも異なったノリで感受され得るわけでしょうよ。誰にとっても自明であれば、「弱拍が強い」という撞着表現(和訳ならでは)の示す音楽的状況が、人それぞれ別々に認識される余地などあり得ぬが道理。偶数拍で手を叩くべきを奇数拍でやっちゃう間抜けさを論うやつらこそ、そりゃ単なるカラ知識に引きずられた思い込みにとらわれているに過ぎまいて、ってことなんですよ。やっぱりよくわからねえ繰言にしかなってないけど。
メロディー中の強弱なんざとりあえず関係ねえ、ってのは既述のとおりとして、じゃあロックってのは、それぞれの曲の全体的なノリが、広義の「後ノリ」(とりあえずタメだの何だのっていう細かい話じゃなくて)、すなわち、再三述べておりますバックビート、要するに強勢が置かれた(筈の)「弱拍」たる偶数拍による(筈の)リズムから成る音楽だってのか?ってところなんですよね、あたしが常々引っ掛かってきたのは(相変らず何言ってんだかわかんなくて恐縮)。
スウィングだのモダンだの、今の時代では既に古典的、伝統的な部類となりそうな、戦前戦中から60年代ぐらいまでの典型的(平均的?)なジャズの演奏を聴けば、カラ知識の有無などとは無関係に、自ずと体は偶数拍で揺れるもんじゃないか、とは思われます。そうじゃない人だっているだろうし、洋楽自体がこれほど普及していなかった何十年も前の日本なら、そうじゃない人はもっと多かったことでしょうけれど。
それが本来のバックビート、ってこともないんでしょうけど、いずれにしろ、50年代に流行り出したロック(の初期型)にも、ひとまずその「強勢弱拍」という風情は充分感ぜられるとは申せ、当然と言うべきか、単に弱拍でスネアが鳴らされるからってだけで、不可避的にそこが「強い」とはなり得ない、ってことはさんざん申し上げたとおり。バックビートとは言わずとも、オフビートがより「強い」のは、ドラムが全体的に控えめなジャズのほうであって、つまりはそれ(ノリ?)、音の強さだの大きさなんぞによって決るもんじゃねえ、ってこってしょう。
じゃあロックが誇るバックビートとは?……ってことんなるんですよねえ。それをまた次回もってことでひとつ。またも恐縮。
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