2018年3月8日木曜日

バックビートがロック?(6)

70年代以降はさておき、モダンまでのジャズドラムって、大半はキックもスネアも添え物のような存在で、ハイハットあるいはライドシンバルこそが言わば主役であり、それだって、聴いてりゃ自然に感じられるノリとは裏腹に、「強勢」の筈の「弱拍」(偶数拍)が「弱勢」の筈の「強拍」(奇数拍)より音がデカいってことはなく、「強弱」の感覚はやっぱり実際の音の鳴りようとは関係ねえ、ってことにはなるんじゃないかと。

ざっとYouTubeで聴いてみたんですが、ジーン・クルーパ、バディ・リッチ、アート・ブレイキー、いずれもそんな感じ。加えてサッチモ、ベニー・グッドマン、グレン・ミラーに、チャーリー・パーカーだのマイルスだのコルトレーンだの、それにデューク・エリントンなんかを聴いても、要するに自分にとっての典型的なジャズってのはみんなそういう「強勢弱拍」こそが眼目、ってことなんですが、上述のとおり「強勢」ったって決してそこの音がデカいってわけじゃなく。
 
                  
〔2018年3月8日追記〕 この一連の投稿の最初に、「関連する音源のリンクなども……」てなことを言っておきながら、今までまったくその出番がありませんでした。ここで漸く2つほど、参考までにYouTubeにあった例を挙げげときます。自分が何となく、まあジャズと言えばこういうやつか(リズムに関しては)、と思うようなものを、いわゆるスウィングとモダン(ビバップ)から恣意的に1つずつ。グレン・ミラー と チャーリー・パーカー など。どうせならもっと時代の離れた例を並べるべきか、という気もしますが、とりあえず思いついちゃったもので。前者は1941年、日米開戦の昭和16年ってことですが、亡母が何かにつけ、この頃からこんなだった国といくさして勝てるわきゃないよね、って言ってたのが懐かしい。それはどうでもいいんですが。 〔追記、ここまで〕
                  
 
「強さ」……ってより「デカさ」ってほうがしっくり来るけど、いずれにしてもそんなもんは関係なくて、強(奇数)拍と弱(偶数)拍の、むしろ長さの加減こそが強勢=強調の決め手であり、スウィング感ってのはその微妙な呼吸のことを言ってるのか、って気もして参りました。単なる「強勢弱拍」の有無ではなく、それを感じさせる絶妙の演奏技巧とかリズム感覚とか……。 だからこそ「ビートの効いた」ロックなんぞよりゃ、ドラムが「控えめな」ジャズのほうがよっぽど弱拍の強調されたノリを感じさせるってわけで(それは人それぞれ?)、「スウィング」の要が帰するところも、畢竟その「長短」にこそあり……とかね。わかんねえけど。

それでまた思っちゃったんですが、前々回英語の原記を並べて、それぞれの(勝手に「これだな」と思った)定義を書き連ねた折に、 ‘backbeat’ の初出期との関連で持ち出した「スウィングジャズ」だとか「ラグタイム」だとかいう言葉について、やはり自分なりの(つまり勝手な)語義をまず確認しといたほうがいいんじゃないか、って気もしてきちゃって……。今さらながら、いろいろ曖昧なまま書き散らしてたなあ、ってのに気づいちまったてえ次第。

                  

‘swing’ ってのを、あたしゃ安直に、それこそバックビート、つまり弱拍に強勢を置いたリズム、ってことかと思ってたんですけど、それはまあ、ロックだのポップだの(‘rock’ も ‘pop’ の下位区分だったりして)に比べれば、ジャズはそれほど好みの音楽でもなかったから、結構テキトーにそう思い込んでたってわけで、それだけのことなら、50年代ロック(ンロール)より、コンテンポラリー(いつからを指すものやら)以前のジャズ全般にこそ顕著な特徴たるは上述の如し、みたいな。

でも、多数の著名なジャズ屋の発言を見るに、結局のところ誰一人としてその確たる定義を述べ(ることができ)ず、要するに「狭義のノリ」としか言いようがないってのが実態の模様。つまりこの ‘swing’ てえやつは、あたしがこの一連の駄文で使っている「ノリ」という言葉の語義、すなわち、単なるリズムの型、拍子の刻み方という素朴なもんじゃなくて、各拍の微妙な長短の按排によって現出される微妙な律動的感覚……って、相変らずわけが知れねえけど、とにかくそういうのが本来の「スウィング」感らしい、ってことは今さっき述べましたとおり。

まあ ‘groove’ だの ‘feel’ だの「ノリ」ってんだって、厳密にはそういう細かい意味になるんだろうけど、それじゃあ結局「勝手に感じ取るしかないもの」ってことんなっちゃうわけで、この駄文全体の趣旨にとっては何ら実効はなかろう、とは思量致します次第。あたしゃそういう、明確に呈示するのが無理っぽい、たとえば「タメ」に対して「前ノリ」とか言うときの意味で「ノリ」とは言っちゃいないってこってす。でもスウィング、ましてや ‘swing’ って言葉に関しては、根本が門外漢なもんで、多少とも慎重を期さねばならぬか、などと思っちゃったってことでして。

                  

言えば言うほど何だかわかんなくなりますな。これについてはもうやめときましょう。とにかく、そういう本当の(?)「スウィング」感を必須とするのがスウィングジャズだとすれば、その後のビバップ(ビーボップって言やあいいに)だのモード音楽だのはまた別物、ってのもわからなくはないけれど、弱拍に強勢がある、ってところはモダンだって何ら変らず、とは思うんですよね。てより、自分にとってのジャズってのはそういうリズムの音楽なんでした。今どきのジャズってあんまりジャズっぽくないなあ、と勝手に思ってんのも、単にそのリズムの違いの故。じゃあジャズをジャズたらしめるのは何?って言い出したら、そりゃロックなんてもんのほうがよっぽど支離滅裂だろう、となるは必至。とっくにわかってます。

わかっちゃいるけど、自分は未だに、バックビートが売りってことんなってるロック(ンロール)なんぞよりは、(かつての)ジャズのほうが、よっぽど容赦なく偶数拍で「ノっちゃう」音楽であり、その単純なノリの型をスウィングって言ってんのかと思ってた、ってことなんですよね。それがほんとに間違いなのかどうかもわかんないけど、そう思うに至った原因はわかっておりまして、それがジャズ以前のラグタイムてえ音楽なのでした。

                  

スウィングジャズ、どころかディクシーよりも早く、19世紀末に流行り出したというそのラグタイムの親玉の如き Scott Joplin による ‘The Entertainer’ って曲がありますな〔リンクしたYouTubeの音源は、いい塩梅にピアノロール=巻紙による自動演奏〕。一時は隠れた名曲って感じだったてえんですが、あたしゃこの曲、中学のときに当った「スティング」てえ映画のテーマ曲として知りました。映画自体もだいぶ後からテレビで観たんですが。

とにかくこの曲、 ‘jazz’ の初出以前、1902(明治35)年出版とのことで、オリジナルはピアノ独奏曲であり(ラグタイム自体がピアノの奏法による呼称)、もちろんビートを明示するドラムセットの類いなどは無縁であり、拍子も2/4という表記ですから、4拍子の偶数拍を指す(ことになっている)バックビートなんかやっぱり無関係なんでしょう。でもまあ、拍子の違いは記譜法の問題に過ぎず(ってのも乱暴だけど)、左手でベースとコードを交互に弾くという「スウィングベース」てえのが基本(1小節2拍の各拍を二分した8分ずつ……って、やっぱり言葉じゃ説明できないけど)。それであたしゃ‘swing’ってのをそういうやつ、つまりベースとコードが、餅つきよろしく、強拍と弱拍(この曲の譜面では各拍の表 = forebeat と 裏 = afterbeat)に分れて規則正しく繰り返され、宛然コードが搗き手で、その前のベースが合いの手、というようなリズムの具合を指して言ってるもんだと思ってたんです。

「餅搗き」たあまた笑っちゃいそうですが、あたしのしょうもない比喩としては、今思いついたこれ、まだそれほど悪かないんじゃないかしらと。とにかくまあ、その行ったり来たりの左手指の使いようがスウィングベースてえもんで、ノリの重心はどうしたって搗き手たるコードのほう。キックに対するスネアのように、目立つのはどうしても高いほうてえこってしょうかね(あるいは音数が多いから?)。スウィングジャズの故地がこのラグタイムってことにもなってるし、あたしゃてっきり、単純にそういう形がスウィングの謂いなのかと思ったてえ仕儀なんでした。

ああ、でも ‘ragtime’(=「不揃いのリズム」?)って言葉自体は、その左手のスウィング、すなわち振り子運動にも似た規則的な揺れに対して、それとは食い違うように奏される右手のメロディーをこそ指したものでしょうね。つまり、交互に繰り返されるベースとコードの間、すなわち拍と拍(2拍子なら拍の表と裏)の合間に、これまた概ね規則的に挿入されるが如き音の連続が主体を成す旋律……って、毎度言葉では何とも表し難いところですが、とりあえず言ってはみました。いずれにしろ、ラグタイムという名称の語義よりは、その演奏法における左手の動きとそれによる音の按配こそがスウィングの、ひいてはバックビートの源泉か?って雰囲気はございましょうか。実際は高さとかだけじゃなく、やはり長短の振り分けこそ肝要なのかも知れない……と、今になって思い始めてるってのが実情ではありますけれど。

                  

ん~、やっぱりどうにも判然とせぬままで申しわけありません。自分でも明確に整理したことがないまま、それでも「聴きゃあわかるじゃん」という勝手な、てえか横着な感覚の下に、音楽をやり出した十代の頃から結構これ、当然そういうことなんじゃねえの、って認識で暮して参ったのでした。同時に、世間の多くの(殆どの?)人が、本職の音楽屋も含め、自らは何も考えぬまま、「バックビートこそがロックよ」ってな空疎なお題目を鵜呑みにしたままで平気なんだってことも痛感しどおし。

別にそれで誰が困るわけでもないとは言え、それでもやっぱり、そんな安易かつ粗放な観念しか持ち合せぬ手合が、自らの不明を恥じる気遣いなどあらばこそ(わかってねえんだから恥じようもあるめえが)、他人の手拍子の「間違い」をどうこう言ってやがるのはいかにも片腹痛し、ってことなんですね、つまるところ。

長短の対比から言えば、スウィングに限らず(ある時期までの?)ジャズのほうが、ロック(ンロール)なんかよりよっぽど弱(偶数)拍が強い(あるいは「重い」?)だろう、って思っちゃうのは、あたしの勝手な錯覚または先入観ってやつなんでしょうかねえ。やっぱりどうしてもそうとしか思われませず。

                  

堂々巡りに陥ってるような気もして参りましたので、今回はここで一区切り。次回はちょいと「臨床的な」記述を試みようと思ってます。

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