2018年3月8日木曜日

バックビートがロック?(9)

歴史的な言語音の短縮現象を指す ‘syncopation/syncope’ についての続きです。前回挙げた例のほかにも、かつては三重母音または二重母音+単母音として(分析法の違いに過ぎません)発音されていた /aɪə/ とか /aʊə/ とかが、真ん中の音を省いて前後を繋げちゃうのが今は普通になってる、っていうのがあります。特に英国音に顕著な現象で、たとえば ‘tyre’ も ‘tower’ も口頭では何ら区別がない、っていう、ちょっと恐ろしいような現実がそれだったりして。

日本では「アワー」などと書かれる‘hour’も同様なんですが、本来はそれと同音の ‘our’ に至ってはさらに容赦なく短縮され、[アー]のように言う人は実に多く、歌ではむしろそのほうが普通かも(中学の頃、ビートルズの ‘Yellow Submarine’ とか ‘Two of Us’ とかの ‘our’ の発音にまごついた思い出が)。つまり ‘are’ や ‘R’ とおんなじってことで、ほんとなら[ア+ゥ+ァ]という3段階だった筈のものを、[ア+ァ]という2段階(実は1音節の二重母音)に詰めただけでは飽き足らず、「アー」っていう単母音にまで縮めちゃってるってわけです。相変らずカタカナじゃあ随分間抜けになっちゃうけど、そこはどうぞ悪しからず。

いずれにしろ、実際にそうなっちゃってんのは、それで誰もまごつきゃしないからってことなんですね。文脈から自ずとどっちかは知れるわけだし、あるいはこれ、国語における漢字の存在と同様、識字率の向上によって、誰もが無意識に綴りの違いを思い浮かべるから、ってことなのかも。

あ、でもそれ(リテラシーとやらの普及)、やっぱり日本語の現状に似て、 ‘spelling pronunciation’、すなわち「綴り字発音」ってやつの誘因にもなっており、以前は当り前だった「端折った」言い方が、書いてあるとおりに「誤って」発音されるという現象も少なからず。 ‘Monday’ だの ‘Yesterday’ の ‘-day’ を、「ディ」ではなく「デイ」のように発音するのもとっくに普通になっていて、ポール・マッカートニーだって、歌だけではなく話すときもその言い方なんじゃないでしょうかね。わかんないけど。

あ、でもそれ(と、わざと繰り返してみました)、文末とかの、いわば「むき出し」の位置にある場合の発音で、次の音節と密着するような場合、たとえば ‘Monday night’ とか ‘yesterday morning’ とかだと、今でも /deɪ/ より /di/ が普通なんでした。それがかつては常に「マンデイ」じゃなくて「マンディ」、「イェスタデイ」じゃなくて「イェスタディ」だったってことなんですが、誰もが読み書きできるようになるにつれ、それを不正確でぞんざいな発音であると見做す者が増えたってことらしい。もちろんこれは一例に過ぎず、似たような「綴り字発音」の増加は枚挙に堪えず、ってところです、日本語でも類似の状況はいよいよ拡大しつつありますし。

てえか、それは当面の逸脱からもさらに逸脱した話柄で、音楽とは無関係の言語的シンコペーションとすら関係ありませんでした。すみません、つい。

                  

とにかくまあ、そういう経時的な短縮化が、つまりは日常的な言語音における ‘syncope’ = ‘sybcopation’ の発現例ってことで、地名の ‘Gloucester’、 ‘Leicester’、 ‘Worcester’ がそれぞれ[グロスター][レスター][ウスター]になっちゃってんのなんかはその典型例。おっと、ソースで知られる「ウスター」、[ウ]ったって母音じゃないんですけど、日本語にゃ存在しない音だからそれはしょうがねえ、ってことでひとつ(やっぱりカタカナじゃ無理か……)。

実はこうした事例って、固有名詞にはよく見られる現象なんですが、発音全般におけると同様、アメリカのほうが比較的古いままの音韻を残している場合が多い、というのも結構知られた話。「ディオンヌ・ワーウィック」という歌手の名字も、イギリスでは大抵[ウォリック]なんですね。地名の‘Warwickshire’もそうなんですけど、これは「ウォリック州」なのか「ウォリックシャー州」なのか……。

ああ、‘shire’ってのも、単語としては前述の ‘tyre’ と一緒で、「シャイア」の筈が[シャア]のような発音が普通なんでした。接尾辞だとそれがさらに詰っちゃって、この ‘Warwickshire’ も[ウォリクシャ]ってな具合。

                  

どうでもいい話ついでに、もひとつおまけしとけば、文学的演出だの歴史的に確立した習慣だののほか、単なる言い間違いによる音の消失ってのも、これまた日本語同様しばしば見られる現象で、それもまた ‘syncopation/syncope’ の範疇なのでした。

かのブッシュ元大統領(息子のほう)が特に揶揄されてたけど、アメリカでは夙に「定着」しているかの如き誤謬の例として、 ‘nucleus’ とか ‘nuclear’ すなわち「核(の)」っていう語の‘l’の字を飛ばしちゃって、[ヌークリァス]とか[ヌークリァ]のように言うべきを、[ヌーキャラス][ヌーキャラ]と発音する者が多く(カタカナじゃどうせ雰囲気しか表せませんけど)、ブッシュ以前の歴代大統領にもそうした輩は少なからず、ってのがあります。もちろん共和党も民主党もそこは一視同仁。

因みに英音では「ヌー」じゃなくて「ニュー」ってことんなるんですが、‘l’ではなくその後の‘-eus’とか‘-ear’が、多少丁寧に言えば[‐イアス][‐イア]であるのを、[‐ャス][‐ャ]というふうに発音されることが多く(自分で書いてて「やっぱりカタカナじゃどうしようもねえな」とは痛感しつつ)、その結果音節が1つ節約されるってわけですが、これも歴史的な端折り現象、 ‘syncopation/syncope’ の一種ってことにはなるでしょう。歴史言語学ではなく、音韻論だとこれ、 ‘compression’(圧縮?)ってんですけどね。

ああ、「核」なんかより卑近な類例が‘February’ってやつでした。これも本来なら[フェブルアリ]みたような感じなんだけど、アメリカじゃあとっくに、その[ル]を省いた上に、ほんとはどこにもない筈の/j/音を‘b’と‘r’の間に挿入し、宛然[フェビュエリ]なる発音が普通。その余計な挿入音に関してはイギリスも同傾向にあり、それはまあ、世界各国に違わず、戦後一貫して何かとアメリカに毒され……おっと、感化され続けている彼の国では何ら驚くに当らない状況なのでした。米帝による新植民地主義の暴虐は、連合国どうし、ってより当初はむしろ兄貴風を吹かせていた(?)英国ですらその犠牲たるを免れず……なんてこともねえか。少なくともロック音楽に関しては、ビートルズ以降随分と本家たる米国を侵略したようだし。

                  

……とはまた、懲りもせずつまらぬ比喩に興じてしまいまして、と言うよりもまずその前に、音楽とは無関係の余談が過ぎちゃってもう忸怩の限り(ってフリだけはしときます)。しかもこの ‘syncopation’ やその原形たる(?) ‘syncope’ って、医学用語(失神)や韻律関係以外では術語としても古臭い言い方のようで、現代(オックスフォード英文法辞典が出た94年時点?)の音韻論ではむしろ、語中の音が端折られる現象のことは単に‘elision’、つまりは「省略」と言うのが普通だってことなんでした(動詞は ‘to elide’)。件の文法辞典には、医学だの音楽だのはもちろん、文学的な語義も載ってはおらず、 ‘syncopation’ も ‘syncope’ も見出し語ではなく、動詞 ‘to syncopate’ という「歴史言語学用語」の項に付帯的に添えられていただけってのが実情。さっきちょこっと触れた ‘compression’ ってのも、現行の音韻論における言い方ってこってす。

この辞書、20年後の改訂版にはまたその間の研究成果も加味され、内容はより精細になってんでしょうねえ。やっぱりちょいと欲しいじゃねえか。今金ねえや。しかたがねえ。

                  

う~む、こいつぁいくら何でも「邪経」に深入りし過ぎたか。何せ「シンコペーション」についての能書き自体がまったくの冗話だってのに、その余計な話からさらに外れどおしで、本当に申しわけもございませず……。

ともあれ、シンコペーションてえカタカナ言葉に対する長大な言いがかりも漸くおさまったところで、次回は(やっと)‘Whole Lotta Love’ のリフについての御託を再開。

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