音楽用語としての前者には「切分音」だの「切分法」などというしゃらくせえ字音語訳もありますけれど、その多分に不用意な言いように比べれば、あたしも日頃のカタカナ語嫌いに似合わず、「シンコペーション」って言っときゃいいじゃねえか、とは思量致すものでございます。一貫性の欠如ってやつ? だって、カメラを写真機って言うのとは違って、意味がわかんねえじゃねえかよ、どうせ……って感じ。
ともあれその原義、まず言語関係では、語中の音(節)や文字が省かれるという短縮現象を指し、たとえば詩作における、拍数を揃えるための、あるいは発話風の語調を醸し出すための技法のことだったり致します。おっと、その場合は ‘syncope’ としか言わないのか。とにかくそれ、詩文ではチョーサーだのシェイクスピアの作にもよく見られる小技で、最盛期は17世紀から18世紀にかけてとのこと。
詩に限らず、各種の散文、戯曲などにも、やはり口語的な「ノリ」を折り込むのに多用され、それも決して古典に限ったものではなく、それこそロックだのポップだのの歌詞にだって、ときにそれを明示するような表記が用いられていることは、お気づきの方もいらっしゃることでしょう。もちろん文学的な高尚ぶりの誇示なんかじゃないんですけど、これについても我が日本のサイトでは漏れなく一知半解の「物知り」が大活躍。やはり抜け目もなく随分とご立派な(間抜けな)解説を施していたりするのを、以前見るとはなしに見てしまいましてのう。
Queenの ‘'39’ って歌の中に出てくる ‘Ne'er looked back’ の ‘ne'er’ がそれだってんですよね、その人。作者の Brian May のインテリぶりを如実に示す古雅な表現である、てな寝言、おっとご高説。こういう半可通が勝手に恥をさらす分には大いに励んで貰いてえぐらいのもんだけど、毎度腹立たしいのは、不特定多数に向けて知りもしねえことを平然と書き散らすその本人より実は遥かに知能が高い(かも知れない)ごく若い世代の読者が、単に充分な経験則を有さざるが故に、たまたまこんなのを見て鵜呑みにしちゃったら、あぁたどう責めを負うつもりだい……ってところなんだけど、そんなこと言ったって、もとより責任能力のないものに責任を負わせることは不可能。よくできてんのね、この世の中は。〔すみません、この話は既投稿文と内容が重複しとります。どうぞ悪しからず。まあ、そっちではこれほどの悪意は感じられないようですが、書いたときの心理状態の差異ってやつ?〕
ま、いい歳した大人が騙されるってだけなら、おりゃ別に同情もしないけど、そんなのがまた無数にいて、こうした誤謬が「コピペ」という利器によって拡大再生産され続けるてえ寸法。いい歳してんだから、少しはてめえで考えて、とりあえず信用できる記事かどうか確かめようてえ気ぐらいにはならねえもんかね、って感じ。
おっと、また余計な悪口に耽ってしまった。根が下品なもんでつい。
ともあれその「’39年」、まあ確かに文学的と言えなくもない語調と内容(実はウラシマ効果をネタにしたSF仕立て)ではあるんだけど、この文句のすぐ後に2回も重ねて出てくる同語が普通どおり ‘never’ になってるってところで、この「解説者」の間抜けぶりも灼然たるものではなかろうかと。
これ、 ‘Ne'er looked back, Never feared, Never cried’ 「決して振り返らず、恐れず、泣くこともないまま」ってな歌詞なんですが、最初だけ「詩語」になってんのは単純に音節数の都合に過ぎず、それは古典的詩文における表記だって実は同じこと。別に ‘v’ の字を隠せばそれでミヤビになるなんてこたあなくて、むしろ世俗的な(ときに無作法な)発音や、田舎の訛りを活写するのに用いられるのがこの種の書き方。辞書の見出し語で ‘literary’、「文学用語」てえ区分になってんのは大抵この一党なんですがね。
でもこれ、カタカナじゃ違いがわからず、「ネバー」も「ネアー」も3音節ではないか、とお思いになる向きもおられましょうが、英語音としては普通が /nev-ə/ という2音節語、「文学用語」ではそれが /neə/ という1音節の二重母音ってわけで、詩文や歌詞では後者がしばしば顔を出すって寸法なんです。この歌メロの場合は、それにより吉田拓郎的な字余り状態(ありゃわざとか)が避けられるという塩梅にて。
まあそれだけのことなんですけどね。少なくともその人、勘違いして「啓蒙的な」知ったかぶりをする前に、じゃあなんで残りの2行はそうなってないんだろう、という疑問を抱く余地は充分あったろうに……って思っちゃうあたしの底意地が悪いんでしょうか。まあ、こういう「無学な衒学趣味」に騙されちゃうほうは被害者ってことになるのかも知れないけれど、そもそも騙すほうがまずわかってねえんじゃ世話ぁねえ、ってところですな。でも「法は不知を許さず」って言うぜ、なんてね。
いけねえ、調子に乗ってますます品のない雑言にのめり込んでしまった。ここで漸くちょっとだけ話を戻し、再び ‘syncopation’ および ‘syncope’ について。
表記法ではなく、音韻そのものに関わる事例としては、詩や戯曲の技巧などによるものとは別に、日常の発音が時代を経るうちに習慣的に端折られるようになって、今日ではその端折った言い方のほうが標準とされている、というものも少なくありません。 ‘Wednesday’ の ‘d’ と ‘e’ が発音されないのもその一例(‘d’ は発音する母語話者もいますけど)。
また、たとえば ‘difference’ のような例だと、通常は決して「ディファレンス」のようには発音されず、無理やりカタカナで表すとすれば[ディフルンス]って感じ? どのみちカタカナで英語音を表示するのは不可能にしろ、とりあえず[フ]と[ル]と[ス]に対応する /f/ や /r/ や /s/ に[ウ]という母音が付随しないのは言うに及ばず、ってところかと。
ああ、思い出した。これもまた詩文や歌詞に見られる例ですが、 ‘every’ を ‘ev'ry’ と書いてあることがありますね。でもこれの場合は、相当の昔ならいざ知らず、現代語としちゃあ普通に書いてたって、普段は誰もいちいち/ev-ər-i/と3音節じゃ言わず、 /ev-ri/ としか発音しません。歴史的にすっかり習慣化したシンコピ=シンコペーションの見本。わざわざそういう気取った(?)端折り書きをするのは、これを芝居がかった古臭い言い方ではなく、今は普通になっちゃってる端折り発音で吟ずべし、っていう指定だったりして(?)。七五調なんぞよりゃよっぽど「韻」ってもんが厳しい英語詩の場合、音節=拍の乱れは致命的だったりしますでのう。
以前の英和辞典には長らくいろいろと昔風の発音表示しかなかったもんだけど、この ‘every’ の場合などは、舌っ足らずの幼児ならいざ知らず、実際はかなり特殊な状況でことさらゆっくり話すとかってんでもない限り、少なくとも標準発音地域の英米人は普段2音節でしか言いませんぜ。カタカナじゃどのみちおんなじになっちゃうけどさ。
あ、でもこれはまだ2種類の発音が一応は併存している例で、 ‘knife’ の ‘k’ とか ‘listen’ の ‘t’ のように、すっかり亡き者にされちゃってる音もありますね。ただし ‘often’ の ‘t’ は、特に英音では未だ現役で、さっき挙げた ‘Wednesday’ の ‘d’ も、よほど少数派とは言えその類似例ということにはなりましょう。
さて、こうした「経時変化」によるシンコペーション/シンコピの例は無数にございまして、次回はそれについてまた暫し書き散らす所存。「臨床例」などと申しましたツェッペリンのリフについては……もう1回休みってことでひとつ(双六でもあるめえに)。
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