2018年3月19日月曜日

セイかシか?(2)

姓氏問題を続けます。

とにかく、件の真砂図書館〔地元文京区本郷所在の行きつけの店……じゃなくて区立真砂中央図書館。「真砂町」ってのが旧町名なんです。規模はさほど大きくもないけれど、歴史ものや(貸出対象外ながら)各種辞典類の品ぞろえがここの売りで、自宅から徒歩10分ほどのあたしには実にお誂え向き〕で角川の『古語大辞典』(初版:1982 - 1999年、全5巻)を開いてみても、「姓」については「かばね」や「しやう」、「せい」として載録されているのに、「し」という見出し語に「氏」の字は見当りません。「うぢ」の下にしか記載はない。つまり、近代以前に「氏」を単独の字音語として用いることはなかった、ってことで。

人称代名詞としての用法、つまり「氏の功績を讃え……」みたいなやつとか、接尾語としての用法、「米大統領トランプ氏」だの「以上の三氏」だの「元の彼氏(!)」だのの[シ]も、明治以前にはありません。後者は明らかに「うじ」の誤読(?)の如きものに過ぎぬは灼然。3例めなんか、まず指示代名詞の「彼」が無理やり普通名詞にされちゃってるわけですし(てなこと今さら言うのも野暮の骨頂たあ先刻承知)。

一方の「姓」だって、単語としては「セイ」という漢音が支配的となるのはやっぱり明治以降。小学館の『日本国語大辞典』(第2版:2000 - 2002年、全14巻)の用例を見るに、単語としてこの漢音「セイ」が明示されたものは、やはり明治以後にしかありません。

それ以前の状況については、何せ音は文字に残らないため、原文に振り仮名が付されてでもいない限り判然とはしないのですが、字音の違いによる使い分けがなされたとしても、飽くまで熟語、つまり氏姓とか姓名といった表記の場合に限られるようではあります。そうした例においても、漢音セイ、呉音ショウ双方の併用が少なからず行われていたのではないでしょうか。大部の国語、古語、漢和辞典を覗く限り、「氏姓」「姓氏」ともに「姓」の字はセイ、ショウいずれの読みでも同義とはされております。

                  

小学館の『日本国語大辞典』には、「四姓」の用例として、延享4(1747)年発表の浄瑠璃『義経千本桜』の一節が挙げられ、「シセイ」との読みが付けられていますが、より古い出典で読みが示されていないものでは、結局どっちなのかわかりませんね。個人的には古い辞典類からの引用がもっと欲しいところ。

しかし、江戸も後期以降の浄瑠璃や歌舞伎の文句ならまだしも、近世以前は台詞の発音自体が、他のあらゆる国語音と同様、どのみち今とは相当に懸隔していたことでしょう。能や狂言などの場合は、今日の演者による音韻が当初の原形をとどめていようとは到底思われません。たとえ読み方を示す記録が残っていたところで、やはり正確な音声がどんなものだったかはもう誰にもわかりゃせんでしょう。

音韻や音素と音声との違いは……って、またさらなる裏路地に入り込みそうになってしまった。ほんとはそういう話柄のほうが本筋だった筈なんですけど、ひとまず後回しのままにしときやしょう〔この話題は飽くまで「逸脱」であり、本旨は国語音についてなのでした〕

ほんと、支離滅裂ですな。すべて自覚の上。まことに相すみませず。

                  

因みに、今日ではほぼ専らシセイと読まれるこの「四姓」、すなわち「源平藤橘」については、その『日本国語大辞典』と角川の『古語大辞典』の両者が、江戸初期に編まれたポルトガル語による日本語辞典、いわゆる『日葡辞書』(1603 - 1604/慶長8~9年)の文言を載せてるんですが、それによると見出し語は‘Xixǒ’で、[シショー]と発音されていたことがわかります。しかし、用例として示された文は、小学館の『国語大辞典』ではカタカナ、角川の『古語辞典』ではひらがなになっており、表現にも異同がございます。既存の訳文が複数あるのかしら、と思ったら、やがて両者の出版時期の問題だってことが判明。

小学館の前者が〈2001(平成13)年・第2版第1刷発行〉という第6巻、角川の後者が〈1987(昭和62)年初版発行〉と記された第3巻だったんですが、前者のほうが新しいのに、日葡辞書から採られた文言は後者のものより古いんです。それは、全20巻に及ぶ第一版の発行時(1972 - 76年)には、後発の『角川大漢和』が依拠する1980(昭和55)年発行の『邦訳 日葡辞書』がまだなくて、1960(昭和35)年の『日葡辞書』の記述を利用していたからなんでした。

出典情報を確かめると、20年を隔てたこの2冊、つまり2種類の和訳日葡辞書、いずれも岩波書店の刊行で、古いほうの解題を行ったのは土井忠生という御仁(故人)。キリシタン文献の研究で知られた国語学者だった由(ウィキのカラ知識)。

                  

このとき、「ひょっとすると」と思って辞典類の書架をちょっと見回したところ、さすがは我が真砂図書館(と勝手に言ってますが)、とっくに絶版となっている岩波の『邦訳 日葡辞書』(そりゃ売れんでしょうな)および別冊として付随する『索引』をすぐに発見。編者3人のうち、恐らく筆頭と思われるのが前述の土井氏。

早速 ‘Xixǒ’ を引いてみますと、『日本国語大辞典』の記述とはちょっと異なるものの、以下の如く記されておりました:

〈Xixǒ. シシャゥ(四姓) Yotçuno vgi.(四つの氏)すなわち,Minamoto vgi, Taira vgi, Fujiuara1) vgi, Tachibana vgi. Coreuo guen, pei, tô, qit, to yŭ(源氏,平氏,藤原氏,橘氏,と言ふ)日本における四つの古い氏族. ※1) Fugiuaraの誤り.〉

400年前の誤植もなかなか乙なもんだったりしますが、‘gi’ は「ヂ」に、‘ji’ は「ジ」に対応します。なお通常は ‘u’ と表記される[ウ]音の多くに ‘v’ という文字が当てられているのは、前後の文字との組合せによる誤読を避けるための方策だったようです。大文字の場合はどのみち ‘J’ と ‘U’ がなかったので、‘u’ も ‘v’ も大文字では ‘V’ とされていたとのこと(‘j’ の大文字は ‘I’ で代用の由)。

さて、現代仮名遣いでは、建前である表音主義に反し、実際の発音とは裏腹に「じ」という表記しか用いず、「ぢ」は専ら「痔」の意に成り果てておりますが、「し」の濁音(有声頭子音)であれば、清(無声)音であるその[シ]と同じように舌がどこにも触れない筈です。標準現代国語にはほぼ存在しない音ですが、現代の英語でもこの峻別は肝要。‘major’ と ‘measure’ の違いは[メイ]と[メ]だけではなく(それだっておんなじになっちゃってますけど)、[ヂャ]と[ジャ]にあるんです。

後者の本来の音はもう、よほどの田舎のよほどの古老ででもなければ、日本語としては発音しない、ってよりできないでしょう。ウェブの記事ではしばしばこれを、「語頭には現れないが語中や語尾では常にそう発音される」などと書いてたりしますけど、それウソです。「英語で書かれた」日本語の音韻論では、「母音の間ではしばしば……」というふうになるわけですが、いかなる子音(父音)も、語頭以外は容赦なく前後が母音ってことになるのがそもそも日本語ですから([ン]だけは別儀)。

そりゃまあ、語頭、すなわち第一音節の頭子音でなければ、舌と口蓋(歯茎)との接触は極めて弱く、結局触れずじまいという場合もなくはないとは言え、[シ]のように一切触れることなく離れたままというわけではありませんので、「メジャー」の「ジャ」は ‘(ma)jor’ の代用とはなり得ても、‘(mea)sure‘ として受け入れられることはない、ってのがほんとのところ。ま、ヘタな英語も文脈でわかって貰える限りは、要するに「通じる」ってことにはなるわけですけれど。

                  

ついでなので申し添えますと、英語の ‘sh’ は /ʃ/ で、これは舌の先端を主に歯茎に近づけた摩擦音。一方の[シ]の父音、すなわち頭子音は /ɕ/ と表記され、歯茎よりは少し奥、口蓋のほうに舌が持ち上がった音なんです。結果的に、舌と接近する面が大きく、その分摩擦も強くなるという寸法。/ɕ/ が[シ]だとすれば、/ʃ/ は[シュ]に近いかも……なんて言いようは雰囲気を叙するに過ぎず、とても説明にはなりませんが。とりあえずカタカナ発音の「シー」は ‘she’ に比べ、ちょっとそのシーシーぶりが「うるさい」感じではあります。

さて、同様の対比は、我がタ行頭子音と英語などの /t/ の間にもあるんですが、こちらは接触どころか密着が前提で、その密着による閉鎖を開放するときに生じるのがつまりは破裂音ということに。やはりタ行音のほうが、大抵は /t/ より接触面が大きく(前者では舌の前部〈舌尖とその後部である舌端〉が歯から口蓋にかけて広く接するのに対し、後者ではしばしば舌尖のみが歯茎と接触)、そのため破裂は弱まり、[シ]の場合とは逆に、英語のほうが鋭い響きとなります。接触面が狭ければそれだけ密着度は増し、引き離すときの強さ、つまり破裂の度合も高まる、って寸法。近づけて摩擦させるだけの場合とは、その点が逆転するわけです。

これらの対比は、それぞれの有声音、すなわちダ行音と /d/ との関係においてもそのまま当てはまるのですが、有声音、すなわち声帯の振動を伴う発音の場合は、息だけを吐き出す無声音に比べ、不可避的に気流が弱まります。多分に「情緒的」な言い方である「濁音」とか「清音」は、主にこの有声と無声の違いに対応しますが、たとえばバ行がハ行の「濁音」で、パ行が「半濁音」などというのは、音声、音韻の理解においては、その妨げとしかならない無意味な分類たるは明白。

とにかく、日本では「濁」とされる「有声」音のほうが、「清」とされる「無声」音より、息、気流の放出は弱いため、「弱音」= ‘lenis’ となり、対する無声音のほうが「強音」= ‘fortis’ となるのです。北米訛りの代表的特徴とも言える「有声の ‘t’」というのも、まさに本来強音であるべき /t/ を弱音で発したものなのですが、単に「有声」であるだけならば、それは /d/ と変りません。実際、英文でこの発音を表すときには、‘Shut up!’ を ‘Shud up!’ と書いたりします。北米訛り(南部方言?)を模したという ‘pardner’ という表記もありますが、もちろん ‘partner’ のことです。ただしこれ、実際の発音ではそもそも ‘t’ はまったく発音されず、瞬間的な声門閉鎖となっているのがほんとのところではあるようですけれど。

                  

さて、この「有声のティー」、どうして日本人にはラ行音に聴こえるかと言うと、実は単に有声であるのみならず、舌尖と歯茎との接触を、破裂とは程遠い「緩さ」で離すという弱音のためなのでした。それが、日本語のラ行音が母音に挟まれた場合、つまりは語頭以外のラ行音に近似するという次第。米音の有声 ‘t’ もまた、語頭には一切現れないのでした。

さらに、その北米訛りの「弱さ」は、/t/ だけでなく、その有声音、すなわちそれを穏当に有声化した筈の /d/ にも及び、本来はそのいずれとも異なるべきものながら、多くの北米人の発音では‘t’も‘d’もまったくの同音、つまりいずれも有声であるとともに、舌と歯茎との離し方がまったく同等に弱い、というのが実際のところ。言うなれば、破裂の条件である閉鎖にすら至らず、極めて瞬間的に舌尖を歯茎に触れさせるだけ、ってところですね。

あ、念のために申し添えますと、その「有声の ‘t’」とラ行音の近似、イ段の[リ]だけは別口で、ほんとはこれ、ラ行ではなくリャ行音なんです。‘get up’ を「ゲラ」ってのはまだしも、「ゲリ」は ‘get it’ の代用にはなりません。それじゃ「下痢」にしかならず。

                  

そんなこたこの際どうでもよかった。問題は「し」に対する「じ」が、/ʃ/ の有声音である /ʒ/ には対応せず、ほんとは[ヂ]だってことなんでした。

破裂音にすかさず摩擦音を連ねた破擦音の例が「チ」と‘ch’なのですが、これはそれぞれ、タ行音頭子音と /ɕ/、および /t/ と /ʃ/ を続けて殆ど一息に発した音、ってことになります。……って、これもうめんどくせえから、日本語のほうは世間一般の緩い表記法のまま /tɕ/ ってことにしまして、その伝で行けば、それぞれの濁音または有声音は /dʑ/ と /dʒ/ ってことになるてえ次第にて。

あれ? つまるところ何の話だったかと言うと、「じ」と書くことになってる国語音は、シの有声版である/ʑi/というよりは、その前にダ行音がかぶさった /dʑi/ であるのが基本で、語頭ではそれ以外にはあり得ない、って(だけの)ことだったんでした。それがわかんないから、‘major’(破擦音 /dʒ/)と ‘measure’(摩擦音 /ʒ/)がどっちも「メジャー」(破擦音 /dʑ/、実は[ヂャ])だと思い込んじゃうってことにもなるわけで。

母音に挟まれてても(つまり語中、語尾でも)、舌が口の中でどこにも触れないシの頭子音、/ɕ/ の有声版である /ʑ/ は、実際の平均的国語方言にはあまり出てきません。その少数派の表記である筈の「じ」が、より現実的な「ぢ」を葬り去ったかのような現代仮名遣い。あたしゃそれだけでも嫌いです。ひょっとするとそれ、これを最初に決めた審議会の委員が訛ってたから、ってだけのことだったりして。わかんないけど。

                  

……と、なんだかんだまたどうでもいい愚痴を並べてしまいましたが、400年前の日本語では、英語や(当時の)ポルトガル語と同様、この2つの音韻、[シ]と[ヂ]が明確に区別されていたってことはわかる、ってことなんでした。

ただ、採録語の表記法については、‘Cami’ =「上」(かみ)、すなわち京都辺りと、‘Ximo’ =「下」(しも)、すなわち九州その他の西国(「西国」は本来九州のことですが)の発音が基準、と言うか標本だったようなので、東国ではその当時どうだったかわかりませんね。ことによると、既に今のような混淆が生じていたのかも知れません。相変らずわかんないけど。

いや、それだけではありませんでした。編者のポルトガル人宣教師によるこの辞書の序言には、結構詳細な解説(一部言いわけ?)が記されてるんですが、それによると、当時既に正しい仮名遣いが現実の発音を反映するものではなくなっており、音韻の混淆もかなり進行しつつあったとのことで、ポルトガル語での表記に際しては一定の妥協を免れなかった、とのこと。伝統的、正統的な音韻を基本としながらも、実際に多用される発音こそが実用的であるとの葛藤により、原理に徹し切ることはできなかった、というような話です。そりゃそうだろうな、とは思いますが。

                  

因みに、[シ]が ‘xi’、[サ]が ‘sa’ と書かれているのも、英語の ‘sh’ と ‘s’ の違いと同じで、今の日本人にとってはいっしょくたに「サ行」ですけど、[シ]はほんとなら「シャ行」に組み入れるべき音韻(さっきの[リ]と同様)。サ行イ段なら、今どきの書き方だと「スィ」となるようなものなのですが、これも標準音からは消失してますよね。でも簡単に発音できるのは、もともとがその音だったからでしょう。日葡辞書の頃には既に今の[シ]になっちゃってたわけですが、タ行の「チ」(および「ツ」)やナ行の「ニ」と同様、それ以外の頭子音もすべてイ列では異なる音に変じている、と言って何ら過言ではないのです(後方が持ち上がる母音のイの舌の形を先取りしちゃうため)。発音が変っちゃったのに表記がおんなじままだから、大半の日本人は未だに音も同じだと思い込んじゃってるってだけで。

現代音におけるチはチャ行、ツはツァ行、ナ行のニはニャ行、というのがそれぞれ本来の居場所。ニャ行なんざさらにギャ行鼻濁音と同じだったりするんですが、ウェブでは相変らずわかりもしないで別の音声記号をコピペしてるやつらだらけ(やっぱり自分が訛ってるからだったりして?)。さらに、サ行の濁音と信じ込まれているザ行(ジを除く)も、正体はツァ行の有声版。ツァだのツィだのも、さっきのスィと同様、外来語にしか使われませんけど、やっぱり誰でも簡単に発音できますよね。

斯くの如く、五十音図における表記に騙されて、大抵の日本人は自分の発音がどうなっているのか気づかぬまま生涯を終えるのです。……って、ちょっと大袈裟に言ってみましたが、実はそれこそ言語音のあるべき姿だったりもします。錯覚による音韻感覚がなければ、むしろ母語の習得がままならぬは必定。同時に、外国語の発音が困難なのは、母語を母語たらしめているその錯覚からなかなか脱却できないからなのです。……って、また大袈裟に言ってしまった。

と言うか、またしても余計な横道に深入りするところでしたわい。てえか、もう充分深入りしちゃってた?

                  

すみません。一向に迷走から抜け出せぬまま、本日もこれまでと致し、まだまだ次に続くってことで……

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