1925(大正14)年から2000(平成12)年までの75年を費やし、1985(昭和60)年に著者・諸橋轍次が没した後も補完作業が続けられて漸く完成したという、全15巻に及ぶ大修館の『大漢和辭典』によれば(真砂図書館が近所でほんとによかった)、「姓」の字の原義である「血筋」の意を表すのが漢音セイであり、呉音のショウ(シヤウ)、およびその転訛たるソウ(サウ)は、〈氏と混用して、家がらをあらはす稱呼〉とのこと。これらは「字義」についての説明であり、それぞれに当てられた「かばね」や「うじ」という字訓、すなわち和語の使い分けを叙したものではありませんので、念のため。
「かばね」という「義訓」(骨、死骸が原義)は、漢音セイのほうに対応するものとして示されておりましたが、その「かばね」も、ここではより古い語義によるものであるは明白。つまり、後に「うじ」とともに政治権力が身分制度の区分として規定した用語とは別、ってことです。
いずれにしても、日本に漢字が伝わる遥か昔に、元来は「氏」>「姓」って感じだった字義の相対関係は失われており、「うじ」>「かばね」という和語どうしにおいても、大化のゴタゴタや、その後の律令時代を経て、語義、用法に変容、混淆を来したのは疑いもなく。平安初期の弘仁6(815)年編纂という『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』では、姓と氏が一括の扱い、とも申せましょう。
実は、「姓」の訓には「うじ」もあるし、「氏」の音には「セイ」もあるんですよね。「別姓ではなく別氏と言え」って威張ってるような連中は、もちろんベッセイ、ベッシってつもりなんだろうけど、本来の字義はおろか、どのみち音韻からしてわかっちゃいないってことで。前回もリンクしときましたが、これを書いた御仁(編集委員だそうな)など、単に言語的、歴史的知識がごく貧しいというにとどまらず、むしろ根本的な思考能力を欠いているとしか思われませず。初歩的な誤謬もさることながら、そのあまりの滅裂ぶりに、てっきり自分の見違いかと思ってわざわざ読み返してしまったではないか。まあいいけどさ、もう。
ともあれ、時代劇の台詞なら、「姓氏」は「セイシ」ではなく「ショウジ」とやって貰いたいもんです(日葡辞書には記載はないようだけど)。てことは、現代人(?)の寅さんなら構わないけど、「セイは丹下、名は左膳」はダメだったりして。いずれにしろ「シは丹下……」は論外でしょう。「法的」にはどうであれ。
「法的」ったって、ほんとは当の法務省のサイトにさえ、〈「姓」や「名字」のことを法律上は「氏」と呼んでいます〉って明記してあんだけどね。明治初期の太政官布告では「氏」なんて表記は用いず、江戸幕府に倣って「苗字」だったし。
現行法の条文にどう書いてあろうが、〈日本の名字は、「現在の家族集団」〔何のことやら〕を表す「氏」であって、「先祖から承け継がれる血族」を表す「姓」ではない〉なんて威張ってたんじゃ、どう足掻いたって愚劣蒙昧の発露としかなるまいよ。
「氏」がその「苗字」に取って代るのは、明治も後半の31(1898)年、漸く制定された民法においてのことであり、同時にそれは、少なくとも公家や武家にとっては古来の常識であった夫婦別姓(本来は「氏」こそ妻の苗字を示す表記)が一朝にして覆され、爾後夫婦同「氏」が強制されるという法令の逆転現象でもありました。
明治8(1875)年11月9日の内務省伺(うかがい――下級官庁などからの質問):
〈華士族平民ニ論ナク凡テ婦女他家ニ婚嫁後ハ終身實家ノ苗字ヲ稱スヘキヤ又ハ婦女ハ總テ夫ノ身分ニ從フ筈ノモノ故婚嫁後ハ婿養子同一ニ看做シ夫家ノ苗字ヲ終身稱サセ候哉〉
に対する翌年の太政官指令では、
〈伺之趣婦女人二嫁スルモ仍ホ所生ノ氏ヲ用ユヘキ事 但夫ノ家を相續シタル上ハ夫家ノ氏ヲ稱スヘキ事〉
となっています。夫の家督を相続しない限り妻は実家の苗字を用いること、っていう回答。無知による(?)平民層の夫婦同姓に釘を刺したものだとも言われているようですけれど。これも例の国会図書館デジタルコレクション〔この一連の再録分を一部とする甚だしい長文の中で何度か言及してるんです〕で見つけました。ここの、「コマ番号 787/809」の左ページにあります。
しかしこの回答文における「氏」は、果して「シ」と読むのか「うじ」と読むのか。時期的にはまだ後者に違いないって気がしますねえ。わかんないけど。西南戦争の前年で、廃刀令が発せられる11日前の3月17日の指令です。ただし、所載の「法令全書」(発行者:長尾景弼、販売所:博文社)の奥付には、明治23(1890)年3月15日出版とありました。
休題閑話(また……)。姓や氏は(音訓を問わず)ひとまず置いときまして、「名字」について申し述べますと、近世以降、戦後の国語改革までは「苗字」という表記が普通だったんでした。
旧に復したのは、単に当用漢字の音訓表に呉音のミョウ(メウ)がなかったから、ってだけのことらしい。その後の常用漢字音訓表でもその点は変ってませんね。漢字に対する法律の態度が変ったってだけで。しかし、ではその苗字という書き方がいつから用いられるようになったのかというと、それは未確認のままでした。今気がついた。
「苗字帯刀」が特権とされたのは、それが特権階級以外には許されていなかったから、ということになる筈ですが、実は庶民に対する明確な禁止令が出たのは、江戸も末期に近い享和元(1801)年、すなわち寛政から改元した(奇しくも19世紀幕開けの)年であり、それまでは公家や武家の特権として法的に規定されていたわけではなかった、ということに。
いずれにしても、この場合の「苗字」が意味するのは果してどういう呼称のことなんでしょうね。狭義の、つまり「家名」といったものを指すのであれば、古来の氏(うじ)や姓(ショウ/セイ)とは別枠になりそうなんですが、そこんところがはっきりせんのです。姓を「かばね」と読んだら、もっと容赦なくまったくの別語ということになりますがね。
苗字ではなく、氏(うじ)という語の原義(漢字ではなく訓、すなわち和語としての)は、名族に限らず、あらゆる階層における各血族集団の称であって(明治以降の法令ではそれを「姓」と表記するんですが、その場合も当初から漢音セイだったのかどうか……)、その意味ではもともと民百姓にだってあった筈。でも「氏素性」だの「氏より育ち」だのってのは、これが上層階級の家系の称となった故の言い方でしょうね。日葡辞書の記述を見れば、「氏素性」は「氏種姓」の転訛とも思われますけれど。
ともあれ、律令時代には、徴税や徴兵の効率化のため、すべての庶民に氏姓(うじかばね)が「強制」されたってくらいで、平安以降徐々に普及した名字、後の苗字とは明らかに別物。ただし、単純に「名前」を意味する「名字」という表記は、平安初期(8世紀末)に編まれた「続日本紀」における、奈良朝後半についての記述に用例が見られる由。でもそれ、どうもメイジと読むもののようです。漢音で統一すれば、メイシとなる筈ではありますが。
やがて用いられることになるミョウジ(ミヤウジ)と読む「名字」は、当初の平安期には一族内の個人を特定する一代限りの呼称であったのが、鎌倉以降徐々に家系の称へと転じ、さらには、互いに境界が曖昧となった氏や姓とも混淆するに至る、ってところなんじゃないかしらと。
それでも、実質的にまったく同義と化したのはやはり近代になってからでしょう。明治の初めには皆1つしか名乗れなくなってしまい、今日では家督などという観念自体が過去の因襲となり果てておりますれば、そもそも区別の必要自体がありません。
個人名であった名字が家の名称に変じたのは、古代からの「妻問(つまどい)婚」(=招婿婚)、すなわち、子は母方で養育され、母方の財産は娘に受け継がれるという都の習慣が、父系を基本とする東国の風に取って代られた結果である、とはしばしば指摘されることですが、それはそうだろうという気は致します。居所によって同一氏族内の個を特定するのが本来名字の機能であったとすれば、家督相続者が土地や家屋敷をも代々継承する東国の武士が政治権力を掌握した結果、それが徐々に京の公家をも含む全国的な標準形態となるに及んで、名字自体が子々孫々の家名とは相成った……とか。
嘘かほんとか、年頃になった頼朝が配流先の伊豆でたびたび夜這い行為に及び、現地民たる坂東武士はそれに辟易していた、とかいう話ですけど、それは頼朝が特段好色だったということではなく、京育ちの男子にとってはごく当然の通い婚、つまり妻問婚の実践に過ぎなかったとの見方もあるそうで。
監視役だった伊東祐親は、知らぬ間に自分の娘が頼朝の子を生み落し、平家怖さにそれを抹殺した、という話もあります。この祐親は曽我兄弟の祖父でもあるんですが、曽我物語同様、この話も多分に伝説の要素が濃厚。しかしここで興味深いのは、関係者それぞれの名字なんです。
兄弟がその仇を討った父親、つまりこの祐親の嫡男は「河津」祐泰。祐親自身にも、伊東ではなく河津次郎という別名があります。一方その仇は、祐親の義理の従兄弟である「工藤」祐経(祖父の後妻の連れ子の息子)。曽我兄弟(兄が十郎で弟が五郎)自身は、母親の再婚相手の養子となったからその名字を名乗ってたわけですが、実父と祖父を始め、縁戚の間で名字が異なるところこそ、この時代(平安末~鎌倉初期)における名字がどういうものであったかを示す好個の例ではないかと。
そもそもその仇討騒ぎ、やはりどこまでが事実なのか疑わしいとは言え、土地の相続に絡む殺人事件が発端であり、所領の地名がそのままそのときどきの名字、つまり家名ではなく、むしろ同族間における流動的な個人の名称であったことがわかる話になってるんです。
嫡男だった祐親の父、「伊東」祐家が早世すると、祖父の「工藤」祐隆は自分の後妻の連れ子を嫡子として、領有する伊東の地をその継子、「伊東」祐継に与えます。次男に格下げされて河津という土地をあてがわれた祐親はそれが不満で、祐継の死後伊東荘を奪取。奪い取られた祐継の子、「工藤」祐経がこれを恨み、祐親の嫡男、曽我兄弟の父であった「河津」祐泰を殺害、っていう筋書き。
3つの名字が絡み、どれも親子で食い違っているわけですが、伝わる呼称は後世に定着したもので、当時の当事者がそれぞれどう名乗っていたのかはわかりません。いずれにしても、今なら間違いなく全員「工藤」となる筈。それがこの一族の基本的な名字です。当然「氏」(うじ)は藤原(ということになってるけど、十中八九僭称)で、その藤原の下位区分たる名字が工藤だったんですが、それがさらに土地の名前によって細分されていたという次第。
頼朝の子を始末したことになっている祐親は、伊東の地を我が物にしおおせたから「伊東」を名乗るものの、もともとは河津だったので、殺されたその息子、曽我兄弟の親父である祐泰は「河津」。殺した祐経のほうは、伊東の土地を取られちゃったので元の「工藤」、ってな塩梅でしょう。江戸時代の家名だって、それを継げるのは嫡男だけだったけれど、平安末だとそれどころではなく、兄弟どころか親子でもどんどん名字が変ってんですよね。
日葡辞書の ‘Miǒji’ の項には〈姓,または,添え名=洗礼名のあとに続ける名前〉とありますから、安土桃山~江戸初期においても、現行の名字、法律用語の「氏(シ)」の意味だとは限らなかったということで。
しかしながら、「うじ」である「藤原」は登場人物すべてに共通であり、それがつまりはこの一族の名称。それに対し、名字がこの時代でもまだ家族ではなく「個人」の称であった、っていう実状はこれでよくわかるのではないかしらと。これが家の名前として嫡系に継承されるようになるのは、中世もかなり後になってからでしょう。
ただし、伝承によるこの経緯自体の信憑性は、まったく保証の限りではありません。それは既述のとおり。
てことで、また次回に続きます。
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