これまではわずかながらも後ろめたさのような気持ちがあった(ような気もする)んですが、もう居直りました。まとめるどころか、寸毫も理論の体をなさぬまま、あちこち飛び火を繰り返し、数々の類焼をも顧みず(省みず?)ここまでダラダラと書き連ねてきたのだから、今さらお利口ぶってもしかたがねえ、ってな心にて、頭に引っかかった枝葉末節にいちいち言及して参ることと致します。
先日来の(勝手な)「懸案」、山田耕筰と藤山一郎のネタについてはまたしても日延べってことになりそうですが、それについても前提となりそうな雑学(与太話)を含んで、このまま「漫談」を続ける所存。何卒ご海容のほどを。
……と思ったけれど、後からそれ読み返したら、やっぱりあまりにも長大で、表示上の問題からもかなりの修正を要するは必至なれば、いずれ改めて別掲とすることにしました。ひとまずご閑却願う次第にて。
実はそれ、前回の投稿で迂闊にも「/m/(ウ゜)」などという、堅気の衆にはわけの知れねえ表記を当然のように用いてしまったことに後から気づいたのが動機。遅いよ。
てえか、こういう言いわけ自体が既に長過ぎるってことも重々承知。要らねえ来賓の迷惑なだけの挨拶みたようなもんで。重ねてご容赦。
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さて、ではいよいよ満を持して、と言うより思い出したように、山田耕筰と藤山一郎の言語意識、アクセント観についての管見を開陳。
何の話だったかというと、両人とも(かつての)標準語(≒正統派東京方言)至上主義的な信念(あるいは偏見)から、歌の旋律と「正しい」アクセントが「一致」していなければ即ち誤り、っていう了見の持ち主だった(んじゃないか)ということなんでした。いちいち「 」に入れて記したのは、私自身はその考えに与しないからなんですが、それについては追々述べるとして、まずはその「東京語に非ずんば日本語に非ず」的な優越意識(江戸っ子にあるまじき野暮?)の表れを示す、結構知られた逸話について。
山田耕筰の名作『赤とんぼ』のメロディー(シューマンのパクリだったりして)が、現行の通常アクセントに反し、第一音節の[ア]が高くなっているのは、かつての東京語では飽くまで[ア‐↓カ‐ト‐ン‐ボ]であって、今のような[ア‐↑カ‐ト‐↓ン‐ボ]ではなかったから、ってことになってはいるんですけど、この歌、結構新しくて、1921(大正10)年の三木露風の詩に山田が曲をつけたのは1927(昭和2)年。実際は既にその当時、「赤とんぼ」の東京アクセントは現行の起伏型が普通になっており、それを敢えて江戸弁風の頭高型にしたのは、本郷生れの江戸っ子たることを誇示せんとの(?)山田の拘りに過ぎぬのではないかと。
頭高型は下町アクセントで、山の手は起伏型、との説もあり、そうなるとますます本郷(山の手)生れの山田がことさら[ア]が高くなるメロディーにしたのは間尺に合いません。それだと昭和初期の「標準語」のアクセントには違背することになります。本人は日頃その下町風(?)非標準語で話していたということにもなりましょう。
あるいは、江戸では幕末まで全域で山田式だったのが、山の手では明治以降に住民層の交代によってアクセントが変じ、やがて本来の江戸方式を伝えるのは下町のみと成り果てた、ということでしょうか。それで、山田の幼少期にはまだ本郷辺りでも元来の江戸アクセントを遺しており、当人は生涯そのままだった、とか? 江戸人はとっくに死に絶えておりますので、昭和初めの当時ならともかく、今ではいずれが正しいのか確かめるよすがなどありませんけれど。
一方の藤山一郎ですが、山田よりは20歳以上若く(それでも存命なら100歳を超えます)、赤とんぼはどう言っていたかわからないものの、毎年紅白歌合戦の終りで「蛍の光」の指揮者を務めていながら、「ほ」が「たる」より低いメロディーはおかしいとの理由で、自分では歌わなかったってんですよね。実際は他のテレビ番組で歌ったこともあるらしいし、ことによると、単に指揮をしてたから歌っちゃいられなかった、ってだけかも知れませんが。
とまれ、いずれもあたしに言わせりゃまったく無意味かつ傲慢な態度。音声言語としての日本語の特性に対する無知の表れ、と言ってやったっていいぐらい。でも当人たちにとっては、明治生れ(藤山はギリギリですが)の「東京人」としての矜持ってことで、まあしかたがねえか、って気もするけれど、この話を聞きかじった軽薄な連中が、「歌詞と旋律の正しいあり方」なるものの例として、自慢げにこの話を吹聴するのにはかねがね辟易の極み。衒学の徒とすら呼び難い浅はかさと断ぜざるを得ません。少しは考えてものを言え、ってのが我が所感、なんちゃって。相変らずエラそうだよな、俺も。
最初にいちいち「 」に入れて記した「正しい」アクセントと歌メロの「一致」ってのも、あたしに言わせりゃお笑い草。日本中の方言の中でも際立ってアクセントの型が単純明快で模倣が容易な東京語(語彙、文法とともに、それもまた「標準語」に擬せられた理由?)は、基本的に高低2つだけの音節(拍)の組合せで発音され、そのアクセントと「一致」するには、メロディーもやはり高低いずれかの音のみで、しかもそれがすべて同じ長さでなければならぬ、ということになってしまいます(現実の発話では常に微細な異同があり、その極めて微妙な揺らぎを人工的に再現するのは至難、というのが本当のところではありますけれど)。
その高低差は、当然のことながら、そんなに都合よく、何らかの音階(ほぼ半音、すなわち1オクターブの12分の1を最小単位とする、規則的な音程の順列……って感じ?)を成す音程(2音間のピッチの隔たり)の1つと符合するなんてこたありません(ないとも限りませんが)。音階にピッタリ納まるようでは、しゃべってるんじゃなくて歌ってるように聞こえそうですが、それはまあ歌なんだからいいとして、「一致」ってんなら、音階から外れた音程こそがむしろ基本だろうぜ、ってのが私の主張(言いがかり)。そうなっちまっちゃあ、もうメロディーには聴こえないだろうけど、「一致」って言ってんのはそっちじゃねえかい、ってことで。
「一致」ってのは、まあ単に各音が相対的に高いか低いかってだけのことを言ってんのはわかっちゃいるけれど、言語的には必須とも言える微妙な高低の差などは初めから無視せざるを得ないばかりか、長さが同じ2つの高さの音を按配しただけでは、どのみちまともなメロディーなんざ作れませんよね。まあメロディーをどう定義するかもその人の勝手かも知れないとは言え、人が普通メロディーと認識するのは、やはり特定の音階上における少なくとも3つの音を、多くの場合長短の差を交えて組み合わせたもの、ってところじゃなかろうかと。
3音だけの例としては、各国の軍隊ラッパがそれで、長和音を成す3音(長音階のドミソ)だけの組合せでいろいろなメロディーが使い分けられています。ああ、5度(ソ)はオクターブ離れて2つ使ったりもするから、都合4つか。オクターブは同音の高さ違いで、ユニゾンに準ずる、って言ってもよさそうだけど、それはまあいいや。
音楽と言語がもともと互いに別物だからこそ、それを「無理やり」くっつけた「歌曲」っていう「芸」が成り立つんじゃねえの?……とでも言っときゃよかったのか、って気もしてきましたが、山田耕筰の拘りを称揚する(ことで自らの見識を誇示しているつもりの)やつらが、あまりにも不用意に「一致」なんて言いやがるから、こっちもつい余計な管を巻いてしまったんじゃねえか、という、甚だ不躾かつ不毛なる言説、ひとまず軽く謝罪申し上げます。
音楽的に一致してるかどうかなんてもう問わないことにしますけど(でないと話が進まないので)、それでもやっぱり山田の拘り、いや、本人よりもそれをいい気になって褒めそやす浅薄のともがらに対しては、まだまだ論難すべき余地が少なからずございますれば、どうにも中途半端ではありますれど、またしても一旦ここで区切ることにし、続きはまた次稿で。すみません。
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