2018年3月22日木曜日

アカトンボのアクセントって?(2)

前回の続きです。藤山一郎については、たかだか「ホタル」の「ホ」が「タル」より低いメロディーが気に食わなかった(らしい)ってだけなので(山田耕筰よりよほどうるさかったとの指摘もありますが)、もういいでしょう(エラそうに)。以後は専ら山田耕筰、あるいはそのトンチンカンな信奉者の傲慢または誤謬について、極力それを上回る傲慢さでケチをつけてやろうと目論んでおります。不毛の極み。先刻承知。

「傲慢」というのは、標準語と同一視される「一部の」東京方言のみが許容し得る正当な国語である、とでも言うが如きそのエラそうな態度に対するもので(山田がそう明言したとも思われぬし、そもそも何者が「許容」したりしなかったりできるってんだか)、「誤謬」としたのは、前回述べた、音楽的なピッチと言語音のアクセントは到底「一致」などし得ない、という点に加え、例えば、現にこれだけ地方によるアクセントの差異が甚だしいのに、それによって同一言語としての理解が不能になるなどということは皆無に等しい(文脈、状況というものがありますでのう)、てなことすらわからねえのか、という気持ちの表れでございます。

あれ? どうもこの「傲慢」と「誤謬」は連動している、ってより、殆どおんなじものなんじゃないかって気もして参りました。今ではほぼ俗称と化した「標準語」というやつだけが唯一正しい国語だなどと言い張るなら、歌のメロディーがどうこう言ってる場合ではなく、全国の俚言を一掃し、日本国民全員が常時その標準国語のみを使用する、っていう恐るべき状況を実現しない限り、日本人の大半が正しくない日本語をしゃべってるってことんなっちまうじゃござんせんか。

敢えて申すまでもなく、日常的に東京的な言語を使っているのは、東京(の一部)とその周辺の住人(の一部)に限られ、日本人の殆どは普段そんなもんで話しちゃいません。それどころか、肝心の東京人ですら、伝統的な東京方言はおろか、本来の標準語なんか知らない、ってのがとっくに普通だったりして。

それで誰が困ってるってんだか。「正しい」アクセント以外はみんな駄目ってんなら、上述のとおり日本人の殆どが駄目ってことんなるし、逆に、地域間のアクセントの食い違いによって意思の疎通に困難を来す、なんてことがあるのなら、歌メロだって、地方ごとに同じ歌詞に異なるメロディーが付されねばならぬ、ってことんなっちまうじゃねえかよ。なんてね。いや、そうなるでしょ、どうしたって。

てこたあ、標準語だか東京語だかが唯一正しくて、歌メロもそのアクセントに合致しなければならない、っていう思い上がりと、そもそもこの世に正しいアクセントなんてものがあるなどという勘違いは、まさに表裏一体。わざわざエラそうに傲慢だの誤謬だのって言うまでもなかったか。

第一、山田は既存の詩に曲を付けただけであって、肝心の歌詞を書いたのは兵庫生れの三木露風。当然本人にとっての「自然な」アクセントは東京方言とはまったく別で、[ア‐カ‐↑ト‐↓ン‐ボ]。ってことは、山田の拘りなんざ、所詮(一部の古い)東京人の勝手だったってことになりましょうぜ。
 
                  

因みに、あたしの生れ在所である青森でも、「赤とんぼ」は第三音節まで京阪とアクセントが一緒です。違うのは第三音節の[ト]で上がったまま、最後まで下がらないってところ。[ア‐カ‐↑ト‐ン‐ボ]って感じ。ただし、末尾の[ボ]は、下接語があれば高いまま(つまり平板型)なのですが、単語としてこれだけを言う場合は、その[ボ]という最終音節内にアクセントの「下がり目」が生じ、1音節の長さで[ボ↓ォ]のように発音されます。

この「拍内下降」は京阪アクセントにも頻出し、と言うより、一般にはむしろ近畿方言の特徴と見なされており、「雨」も「晴れ」も単体で発音されると[ア‐↑メ↓ェ]、[ハ‐↑レ↓ェ]となる由。上方へは行ったこともないあっしが言うのも僭越ではありますが、この2例についても青森訛りは同様で、いずれも東京語にはあり得ない型。

東京アクセントの最大の特徴は、最初の2音節は必ず高さが違うってところ。「アメ」なら[ア]と[メ]が同じピッチということはあり得ず、[高‐↓低](「雨」とか)か[低‐↑高](「飴」とか)しかないのです。また、一旦下がったら単語内では二度と高くなることななく、第一音節が低い例のみ、以後高いままか途中で下がるかという違いが生じます。

1音節語の場合は下接語の助詞がそれより高いか低いかだけで区別され、つまり単体ではどちらかまったくわからない。便宜上前者は平板型、後者は頭高型とされるようですけれど、通常その区分は単語内の高低についてのものであり、2音節語なら下接語が高いままなのが平板、そこで下がれば尾高型という具合。

これに対し、1音節目が高いのが頭高型で、その点は3音節以上であっても同じなんですが、今度はそれに起伏型というのが加わります。つまり、音節数によらず、最初が低く、2音節目で上がったピッチがその後単語内で下がるのが起伏型。4音節以上だと、いずれの音節で下がるかという選択肢が生じるものの、いずれにしろ東京アクセントでは最初だけが高い頭高、最初が低い平板/尾高/起伏の都合4つの区分があるのみ。それだけでも、青森や京阪の方言に比べれば高低の順列がごく限られるのは明白でしょう。それだけ習得し易いとも言えるかと。

ついでのことに、行きがかりで具体例を挙げときやしょう。まずは1音節語。「歯」なら頭高(歯+↓が……)、「葉」なら平板(葉+↑が……)で、いずれも下接語がなければ高いも低いもありません。2音節語だと、例えば「箸」が頭高(ハ‐↓シ+が……)、「端」が平板(ハ‐↑シ+が……)、そして「橋」が尾高(ハ‐↑シ+↓が……)といった塩梅。3音節以上だと単語内の高下も生じ、それが起伏型。「箸」に接頭辞の「お」が付くと起伏型に変じ、[オ‐↑ハ‐↓シ]となります。

「食べ物」は4音節ですが、以前にも言及した1960(昭和35)年発行の「全国アクセント辞典」(平山輝男著)によれば、発刊当時の標準アクセントは尾高型(タ‐↑ベ‐モ‐ノ+↓を……)であり、二次的アクセントとして最終音節が下がる起伏型(タ‐↑ベ‐モ‐↓ノ+を……)も掲載。今は後者のほうが普通のような気も致しますが、昨今はこれをさらに「建物」と同じく2音節目だけを高く発音する人が、NHKアナウンサーなどにも少なくありません。[タ‐↑ベ‐↓モ‐ノ]ってな寸法。

自分はこの辞書見てから尾高型で言うよう心掛けてるんですが、気を抜くと4音節目で下がる(かつての)福次的アクセントでやってますね。ひとにつられて「建物」式(ただしこれも二次アクセントは[タ‐↑テ‐モ‐↓ノ])で言ってることもありそう。因みに、「食い物」の型も「食べ物」とまったく同じ表示でした。さすがにこれは今でも「建物」式の[ク‐↑イ‐↓モ‐ノ]とはなりませんが、将来はどうかわかりません。どのみち今の標準アクセントなんて、江戸時代の江戸人が聞いたら「何でえ、そりゃあ」って思うようなものばかりでしょうし。

ところで、藤山一郎が拘った(らしい)「蛍」のアクセントは、偶然と言うべきか、京阪式でも藤山=東京式と同様、[ホ‐↓タ‐ル]のようですね。あ、でもここに示した京阪アクセントってのは、上記「全国アクセント辞典」からの引用で、「赤とんぼ」ともども、50年以上前のものですから、東京アクセントと同様、その後かなり変っているかも知れません。関西出身の方々には、その点につきましてなにぶん寛容なるお心を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
 
                  

閑話休題。これらに対し、福島訛りに代表される(?)、「無アクセント」とか「曖昧アクセント」、それどころか「アクセント崩壊型」などと称される方言もあり、つまりは明確なアクセントの法則がない、言うなれば、高低差の素朴な東京弁とは対極の如き存在……かと思うと、栃木辺りの特徴的な話し方などは、東京アクセントに次いで、あるいはそれ以上に模倣が容易、と言うより、不用意に真似してるとつい癖になってなかなか元に戻れなくなるという禁断の訛り。アクセントがないと言っても、高低差がないわけではなく、それどころか各音節が高低いずれかに画される明快さとは正反対に、言わば無段階可変式に発話のピッチがだんだん上がって行くというポルタメント技法。

アクセントのない、あるいは曖昧な(崩壊した!)「型」は、宮城と山形の一部を含む東北南部や、北関東の茨城、栃木に加え、九州の比較的広い範囲にも分布が見られるというのですが、かつて(今でも?)「ズーズー弁」と呼ばれた東北弁って、どうもこの曖昧アクセント型たる福島弁のことらしい。東北と言うなら、より奥地の青森や岩手/秋田の北部のほうが訛りも念入りで、東北弁てえなら北関東に類似する福島よりゃよっぽど格上(遥かに強烈)なんじゃねえの?って勝手に思ってんですがねえ。

アクセントについては、青森辺りの訛りは京阪式と一部通じており、東京型や「崩壊」型より法則が複雑(部分的には曖昧、または無原則)ではあるのですが、それと同時に、なにしろ発音の訛りが苛烈を極めるため、話者によっては「それほんとに日本語?」って言われそうな代物。そこまで訛った世代ってのも、既に稀少な存在となっているようではありますけれど。
 
                  

つい東北弁の講釈などをしてしまった。すみません。いずれにしても、地方によってアクセントは千差万別であると同時に、そうしたアクセントの違いによって当該地方以外の者にとっては意味が不可解になるなんてこともないのだから(各方言にそれぞれアクセントも発音も等しい同音異義語はあろうし)、各地のアクセントを無理やり統一する必要もなければ(無理だし)、元来は一地方の勝手な(それもとっくに廃れた局所的?な)アクセントに過ぎない[ア‐↓カ‐ト‐ン‐ボ]に義理立てするなどは笑止千万、とでも言っときましょうかね。

歌メロなどという明瞭な高低差などとは対極にあるような、前記アクセント崩壊方言(それにしてもひでえ言いようだな)においても、決して文意や話者の気持ちが曖昧になるわけではなく、それどころか極めて豊かな感情表現が可能であることは、つぶやきシローだのU字工事だの(いずれも栃木出身の由)の話芸によっても灼然たるものでありましょう。しかし、明確な高低の法則を欠く以上、当然それに「一致」する歌メロなど成立し得ません。どうすんだよ、それじゃ。栃木弁の歌なんぞはその存在すら許さねえってのか。

どうでもアクセントとメロディーの不一致がけしからんと言うなら、作曲当時も(下町以外では?)劣勢であったと思われ、その後はほぼ消失した頭高型の「赤とんぼ」(今になって亡霊の如く蘇ってきたのは、明らかにネットのカラ知識によるものでしょうね)に「一致」させた山田の曲などは、実際の現代アクセントに合せてメロディーを改めねばなりますまいて。いや、その前に、各地方の多様なアクセントに合せ、初めから土地ごとに別々のメロディーを付けとかなきゃいかんでしょ。ああ、その点については、「唯一の伝統的(ただし下町の?)アクセント」だけが正義であり、その他は斬捨て御免って了見なのか。やっぱり傲慢なる誤謬ってことで間違いないのでは。

発音の訛りがときに聴解の妨げになる事例はありましょうが(津軽弁なんかどうするよ)、アクセントの違いは何ら理解の支障とならないのは、それこそ山田の『赤とんぼ』を聴いて、頭高型の「赤とんぼ」なんか聞いたことのない東京っ子(現代ではそれが正常)が、「[ア‐↓カ‐ト‐↑ン‐ボ]っていったい何だろう? [ア‐↑カ‐ト‐↓ン‐ボ ]ならわかるけど」なんて思うわけがないことで明らかでしょう。

発話のアクセントに合致しないメロディーは不自然、っていつまでも言い張るなら、先述のとおり、この歌メロこそ現行のアクセントに合うよう作り直さねばなりますまい(東京語とは異なるアクセントの地方はとりあえず切り捨てるとして)。どこにそんな必要がありましょうや。この歌を聴いて、ほんとに何言ってんだかわかんないなんてやつがいるもんけえ。……ああ、逆だったわい。実際にはとうの昔に廃れた、つまりは現実の言い方とは明らかに異なるアクセントに忠義立てしたメロディーのほうが正しいってんだから、本末転倒てえより支離滅裂じゃねえか。

……と、あたしの悪態もいよいよ調子づいてきちゃいましたので、もうちょっとこのまま雑言を続けとう存じます。

とは思ったけれど、やっぱりまた長くなり過ぎちゃったので(半分以上予想どおり)、またしても次回に続く、ってことでひとつ。恐縮至極。

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