2018年3月22日木曜日

アカトンボのアクセントって?(3)

アクセントの相違は聴解の妨げになどならず、したがって歌メロの高低の正否を論うのは不毛である、ってな屁理屈を書き連ねて参ったわけですが、ここでちょいと気になることを思い出してしまいましたので、それについて少々。

かかる事情は日本語にこそ該当するものの、言語によっては、発音とともに抑揚によっても意味の違いが示されたりするんですよね。英語も、かつては英米人どうし話が通じなかったりもしたそうですから、そうした要素も皆無ではなかったと思われますが、今ではそれこそ東京弁と関西弁の関係のようなもので、お互い何を言っているのか理解不能といういことはないでしょう(ただし、それぞれの、特に英国の田舎の訛り丸出しだと、日本語と同様わけわかんないこともありましょうが)。

もともと音韻体系が(相対的に)単純な日本語の場合は、語義や文意を音声のみで峻別するのは不可能、ってんで諦めちゃってんのかも。明治以降、それまでなかった西洋の文物を取り入れる過程で、必要な訳語も次々に考案せざるを得なくなり、その結果多数の新造漢語(字音語)が現れたのはいいとして、むやみに同音異義語、それどころか同音類義語(音が同じで意味も近い)が増えちゃったりしたわけですけど、それで特に混乱が生じないのは、それ以前から日本語の語義は語形(発音)のみならず、それより文脈や表記(つまり表意文字たる漢字の使用)によって理解が可能だったから、ってことなんじゃないかと。

落語には、無学な登場人物がいちいちご隠居の言う言葉を取り違えるという演目なんぞもありますが、それはつまり、普通に字が読める者は、耳で聞いた言葉も無意識にその文字を思い浮かべるから、音が同じでも混乱はしない(しなかった)ってことでしょう。

同音異義語は英語にもありますが、意味が似たり寄ったりだと、やがてそのいずれかが廃れていきます。それが、明治以後の日本ではむしろどんどん増えてんですよね。当然新作字音語、和製漢語(現代中国語に逆輸出された例もあるとか)に限られる傾向ではありますが、それはやっぱり識字率の向上(と言うより均一化)の所産でしょう。英語でも、特に英国発音において、発音体系自体の単純化に伴い、昔は画然と分かれていた発音が混淆し、同音異義語は増加の一途を辿ってはおります。それもやはり全般的な識字能力の向上によるものらしい(ただし、これも日本語と同様、誤読の慣用化も進んではおりますが)。

その点では、英語などはまだ日本語とそれほど懸隔してはいないとも思われますが、日本語から見れば殆ど複雑怪奇とも言える音韻から成る中国語なんかは、アクセント(抑揚、ってより「声調」ってことですかね)によって意味の違いが表される典型例のようで(知らないけど)、日本における東京語の如き存在であろう北京語を基礎とする(らしい)普通話=共通語はそれほどでもないけれど、香港などの広東語ではその傾向甚だしく、歌メロが話すときの声調から外れると容易に異なる意味となってしまうため、同じ歌メロに普通話とは別の歌詞を施すのが通例なんだとか。流行歌の場合、同じ中国語の歌かと思うと、普通話と広東語の2バージョンが初めから用意されてるんだとか何だとか。やっぱり中国語なんか知らないんですけど。
 
                  

さて、件の山田耕筰自身は明治も前半の生れであり(てこたあ本人は既に江戸っ子なんかじゃなかったってことですが)、自分が慣れ親しんだ(?)頭高のアカトンボに合せて曲を付けたって、そりゃ当人の勝手ではありましょうが、そんなアクセントが廃れて久しい現代の日本、あるいは東京で、この曲を歌メロ作りの模範として持ち上げ、作曲者の山田を称揚するなんてのは、どう取り繕ったって非合理の極み。

山田にとってはそれがむしろ当然の正義だったのだろうから、21世紀の今日、何ら責めるべき余地はないものの、その21世紀の今だからこそちょいとムカつくのは、高座で古典落語をやってるわけでもあるめえに、これ見よ(聞こえよ)がしに、いちいちこの古風な(あるいは特殊な)アクセントで[ア‐↓カ‐ト‐ン‐ボ]って言ってるやつら。
 
                  

実は私、十代の頃から江戸落語が好きでして(その前に江戸自体が好きなんですが)、それも自分が生れた時分の志ん生だの圓生だの文楽(ぺヤングの人じゃなくて)だの三木助(首括った人の親父)の録音が今でも一番のお気に入り。噺そのものもさることながら、充分に鮮明な音質で、今では(当時も?)なかなか聞くことのできない由緒正しい江戸弁(たぶん)が楽しめる最古の録音がその時期のものではないかと。

で、そういう録音を聴いていれば、「赤とんぼ」が頭高だったってことぐらい、こっちゃあとっくにわかってらい、って感じなんですが、同時に、それは飽くまで古典的江戸弁だからであって、現代の東京語としては格別ってことも、周囲の「東京人」のしゃべりを聞いていれば自然にわかっちゃうが道理。10歳まで青森で育ったから気づいた、と言うより、そもそもそういうところが気になったってことかも知れませんけど。

いずれにしろ、50年も60年も前の師匠たちがそういうふうに言ってたって何の不思議もないわけですが、その時分にはまだ生まれてもいなかった筈の青いやつらが、たまたま聞きかじったか読みかじったかしたカラ知識で、今となってはいかにも場違いなそのアクセントをしたり顔で使いやがるのは、どうにも気障りでしかたがねえ、って心持ちなんです。ま、何をどう言おうとそいつの勝手だし、そういう自分こそ、日頃から随分勝手な拘りでしゃべったり書いたりしてるんだから、単なるわがままだってことは重々承知。

でもやっぱり気に入らねえのは、じゃあなんで「赤とんぼ」だけなんだよ、ってところ。70年代ともなると、落語家だって起伏型の[ア‐↑カ‐ト‐↓ン‐ボ]を用いるのが普通になっていたと記憶するのですが、それは時代の流れというものであって、何ら不思議でもなければ、けしからんなどと思ったことはありません。山田耕筰の死去も50年ほど前、先述の名匠たちによる口演が収録されたのと同じ頃なんですが、近年になってことさらこの「赤とんぼ」を頭高型で言いたがる輩が鼻について(あ、耳か)、内心ずっと不快なんです。
 
                  

まず、特に2音節の色名の場合、単語としては頭高型が東京語の基本ではあるものの(赤、青、黒、白)、下接語の名詞が付された場合は逆に例外なく起伏型となり、赤とんぼだってかなり昔から同様の筈(20世紀以降ってことでしょうかしら)。形容詞が連なる場合は平板型が普通だったのが(青白い、赤黒い……)、今ではそれも起伏型が優勢のようですね。「暑い」を「厚い」のように言う平板化現象とは裏腹。いずれにしろ、百年前(の下町訛り)ならいざ知らず、現在の東京語、共通語としては、どう足掻いたって[ア‐↑カ‐ト‐↓ン‐ボ]が自然であり、今どき[ア‐↓カ‐ト‐ン‐ボ]なんて言うのは、「無学な衒学趣味」という撞着語法ででも呼ぶべき、愚かで鼻持ちならない唾棄すべき行為。言い過ぎか。

でもそれならそれで、どうして赤とんぼだけそうすんの?ってことなんですよ。志ん生は「生やさしい」も最初の「な」だけが高い頭高型だったし、「伊勢神宮」や「明治神宮」、あるいは「水天宮」などとの類推によれば、どうしたって起伏型になりそうな「大神宮」なんざ、「まともな」江戸落語の演者は必ず[ダ‐↓イ‐ジ‐ン‐グ‐ー]と、頭高でやりますぜ。「大魔神」じゃないんだから。

かつては江戸言葉が使えなければとても高座には上がれなかったと思われますが(圓生は大阪生れながら新宿育ち)、今では東京の落語家の大半が地方出身者であると同時に、東京生れ、東京育ちだからと言ってひとりでに正統的東京語、まして江戸弁が使えるなんてことはないのだし、何より現代人の誰ひとりとして聞いたことのない正真の江戸弁など、所詮再現のしようはないでしょう。明治・大正期の快楽亭ブラック(英人から帰化)のレコード録音ってのを聴くと、今とさして変らない達者な東京発音ではありますけれど。

おっと、その「高座」こそ、共通語、標準語としては相当の昔から「口座」と同じ平板型なのに、あたしの好きな昭和半ばの師匠たちの録音では頭高型の[コ‐↓ー‐ザ]ですぜ。今どきわざとらしく[ア‐↓カ‐ト‐ン‐ボ]って発音する若い(あたしよりは)落語家だって、平気でこれを「標準語」で、すなわち[コ‐↑ー‐ザ‐二‐ア‐ガ‐ル](第二音節以降が高いまま)ってな言い方しますけどね。そういう不徹底、不統一が不愉快なんでして、「全部ちゃんとできねえならハナから余計な悪足掻きはよしねえ」って思っちゃうわけです。

それでもまだ落語ならしかたがねえか、ってところもあるけれど、口座ならぬ高座に上がることもあるめえトーシロどもが、さっきも述べたとおり、まるで自慢でもするかのように(偏見かしら)、「赤とんぼ」に限って[ア‐↓カ‐ト‐ン‐ボ]って言いやがるのがいかにもうるさくて、ってことなんでした。頭高型の赤とんぼが明治までの伝統的アクセントだったとして、そうなれば当然他にも無数の類例がある筈。色の名前でさえそうなんだから、上接語が頭高型の複合語は、ことによると例外なく山田式赤とんぼと同様、全体が頭高だったとも推量されます。でももしそれが確認されたところで、今の時代にそんな言い方したら、そりゃもう東京弁でも共通語でもなくなっちゃうでしょうよ。
 
                  

ええと、またも既に長くなってしまいましたので、今回もここで区切ります。赤とんぼのアクセントについては、もう少し述べたいことがありますので、それは次回。

つまるところ、音声言語としての日本語は、アクセント、すなわちピッチの高低差によって語義が左右されるような微妙さ、または脆弱さとは無縁であると同時に、時代や地域によってそのアクセントというもの自体が大きく変る以上、単に一時期の一方言に過ぎぬ「標準語」――実は部分的東京語――における過去の因襲を金科玉条の如く祀り上げ、それに適合しない歌メロ(ただし任意の2音間の高低差についてのみ)は失格、などという見当違いの思い上がった了見こそ片腹痛い限り、って話だったんですかね? ……って、自分で書いといて訊くのも間抜けの極みとは百も承知、二百も合点。

書き出す前に初めから全体の構成というものを考えとくべきなんですよね。今さら言っても致し方ございませんが。

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