2018年3月22日木曜日

アカトンボのアクセントって?(4)

さて、「頭高型アカトンボ」に正しくメロディーを施した山田耕筰先生の偉業を讃え、歌メロはすべからくこうあるべし、てな空疎極まる与太話を、宛も自らの知見ででもあるかの如く吹聴し(ほんとか?)、それに違背するメロディーは断じて許すまじ、とでも言い張るが如き連中に対する難癖の続きです。

山田と同様、東京生れ(現渋谷区育ち)ながら、世代はかなり下る團伊玖磨(それでも私の亡父より1つ上で、生きていればとっくに90歳超――曲は山田のよりずっと好き)が、12歳の時分から個人的な師匠であったという山田に、この「赤とんぼ」という歌詞に付されたメロディーについて質問した、って話があります。発話時の高低アクセントは是非とも歌メロに反映されねばならぬ、という山田の拘りは既に知っていたので、[ア]が[カ]より高いのは妙ではないか、という甚だ妥当なる疑義。

團が作曲家として世に出るのは成人後の戦後ではありますが、質問したのがいつなのかは知りません。雑誌連載の雑文にこの逸話を記したのは70年代だった由。いずれにせよ山田の死去は戦後20年を経てからのことで、もし戦後に尋ねたのだとすれば、既述の落語家たちのようなよほどの年輩者(それも主に下町の)を除き、現在の標準東京アクセントたる[ア‐↑カ‐ト‐↓ン‐ボ]で言う者が圧倒的多数だった筈。因みに例の平山輝男編、東京堂出版の『全国アクセント辞典』では、(現行の)起伏型を基本形として掲げ、(江戸または下町式の)頭高型も二次的な例として示してはいるものの、その頃に「この歌、フシがヘン」って思う東京人がいたとしても、既にそのほうがよほど自然ではありましたろう。

團もまさにそうだったわけですが、当人は1924(大正13)年、山田が大威張りで江戸風(?)アクセントに「忠実な」作曲を施す3年前の生れであり、山田が「江戸時代からそうだった」と言い張る頭高アクセントが、仮にその時点でも依然通常の東京アクセントであったとするなら、たとえ質問したのが戦後のことだったとしても、團がその頭高江戸アクセントを知らなかったというのはいかにも非合理です。

質問したのが「弟子入り」の頃だったとすれば昭和10年代初頭、『赤とんぼ』発表の数年後であり、いずれにしても、まさか團が3歳を過ぎた頃に突然この語のアクセントが激変した、などということはあり得ますまい。つまり、明治の本郷ではいざ知らず、少なくとも昭和初期の原宿(江戸期から都市部だった本郷とは異なり、明治期には未だ郊外であり、下町でもなければ山の手にも当らず)で育った20世紀の東京人たる團には、頭高型の[ア‐↓カ‐ト‐ン‐ボ]などはついぞ聞いたこともない異様なアクセントだった、ってことになりましょう。

後に雑文、おっと随筆家としても名を上げた團ではありますが、明治生れの名人たちによる落語は聞いたこともなかったのでしょうか? 要らぬお節介ではありますが。
 
                  

それより、せっかく現実との齟齬に気づいてそれを指摘した團が、結局は逆に山田に諭され、その多分に恣意的、または時代錯誤的な「正しさ」にすっかり丸め込まれちまったのにはガッカリ。そこが東京もんの軽さ(?)ってやつなのか、「さすがは言葉を大切にする山田先生」てんで、以後は歌曲の作曲における規範として肝に銘じた……のだとかなんだとか。本人はそう言ってます。ほんとかしら。

山田が何にどう拘り、團が(本心はどうあれ)それをどう受け止めようと、まったくこっちの知ったことではないけれど、この一連の話が実に以てくっだらねえ与太に過ぎねえなあ、実は明々白々。必然的に、團の真似でもあるめえに、やたらと山田の立派さを喧伝したがる徒輩の軽佻浮薄ぶりもいや増さるてえ寸法よ(俺、殺されねえかな)。

そうまでエラそうに「正しいアクセント」への拘りを見せつけておきながら、ちょいと歌の続きを聴いてみねえ、あまりにも間抜けなカラ威張りに過ぎねえってのがすぐに知れますぜ。

〈小籠に摘んだはまぼろしか)の「小籠」は、当然平板型の[コ‐↑カ‐ゴ]でなければならぬのに、[コ‐↑カ‐↓ゴ]などという、江戸弁とは似ても似つかぬ起伏型。それでもこれはまだ最初の2音節の高低だけは辛うじて保たれているとは言えましょうが、「摘んだ」、「まぼろし」の情けなさはどうでえ。そりゃもう標準語でも東京弁でも江戸弁でもありゃしめえよ。[ツ‐↓ン‐ダ]はともかく、[マ‐↓ボ‐ロ‐シ]なんざ、どこの田舎の訛りともつかねえ、とても日本人の発音だたあ思えねえ妙ちきりんなアクセントじゃねえかい(そういう訛りもあったりして。あったらごめんなさい)。

2番に入るとさらに野放しですぜ。〈十五で姐やは嫁に行き、お里のたよりも絶えはてた〉ったって、「十五」も「姐や」も「嫁」も「絶え」もみんなアクセントとメロディーがひっくり返ってんじゃねえかよ。「お里」も「小籠」と同断。平板が起伏に化けてらあ。さんざん威張っといてなんてざまでえ。[追記:後から気づいたんだけど、「十五」の「五」は東京発音でも鼻音化しない例でした。これも昨今は過剰訂正による鼻濁音が目立つような。あ、「十五夜」はまた別義でした。なるほど、こりゃ厄介かも。こっちゃあ無意識なんだけど……]
 
                  

「お里」というのはその姐やの名前ではないか、てな寝ぼけたこと言う人もいるってんだけど、そうは行くかよ。その直前で〈姐やは嫁に行き〉って言ってんだから、それに続く「お里の」ってのがその「姐やの」って意味になんか、どう足掻いたってなりようはねえじゃねえか。ちょいと考えりゃ、ってより考えるまでもなくわかり切ったことだろうよ。

〈姐やは〉の「は」は、「姐や(がどうしたかと言えばそれ)は」とか「(余の者はともかく)姐や(について)は」てな意味または機能を担う付属語にて、主格を示す(とされる)格助詞の「が」に対し、飽くまで「係助詞」であるのはそれ故(なのか?)。つまり、この「は」ってやつは、それが付属する上接語句の立場を規定するのではなく、むしろその上接部分に対して後続の言辞がどう繋がるかを示すのが役どころ(か?)。〈便りも〉の「も」もその点は共通。……って、自分で書いててわけわかんなくなってきた。ヘタな説明休むに似たり。

まあいいや、とにかく〈姐やは嫁に行き〉と言った以上、それに続けてさらにその姐やからの手紙について言うのであれば、「(その)便りも……」とでもするしかあるまい。ほんとにその名が「お里」だったとしても、前節で〈姐やは〉って言っちゃってんだから、その直後に〈お里の〉って言われたら、誰がそれを当の姐やのことだなんて思うかよ。余人は知らず、俺は生涯思わないね。

「おばあさんは川へ洗濯に行き、おじいさんは山へ柴刈りに行きました」ってのを、「その婆さんの名前が『おじい』で、洗濯の後に山へ行ったのね」なんて解釈するやつがどこにいるかってのよ。この重文(複数の文を繋いで1つにまとめたもの)を、係助詞「は」の働きが目立つよう詳述するってえと、「おばあさん(について)は(どこへ何をしに行ったかと言うと)川へ洗濯に行き、(一方)おじいさんは(と言えば)山へ柴刈りに行きました」てな感じになります(くっだらねえ!)。

さらに、「おばあさんは川へ洗濯に、おじいさんは……」と言い換えれば、意味はまったく変らないのに、前段が「節」ではなく、述語を欠いた「句」となり、全体が「行きました」を述語とする単文となります。……へっ、文法のいかがわしさよ。

そんな話はさておき、件の歌詞は「お里の便り」ではなくて〈便り〉だったんでした。それでもやっぱり、既述のとおり「その便りも」とか「その便りは」ででもない限り、たとえ当人がお里てえ名前だったとしたところで、それは「嫁に行った姐やの便り」ということにはなり得ません。

「妻は出て行き、メールも不通となった」てえなら、そのメールってのがカミさんからのもんだってのは誰にでもわかろうが、後段がたとえば「洋子からのメールも……」だった場合、その「洋子」が「妻」の名前であり、両者は同一人物のことである、なんて思う人がどこにおりましょう。やっぱり俺は金輪際思わねえな。……って、ほらね、この「俺は」もやっぱり「(ひとはどうか知らねえがこの)俺(に限って)は」って意味でしょ。それが係助詞の「は」てえやつなのさ(それがどうした?)。
 
                  

……さて、以上、放縦を極めた悪態を存分に吐かせて頂きましたが、言えば言うほど空しくなるような。でもまあ何とか気を取り直しまして、これにて漸く「赤とんぼ」にまつわる山田耕筰とその信者どもの、不遜かつ無益にして軽忽なるアクセント意識についての私見は概ね述べることができたものとは存じます。山田自身もさることながら、先述したその一貫性のなさには一向に気づくことなく、「正しいアクセントは頭高型であり、それを遵守した山田耕筰こそ作曲家の鑑」みたような与太話を受売りする輩に対し、何とか一矢報いたような心地(まったく向こうにゃ届かないけど)。

一貫性のなさったって、俺自身はしゃべりのアクセントと歌メロの上昇・下降が一致しなくちゃならねえなんてこれっぽっちも思っちゃいねえし、そもそもそんなの無理だってのはハナからわかってんだから、単に「ほらな」ってだけのことなんですがね。自分にとっては昔も今も音楽と言語は全然別であり、「嫁」が「夜目」に、「絶え」が「多恵」に聴こえるなんてこたまったくないどころか、今回わざわざ歌詞を見直すまで、これほどアクセントに反するメロディーだったのか、なんてこともちっとも知らぬまま、この歳まで生きて参りましたのさ。

70年代の昔から、〈戦争を知らないィ~こォ~どォ~もォ~たちィ~さァ〉の[セ‐↓ン‐ソ‐ー]だの、〈はァ~なァ~嫁はァ~夜汽車ァ~に乗ォってェ〉の[ハ‐↓ナ‐↑ヨ‐↓メ]だのはけしくりからん、てな野暮を、嘆いてんだか威張ってんだかわかんねえ口調で言ってたやつらなんざ、実は密かに見下してたんでした。そうやっていちいちつまらねえ文句をつけてられるってこと自体、てめえらがその歌詞の意味を難なく了解してたって証拠じゃねえか。

「何を言っているのかわからない」ってんならまだ不服の余地もあろうが、その場合でさえ、もともと朗読なんかじゃなくて「歌曲」という音楽の形態なんだから、歌詞の都合で肝心のメロディーのほうが犠牲になるなんてことんなったら、それこそ本末転倒……って思うのは音楽第一の俺の勝手に過ぎないけれど、勝手はお互いさま。俺がいつてめえらに「歌の文句なんかよりまず音楽としてちゃんと聴け」なんて言ったよ。言ったところで理解もできねえだろうし。

そう言や、わかりもしねえイタリア語だのドイツ語だののオペラをむやみにありがたがり、日本語版なんざ邪道と決めつけて軽蔑する手合ってのもおりましたな。あれこそ音楽であると同時に(かつては音楽である前に)演劇であり、流行り歌の文句なんぞよりよほど言語の機能が重要な舞台芸術ではありませぬか。西洋歌劇の愛好者は悉く芝居には興味がなく、専ら音楽としてしか聴いていない、などということもあるまいに。よもや、最初の日本語オペラを作ったともいう、「言葉を大切にする」山田耕筰の信者とは敵対関係にある、なんてこともねえでしょう。

むしろそいつらって大抵いっしょなんじゃねえの? 日本語(実は東京語のごく一部)のアクセントに無理やり似せなきゃ歌メロ失格、って言い張る山田主義者ってのと、折角苦労して誰もが素直に味わえる日本語に直したオペラの歌詞を見下し、聞いたって意味なんぞ知れねえ(殆どの日本人オペラ・ファンにはね)外国語のほうをありがたがる連中って……おんなじやつらだったりして。山田耕筰のことを日本人初のオペラ作者として讃美して見せたがる方々もやはりその一派? ……いや、俺だって別に山田本人には何の意趣も、作曲家としての反感もあるわけじゃねえけどさ。

とにかく、勝手に高みに立ってエラそうなことばかり、それも漏れなく自家撞着の限りを尽して並べ立てるような連中には、常々瞋恚の念を燃やしておったわけですが(嘘です)、そうした見当外れの威張りの空疎、愚陋ぶりを、どうやら図らずも実証し得たようで(誰もそんなこた思わんでしょうが)、なんか勝ち誇りたいぐらいの気分。思いは晴るる、身は捨……てないけど、浮世の月にかかる雲なし、とでもいった心境。
 
                  

ところがどっこい、こんなに長々とアクセントについて書き連ねて来ながら、ほんとは昔からもっとずっとバカにしてることが、山田とその信者の知ったかぶりについてはございまして……。この複数回にわたる投稿も、実はその「じゃあどうしてこれは平気なんだよ」っていう事象について述べようとして始めたものだったのでした。以前の投稿で予告はしていたと思うんですが、アクセントではなく発音に関する私見(=言いがかり)です。今度こそ満を持してって感じで、いよいよ次回その「本題」に着手する予定。

自分でも軽く狂気を感じつつ、今回はこれまで。とりあえずどうもフツーではなさそうですね、あたしはやっぱり。ふ、望むところよ。

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