2018年3月23日金曜日

無声母音はどうする?(1)

アカトンボあるいはアクセント問題から、実はそれより気障りな無声母音の欠落という現象についての、またしても勝手な御託へと、ちょいと移行します。

「準」標準国語、いわゆる共通語の母体とされる東京方言(の一部)に顕著な音韻上の特徴として、最初の2つの音節は(1音節語の場合は下接語との組合せにおいて)必ずピッチが違い、「高→低」か「低→高」のいずれかしかない、ということは既に申し上げました。前者では当該語の音節数に関わりなく、2音節目で下がったピッチは二度と上がることがないのに対し、後者の場合は単語内の音節数や下接語との関係により、高いままかやがて下がるか、また下がるとすればどこでそうなるか、という区分がある……とは言え、結局は全部で4種類しかアクセントの型がない、ということも既述のとおり。

で、そうした高低のアクセントが、歌詞としてメロディーを付された場合にも保持されねばならぬとし、そうした作曲法の模範例として山田耕筰による『赤とんぼ』を称揚する者が昔から跡を絶たないものの、現実には音楽的音程と言語的高低アクセントはまったくの別物であり、かかる「理想」も所詮は宛然幻想。どう足掻いたところでそれに徹するのは無理、ということを、ほかならぬ山田自身が、ほかならぬ『赤とんぼ』の旋律によって明示しているではないか、という論考(難癖)が、前回までの主旨でございました。

しかるに、実は私がかねてより腹に据えかねております「非東京語的音韻」が、昔から歌詞の発音では何ら指弾を受けることもなく、と言うより一切指摘すらされぬまま(誰も気づいてない?)、昂然と罷り通っているのです。高低アクセントなんていう、もともと「不安定な」要因などは遥かに凌駕する、飽くまで「発音」上の齟齬です。しかもそれ、近年では発話においても、東京(およびその音韻が分布する関東東北一帯)出身者の間にさえ浸透しつつある、という憂慮すべき傾向が見られながら(勝手に嫌がってるだけですけど)、それについても言及した記述などはほぼ皆無(もちろんあたしが見かけないってだけ)。ただし、歌詞としてメロディーを施す上では敢えて無視せざるを得ない(場合が多い)という、発音上の法則であり、その分アカトンボのアクセントなんかよりはよほど厄介な問題……だったりして。

と、少々勿体つけてみましたが、何のことかと言えば、いわゆる「無声母音」、より精確には「狭母音の無声化現象」ってやつです。例の「鼻濁音」、すなわち語中のガ行音における「鼻音化現象」と同様、たかだか百年あまり前に「標準語」に擬せられた江戸・東京方言の特徴ではあるものの(やはり東日本全般に共通)、かつては「東夷の訛り」であったわけだし、本来の中心的日本語であったろう(と言えなくもない)近畿方言をも非標準語として見下したような(?)山田耕筰主義こそ、身の程を弁ぜざる僭上の極み。偉くなったものよのう……って、あれ? 普段言ってることとアベコベじゃん。どうせおいらは蝦夷の裔。江戸者でも上方者でもありゃしねえ。さながら鳥とも獣ともつかぬ卑怯なコウモリの如き身分……だったりして。すみません。
 
                  

それはおいといて、その無声母音、以前にも言及してはおりますが、ざっとご説明を。先般の投稿で触れた「既存」の正しい読み方、[キソン]の[キ]の「後半」、すなわち /ki/ における /i/ が、声帯の振動を伴わない無声音=囁き声になるという現象です。これを(本来は誤りである)[キゾン]と発音すれば、その[キ]の母音は無声化しません。つまり、[キソン]と[キゾン]では[ゾ]だけでなく[キ]の発音も異なる、ということに。

アイウエオのうち、舌と口蓋が比較的接近したのが狭(せま)母音で、イとウの2つ(イが最も狭い)。それが、カ行、サ行、タ行……といった無声の父音=頭子音(/k/, /s/,  /t/ その他)に挟まれると、それ自体も無声化、すなわち息だけの囁きに変化するという現象。「隙」と「杉」の違いは、2音節目の[キ]と[ギ]だけでなく、まずその前の[ス]にあるということなんです。規則ではなく、元来は東国訛りの特徴(の1つ)を成す法則であり、話者は通常無自覚。その点は鼻濁音もまったく同じ。

それが、これも鼻濁音と同じで、もともとそういう発音の欠けた人たちが(当然のことながら)首都東京には昔から大勢おり、それがまた人気芸能人だったりもすれば、親や周囲のおとながそうだったりもして、東京生れの子供たちも容易に影響を受け、やがてその子供も成人すると……ってな具合で、この数十年ですっかりその種の非東京発音が勢力を増すに至った、という次第かと。

この無声母音、やはり鼻濁音と同様、近世後期に実質的な知識層の共通方言となり、明治末には国家的な「標準語」の母体とされた幕末の山の手殿様言葉を経て、戦後の共通語にも継承された、江戸・東京弁の音韻法則……だった筈が、上記のとおり、昨今は東京でもそれの欠落した話者が増加の一途をたどっており、 NHK アナウンサーにも、当然無声化すべきところを有声で発音する者が、今では少なくないのです。
 
                  

鼻濁音については、もう何十年も前から「問題」とされ続けており、今や東京語に限らず、日本語全体からの消滅も遠からず、って気も致しますが、私自身は無意識のうちに鼻音化の有無が画然と分かれてしまうので、死ぬまでこのままでしょう。当然その発音が欠けた人のしゃべりにはすぐに気づくんですが、自身の「母語」にこの音韻のない人には、たぶんどこが違うのかわからんのでしょう。あ、「当然」などと申しましたが、それはことによると自分が外国語などをやったからで、東京方言の母語話者でも気づかない人は結構いるようです。

丸谷才一(山形出身)の70年代初期の小説の一節に、今どきの東京の若い女にしてはちゃんと鼻濁音が発音できるのに、「スッゴイ」というときの「ゴ」だけは例外、てなくだりがあったと記憶します。読んだのが30年以上前なので、うろ覚えではありますが、その頃の「今どきの女の子」も、今ではとっくに六十過ぎということに。もはや鼻濁音の欠落など、「今どきの若い者は……」というような嗟嘆の対象ではなくなって久しい、ってことで。

鼻濁音を欠く俚言は、曖昧アクセント同様、九州に広く見られるとのことですが、確かに福岡出身の松田聖子や浜崎あゆみなどの歌を聴いていると、しばしばそれが耳につきます。長崎出身の福山雅治も同様で、試しに『桜坂』という歌を聴いてみると、なぜか最初に出てくるガ行音、〈君がいた〉の「が」だけは普通に鼻音化しているのに、その後はほぼ全滅で(ったってあんまり出てこないんだけど)、〈無邪気すた〉〈君だけ〉のボールド箇所は鼻を使わない有声軟口蓋破裂音(つまりただのガ行音)になっているという具合。その後の〈あこがれを〉の「が」もちょいと微妙です。

今さら驚きゃしませんし、さして不快でもありませんけど、それはこの数十年、この訛りがテレビなどで日常的に垂れ流された結果、自分もすっかり麻痺してしまったということなのかも知れません。かつては芸能人、それも普段「標準語」で話していることになっている者であれば、こうした訛りが矯正されていないと、業界のベテランたち(出身地は多様)から容赦なく指摘を受けたようです。実際、福岡出身の中尾ミエや、同じく鼻濁音を欠くとされる熊本出身の水前寺清子などは、鼻音化すべきガ行音はひとつも過たずに正しく歌っているし、普段のしゃべりや芝居の台詞でもそこには一分の隙もなし、って感じ。

それが昨今では、歌手どころか役者までが平気でこれを無視、と言うよりまったくその認識を欠いていたりするんですよね。歌でも鼻濁音の欠落が目立つ武田鉄矢が、なんと江戸っ子の勝海舟を演じていたりもしましたが、やはりところどころ福岡的な音韻が耳につき、本人は自分の「江戸弁」に酔っているかの如く自信たっぷりにしゃべってんだけど、聞いてるこっちは興ざめの極み。その番組ではさっきの福山が主人公の坂本龍馬をやってたんですが、やはり鼻濁音はほぼ欠けておりました。
 
                  

因みにその龍馬の土佐弁(司馬遼の小説で定着した演出だけど、本人がほんとにいつまでも訛ってたかどうかは不明)、高知方言では、鼻濁音の古形というのか前段階というのか、ガ行音の /ɡ/ の前に鼻音 /ŋ/ を付した /ŋɡ/ という発音が特徴とされる、とのことですけど、この /ŋɡ/ の後半、 /ɡ/ が欠落し、例えば助詞の「が」を /ŋa/ と発音するのが(旧来の)東国訛りで、それがつまりは鼻濁音の出自。対して、前半の /ŋ/ が欠けて /ɡa/ となるのが九州(その他)であり、オリジナルの /ŋɡa/ を残すのが四国訛り、といったところでしょうか。相当に大雑把ですが。

微妙なのが近畿や中部で、京阪にも東日本と同じ鼻濁音はあるものの、それが東の方言と同じ音韻条件下で必ず生じるわけではなく、伝統的東京弁や東北弁では例外なく鼻音の /ŋ/ となる語が(ただし後者では、頻繁に無声子音が有声で発音され、言わばその煽りで、鼻濁音たるべきガ行音も鼻音化を逸する場合が多く、そういうのはもちろん別儀)、鼻音を伴わない /ɡ/ だったりする……らしいんですよね。京都では東京よりも急速に若年層から消えつつあるということなので、単に世代による違いかも知れんのですが。てことは東京と事情は同じか。

ことによると、今の近畿方言における鼻濁音、すなわち江戸弁的な /ŋa/ だの /ŋe/ だの /ŋo/ だのって発音は、南北朝の騒乱に乗じて(あるいは必要に迫られてよんどころなく)京都に本拠を置くことにした足利政権がもたらしたもので、それまでは関東の訛りであったろう鼻濁音が移入された結果だったりして。わかんないけど。

今では歴史と伝統の卸し元の如き京の都ではありますが、そもそも今日の京都方言は江戸後期以降のものだと言うし(まあ江戸弁もそんなもんですけど)、千年の都ってことは、それこそ後の江戸・東京と同様、常時諸国から雑多な人間が流入し続けていたのみならず、支配者の交代に伴ってその風俗、言語も目まぐるしく変遷を繰り返していたであろうとは思われます(英語でもロンドン辺りの方言が最も激しく変化してます)。古都として完全に落ち着いちゃったのは結構明治以後だったりして。やっぱりわかんないけど。
 
                  

休題閑話。そんなことはさておき、この鼻濁音、昨今はむしろ、本来鼻音化しないものまで鼻濁音にしてしまうという過剰訂正のほうが、私には耳障りだったりもします。「語頭以外では」というのは、飽くまで単語内における法則であり、「小学校」や「大学」(決して「小さな+学校」や「大きな+学」ではなく、いずれも純然たる単語)とは異なり、「高等学校」の場合は、「学校」という単語に「高等」という別語が冠されているだけであり、単語として完全に熟しているとは見なされず、したがって下接語たる「学校」の[ガ]は語頭音として扱われ、鼻音化しないのが普通……と言うか、普通でした。

尤も、こうした複合語を、別語の連なりと見るか、全体を単語と見るかは、文法規則ではなく各人の主観によるものなので、後者の判断を(無意識に)する人は、東京でも昔から鼻音化してはいたのですが、 NHK では比較的近年まで非鼻濁音で統一していた筈です。今でも年輩のアナウンサーはそのままですが、とにかく「語中」のガ行音は悉く鼻音化、という例が目立つようになってきました。「高等学校」をそのように発音されると少々違和感を覚えるのですが、数年前までは NHK の放送を聴いていてそのように感じたことはなかったので、やはり近年の傾向だと思われます。

NHK がこれについて、もともと鼻濁音のない地域の出身者にとっては無意識の使い分けなど不可能なため、語頭以外はすべて鼻音という簡便な基準を容認するに至った、とも思われますが、単に職員全般の世代交代により、元来の法則を弁えぬ者が指導的立場に任ずるようになった、というのが実情かも知れませんね。
 
                  

ついまた、今回の主旨には非ざる鼻濁音の話に流されてしまいましたが、本題は無声母音であったわい。結局こうした無駄話(全部だけど)は止められず、毎度のことながら無駄に長くなっちゃいましたので、またもここで一区切り。続きは極力遠からず。

それではひとまずこれにて。

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