2018年3月22日木曜日

東京語の音韻その他について(4)

共通語あるいは東京語の音韻についての雑駁な所感をまとめた一文をものしようと思いつつ、書き始めたら一文どころか3つも掲げることになってしまい、あまつさえ(半ば以上予期したとおり)余談ばかりでついに本題には至らず、てな仕儀とは相成り候、って感じですが、ま、所詮そういうやつだったってことで。性格は病気に非ざれば治る気遣いとてさらになく。

こうして毎回弁解を繰り返さねばならぬというのも確かに厄介ではありますものの、そのときどきに思い至ったことをそぞろに書き連ねる愉楽は捨つるに忍びず、結句やめられませんので、そこは何分どうぞ。

                  

え、さて、前回までの主旨(所期の本旨からは逸脱しどおし)は、かつて標準的国語の唱導者を自任していた(のかしら?)NHKが、今どきはその標準語に代る共通語すら軽視し、あまりにも恣意的にして場当り的な音韻による放送を垂れ流してやがる、っていう苦言(難癖)でした。そうした雑言の類いはもう控えて然るべきかとも(多少は)思いながら、やっぱ気に入らねえもんは気に入らねえってことで、今しばらくNHKを難詰しとこうかと。あっちはどのみち痛くも痒くもなかろうし、別に構わんでしょう。

アクセントの混迷ばかりではなく、発音や語彙、語法についても、以前からNHKの言語的破格には時折不快を覚えてはいたんですが、戦後数十年の間に緩やかな変遷を経てきた共通語≒東京語を基盤に放送事業を行ってきた筈のNHKが、何ゆえ今になって独善的かつ性急なる改変を為そうとするのでありましょう。もとよりこちらには知る由もありませんけれど、それ以前から結構いいかげんだなあと思うことはしばしばございましたのよ。民放よりよほど信頼に足る、と思い込んでる人は未だに多いようですが、実状はまったくさに非ず。

「~ている」、「~んでいる」と言うべきを「~てる」、「~んでる」とするニュースリーダーも少なからず、再三そう言ってるってことは、原稿自体がそうなってるってことで、思わず「俺がいつおめえの友達んなったい?」って言いたくなります。語法の緩怠はこれだけではないんですが、それより気に障るのはやはり音韻上の不用意。

遥か以前から、鼻濁音の有無を論うのが、言わば国語の音韻問題における人気の主題。徐々に日本語全体から失われつつあるとも言われますが、もともとが東国の訛りだったとも。かつての都の言葉が本来の標準的日本語だとすれば、元の模範に収斂されるってことで、それならそれでいいのかもね。尤も、近畿方言はとっくに標準からは程遠い存在だし、都会であればあるほど言葉の変化が激しいのは、(洋の)東西を問わず古来の法則。

いずれにしろ俺は死ぬまで勝手に鼻濁音はやめねえつもり。やめるもやめねえも、いちいち気にして言い分けてるわけじゃねえし、無意識のうちにそうなっちゃうんだからハナからどうしようもない。

でも初めからそういう発音のない西日本の一部(京阪はそうでもありませんね。あるいは中世、足利一味なんかが鼻濁音をもたらしたとか?)の出身者がアナウンサーを目指すと、最大の難関がそれなんだそうで、何せ本人たちには鼻音か否かの聞き分けさえ難しいんだとか。こちらにはまったくその感覚がわかりませんが、それはお互いさまか。
 
                  

でもあたしが気に障るのは、それとは逆の、ほんとは必要もないのに鼻音にしちゃうという誤謬。いわゆる ’hypercorrection’、 「過剰訂正」ってやつ。たとえば、「小学校」、「中学校」、「大学」、おまけに「女学校」における「学」の「ガ」は、すべて鼻音化するのが東京発音。東京ってより、関東東北例外なくそうでしょう。いずれも古代においては東夷、あずまえびすの棲息地。

しかるに、それはこれらの例がみな単語だからであり、「高等学校」だの「音楽学校」だのの場合は、「学校」に「高等」だの「音楽」だのという別語が冠されているだけなので、純然たる一語ではなく、そういう場合は下接語である「学校」の「ガ」は、単語としての発音が保持され、鼻濁音とはならないのが基本なんです。

ただし、そうした例を2語の連続と見るか、既に単語化したものと見るかは、各人の勝手なので、東京人でもこの「ガ」を鼻音にしちゃう人は昔からいます。それでも基本はやはりコート―+ガッコー、オンガク+ガッコ―。後者は上接語の「音楽」の「楽」が否応なく鼻濁音ってところが、東国人たる自分には無意識的、自動的ではあっても、そうした音韻のない地方の人たちにはこの峻別が相当に厄介だってんですよね。やっぱりどんな感じなのか、なかなか想像できませんけど。

で、何に文句言ってんのかと言えば、恐らく厳しい(?)訓練の末、漸く習得した鼻濁音を、いったいどういう音韻環境で用うべきかを把握せざるまま、とにかく語中のガ行音は鼻音にしときゃいいだろうとの安直な判断で、この「高等学校」や「音楽学校」までそれでやっちゃってる、ってことなんじゃないかと。いや、それだって別に非標準、非共通語的発音ってこともないんでしょうけど、以前のNHK(および民放各社)の放送要員は、例外なく非鼻濁音で発音してましたぜ。でなければこっちは即座に違和を感じ、「ちょっと聞き苦しいじゃねえか」と思った筈。

頻繁にヤだなあと思うようになったのはここ数年のことであり、以前はまったく感じたことがありませんでしたから、たぶんかつてのアナウンサー(や声優)たちは皆、鼻音化すべきか否かの基準をちゃんと心得ていたのではないかと推量致す次第。基準も何も、関東東北出身者であれば無自覚にそうなっちゃうだけの話で、どこが違うのかわからない、って人も多いのは知ってます。既述のとおり、そこは西日本訛りの人ともお互いさま。トーシロならそれで何も構うこたないんですけど、全国放送、それも東京渋谷からそれやっちゃあダメなんじゃねえの、って感じ。またぞろ大きなお世話。
 
                  

と言うか、またしても枝葉部分に停滞したまま既に随分長くなってしまいました。どのみちこうした放恣漫然からは逃れるよすがとてなく、「所感をまとめる」も何もあったもんじゃなくなっちゃってますけど、何卒ご寛恕を賜りますよう……って、そればっかり。

ほんとはこの鼻濁音の有無なんかより、無声母音の欠落ってほうが、あたしにはよっぽど耳障り……ってのが当初の主旨だったのですが(勝手な言い分とは百も承知)、それについてはまた改めて垂れ流すことに致します。これ、何のことかと言うと、イ段・ウ段のいわゆる狭(せま)母音(口の開きではなく、舌と口蓋との距離の問題)が、条件次第で自動的に無声(囁き声)になる、ってやつなんですが、ものの見事にそれの欠落した発音が、一般の東京在住者のみならず、放送担当員の間でも急増しつつあるんですよね。またしてもNHKがその筆頭。これまではやはり西日本に特徴的な現象だった筈なんですが、鼻濁音同様、京阪では必ずしもそうじゃないようで。

……てなことについて書き散らす所存にございます。鼻濁音以上に「どこが違うのよ」ってお人は多いものと思われるのみならず、かつての標準語至上主義者にして、「正しいアクセントに違背するメロディーは容赦なく切り捨て御免」という高邁なる思想に殉じた山田耕筰(本郷生れ)だの藤山一郎(日本橋生れ……なんだ、下町じゃねえか)だのでさえ、この無声母音には無頓着だったのはちょいと笑えるじゃねえか、てな戯言に耽るのが実は本懐だったりして。ほんとは今回それやろうと思ってたんだけど、なんせまた長くなっちゃったもんで。自業自得たあこのことか。

ただ今のところはこの辺で。

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