2018年3月22日木曜日

東京語の音韻その他について(5)

前回の続きではないんですが、日本語の音韻について多少関わりのある話をひとくさり。

先日ラジオを聴いていて少々感心したことがありまして。DJの南波志帆という人物、まだ23歳の女性とのことながら〔2016年10月現在〕、「既存」を正しく[キソン]と発音していたのですよ。いや、23歳なんて立派な大人だし、本来なら特段感心するようなことでもないのだけれど、いつのまにか[キゾン]という誤読が蔓延し、今では本来のほうがすっかり少数派となってしまっていますので。

これ、理屈としては、字音の不統一となるからダメ、ってことなんでしょう。「既」には漢音しかなく、したがって続く「存」も呉音の「ゾン」ではなく須く漢音「ソン」たるべし、みたいな。でもそれ言い出したら、例えば「依存」も「イゾン」は誤りで、いつの間にかそればっかりになってるNHK式に「イソン」とせねばならん、ということになりそう。呉音で統一すれば「エゾン」の筈だけど、誰がそんな言い方するかよ。

「異存」なら「異」は漢音・呉音共通だから、こっちこそ「イゾン」でも「イソン」でもよさそうなものなのに、これをイソンって言ったら話が通じません。「依存」は昔から「イソン」とも「イゾン」とも呼び習わしてるんだから、「既存」が「キゾン」だって構わぬではないか、というのもまた理屈。単純にかつてはこれをそう読む習慣がなかったってだけでしょう。てえより、もともと文語なんだから、あんまり口頭で用うべき言葉に非ざるを、どういうわけか本来の読み方を知らぬまま、ここ20年かそこらの間にやたら口にしたがる人たちが増えちゃったってのが実情。

俺はやっぱり嫌だな、未だに。自分じゃ[キソン]としか言わねえ。てえか、書くならともかく、あんまりしゃべるときには使わねえ。「今ある」とか「これまでの」とか、基本的には和語のほうが話し言葉としては本筋なんじゃないかと(そう言いながら字音語ばっかり使ってっけど、これはしゃべってんじゃなくて書いてますから、一応)。多少勿体つけたいときだって、「在来の」とか「従前の」とか「現行の」とか、あるいは「前出の」、「前掲の」など、状況に応じてむしろもっと詳密な表現がいくらでも使えるではないか、ってね。まあいいんだけどさ。

因みに「依存」は「遺存」とともに、国語辞典の見出し語には何十年も前からイソン・イゾンの両方が漏れなく示されているのに対し、「既存」のほうは今でもキソンしか認められていない模様。岩波国語辞典の最新版(初刷は2009年)でも、キゾンなんざ鼻もひっかけちゃおりやせん。それがもう、現実にはそのずっと前から、ない筈の読み方のほうが大威張り。ワープロソフトの辞書でも必ず「キゾン→既存」と変換されるようになってるのは、そう読むもんだと思い込んでる人が昔から多かったからなんでしょう。それでますます誤読のほうが増長しちまったってこって。

誤用、誤読の慣用化がいずれの言語においても世の習いとは言え、これほど急速に広まったのは、やっぱり現代ならではってことでしょうか。ほんとなら正しい言い方をこそ唱導すべきマスコミによる影響も小さからず、って気がします。英語でも似たような状況は増加の一途をたどってるような塩梅なんですが、識字率の向上は誤用の蔓延と表裏一体ってことかも。俺も相変らず言うことがいちいちエラそうなことよ。
 
                  

まあいいか。ことのついでにあたしの勝手な考察(決めつけ)を付言すると、[キソン]なら/k/と/s/という無声父音(フツーは子音って言うんですけど、それだと「キ」だの「ソ」だのと区別がつかんもんで)に挟まれた狭母音/i/(ああ、これは「イ」でいいのか)がつられて無声化し、つまり発音の負担が減るからその分言うのが楽。一方[イゾン]の場合は、[イ]という母音は有声、すなわち声帯の振動が不可避であるから(全部の音が囁き声ってこともありますが)、続く「存」の字も有声にして何ら差し支えない。ハナからどう言おうと差し支えなどありゃしませんが。

こんな些細な違いで負担だの楽だのって言ってるこの俺のことを、亡母はよく「そんなにものぐさでいったいどうなるんだろう、この子は」って嘆いておったものですが、どうやらその心配は的中したようで。

休題閑話。でもこれ、屁理屈としても弱いのは、あたし自身が「寄贈」だの「毅然」だの、あるいは「気障」だのって、別に何の負担を感じることもなく平気で発音してるってところ。だいいち、無声母音なんてのは、ざっと日本人の半分(かどうかは知らねど)しか日常的には発音してないんだし。妙な理屈をこねるのも大概にせい、って感じですね。
 
                  

という次第にて、「既存」は今のところまだ[キソン]と読むのが正しいということにはなっているようです。早晩「それってキゾンのこと?」って訊き返される日もやって来そうな気配は致しますけれど。ひょっとして「存在」もゾンザイになる? ああ、「在」は漢音が「サイ」で、「ザイ」ってのは日本オリジナルの「慣用音」たる由。ますますどうでもよござんした。

ところが、と言うべきか、この「既存」とは逆に、昔から常用されていて決して間違いではない言い方を「正して」くれる親切な人ってのがときどきいるんですよ。それも、自身は平気でキゾンキゾンって言ってやがったりするもんだから、こっちゃあもうウンザリ。

先述の「依存」もそうですね。それこそNHKがある時期から「正しい」ほうのイソンで統一したからかもかも知れませんが(関係ないか)、英文法の教科書なんかが昔から「正しい表現(それ自体がしばしば間違ってたりして)以外は皆間違い」という、実に安直な発想による、それこそが大間違いっていう記述に満ちているのと同様、「イソン」が正しいなら「イゾン」は誤り、なんてほうがよほど誤り。

似た例に「重複」ってのもありますな。[ジューフク]などと言おうものなら、待ってましたとばかりに「[チョーフク]でしょ!」って指摘してくださります。平気で「キゾン」って言ってる人がですよ。
 
                  

でもこれに比べれば、字音の一貫性から言って「イゾン」ではなく「イソン」を是とするほうが穏当とは申せましょう。「存」に対する「ゾン」という音は、既述のとおり呉音なので、「依」の漢音「イ」とは不統一。でもやっぱり「イゾン」も古くからの慣用であり、何ら誤りには非ず、ってことも先述のとおり。

しかるに「重」に対するジュウ(ジュー)という読み方はまたぞろ慣用音であって呉音ではないので、漢音「複」との字音の不統一を根拠にケチをつけるなんざちょいと了見が狭過ぎ。てえか、これも昔から普通に[ジューフク]って言ってんじゃん。「キゾン」たあ大違い。
 
                  

それでもまだこの「重複」でさえかわいいもんだったんでした。もっとウンザリなのが「早急」ってやつ。いつの間にか、これを[ソーキュー]って言うのは間違いで、[サッキュー]と読まねば許すまじ、ってな風潮になってますけど(たまたま俺がそういう目に遭うことが多いってだけかしら)、どっちかってえと、これは[ソー]のほうがよほど正統。漢音が「サウ」(現代表記では「ソウ」)で、「サッ」ってのは慣用に過ぎず、どう足掻いたって「サッキュウ」が「ソウキュウ」よりエラいなんてこたないんです。でもまあ「早速」は[サッソク]としか言わず、[ソーソク]じゃあなんだかわかりませんけどね。

この「早急」は例外ですが、大抵この手の二者択一問題(?)ってのは、「フツ相通」と呼ばれる現象の所産でして、そりゃいったい何かと言いますと……こりゃちょっと困ったな。かなり厄介な話だったりして。でもここまで来たらどうしても言っときたくなっちゃったので、次回はその話を。

山田耕筰と藤山一郎の高慢、と言うより、よくわかりもしねえでその言説を受売りする輩を嗤ってやる予定だったのに……

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