さて、前回までは、いくらアクセントに拘ったところで、無声母音という、東京語には不可欠の発音がなくなっちゃうのはどうしようもねえじゃねえか、っていう難癖が眼目だったわけですが、実はそれ、必ずしも歌メロなら全部諦めなきゃならないってこともないんですよね。って、相変らず肝心なことを後から引っ張り出してくるという遅延技法(?)。まあそこはどうぞお許しくだされたく。
『赤とんぼ』だの『浜辺の歌』だのは、さんざん「間延びしてる」などと言ってバカにしてますけど、そういう間延び部分が多いのも、むしろメロディーとしては言わば素直な証拠であろうと(勝手に)思ってたりもします。「言葉を大切に」するあまり旧弊なアクセントに拘りながら、狭(せま)母音の無声化はまったく無視っていう、山田耕筰(だの成田為三だの)の作曲法は、あるいは言葉と同時に(ほんとは言葉以上に)音楽を重んずる作曲家としての矜持によるもの、つまりメロディーの構成音はピッチが判然としなければ無用、っていう意識(無意識?)によるものだったりして(?)。「アクセント」とは違って、そういう「発音」上の伝統、と言うより法則には単純に無頓着……と言うより認識自体が微塵もなかったんだとは思いますけれど。
因みに、秋田出身の成田の母語にも、無声母音が欠けるってこたない筈ですから、〈あした浜辺を〉の[シ]の母音が有声になっているのは純然たる音楽的事情によるものであるは確実でしょう。訛るとしたら、西方の俚言とは異なり無声化はするけれど、[イ]の筈が[ウ]の如く変じ、ついでに父音も[シ]ではなく[ス]のそれ、すなわち/ɕ/ではなく/s/のようになっちゃうに違いありません。単純にこれ、[ア‐ス(無声)‐↑タ]って感じ。どのみち無声音なのでピッチは消滅するものの(メロディーを成すに足る明確な高さが聴き取れないってことですが)、東京アクセントとは違って、恐らく意識の上ではこの[ア]と無声の[ス]は同じ高さであり、上がるのは3音節目の[タ]なんじゃないかしらと。これは類似の訛りであろうあたし自身の青森語の感覚なんですがね。
おっと、早速またも逃避、じゃなくて逸脱の深みに足を取られそうになっちまった。とにかく、こうした決然たる(無自覚的?)無声音の排除は、歌メロとは言え、あるいはだからこそ、素朴にして明快な旋律でなければならぬ、というかつての作法または規範(または因襲)の為せる業かも、って思ったんでした。ピッチのない無声音はメロディーの部品としてはまったく役立たずである、ってことで。
でもそれ、結構昔の歌ならではって気はするんですよね。こういう無声母音を含む歌詞については、むしろ今どきの(昭和後期以降の?)「チャラい」部類、それこそ古き良き時代の日本歌曲を模範とするような因循姑息の徒輩、じゃねえや、戦前からの伝統を重んじる「大人な」人たち(今でもいるんですかね)からは軽薄の誹りを受けそうな、ポップ歌謡、フォーク、ニューミュージック、ロック(?)その他(「ヘビ」メタも「軽」音楽ってのが笑える)のほうがよほど何とかなってる場合が多いんです。
今じゃもうそこまで野暮な伝統主義者ってのも珍しいだろうし、なにしろ戦後生れの「現代っ子」が既に七十過ぎだったりするんですから、とっくにその世代の歌がチャラいってこともないでしょうけれど、山田や成田の童謡や唱歌に限らず、往年の昭和歌謡では敢えて無視されることの多かったこの無声母音、もちろん歌手自身の訛りや癖にも左右されるとは申せ、いつの間にか可能な限りは無声のままで歌われる例が普通になっていたのでした。
当該の音節(記譜上はつまり音符ってことに)が充分に短く、また前後の音節との関係でその高さが無意識に特定し得る状況(錯覚なんですけどね)では、今どきの「軽薄な」歌のほうがよっぽど話すときの東京語に沿った発音になってるってこってす。昔の歌には、そんなに短い(ときに瞬間的な)音符、と言うか音節は出てこなかった、ってことなんでしょう。そうとは限らないような気もしますけれど。
これはあたし個人の勝手な事情ではありますが、実際の英語がいかなるものかを理解するまでは、母語たる日本語も自分が普段どう発音しているか明確には意識できなかった(特に考えたこともなかった)とは申せ、鼻濁音だの無声母音だのが欠けた発音をテレビやラジオで耳にするたびに、理屈はわからぬまま子供の頃から違和感は抱いておったのでした。歌の場合は発話におけるほど無声母音の欠落が気にならなかったのは、やはりメロディーである以上、音の高さは本来必須だから、ってことではないかと。
藤山一郎が歌うのを拒否したという『蛍の光』だって、[ホタル]や[ヒカリ]のアクセントを云々する前に、まず「光」における[カ]の前の[ヒ]の母音が、まさに『赤とんぼ』の〈いつの日か〉と同様、どうしようもなく有声になっていることこそ、よっぽど東京語の発音としてはあり得べからざるところなのに、当の藤山もそこはまったく気にならなかったようだし、あたしも含め、日本人の多く(すべて?)が、そんなところにいちいち違和を感じたりはしないもんでしょう。だから、何度も繰り返すとおり、「赤とんぼ」だの「蛍」だののアクセントと歌メロが合う合わないなどは実につまらぬ拘りであり、その無益な拘りを歎称するが如き「無学な衒学趣味」には軽侮を禁じ得ない、って気持ちにもなろうってもんじゃありませんか。
ところが、これらの「正統的な」(=古臭い?)歌曲では見事に没却されているこの無声母音、自分が幼児期から慣れ親しんでいる「今どきの」流行歌では、ちゃんと無声のまま歌われていることが多いばかりか、そういう無声音節の歌唱が可能な場合、つまりごく短い音符を当てられた無声音の場合は、むしろそれを有声にされると途端に「うるさい」感じになっちゃうんですよね。これもまた、いちいちうるさいなんて感じるあたしのほうが、世間の基準からは外れているのかも知れませんし、その自分だって、充分に「間延び」したメロディーであれば、無声母音が有声になってたって何らの痛痒をも覚えず。それはやっぱり、そうしなきゃそもそもメロディーになり得ないから、ってことなんでしょう。
この「うるさい」感じってのが何に起因するのかを明瞭に認識したのは、やはり英語という、日本語とは音韻体系を根柢から異にする外国語を習得した後のことで、英国から戻った年の暮に流行り出したオフコースの『さよなら』って曲を、そのオフコースのファンだという同年輩の女性が歌ってんのを聞いたときなのでした。
神奈川出身の小田和正(2017年で既に古希)は、この歌に限らず、隙あらば発話上の無声母音はそのまま無声で歌うという、むしろ山田だの藤山だのにこそ見習わせたいような「言葉を大切に」した仕口。本人は無意識のまま自然にそうなっちゃうんでしょうし、アクセント云々って御託を並べられたら、「それはどうも」とでも言っとくしかなさそうではありますが。それでもあたしに言わせりゃ、「そんな些事はメロディー優先につき敢えて閑却」ってほうが、音楽的にはむしろ極めて正しい了見、ってことんなるてえ次第。
さてこれ、問題はサビに出てくる〈愛したのはたしかに君だけ〉って文句の2つの「し」でして、小田氏の発音ではそれ、2つとも発話時とまったく同じ完全な無声音になってんです。『浜辺の歌』とはまさに対極。それを、やはり西日本(中国地方だったかと)出身者だったその彼女、ものの見事にどっちも有声で歌ってたんですよ。[キチロー]の[キ]と同工の居心地悪さ。
これが、〈あ~し~~~たぁは~~~まぁべ~~~ぇ~を~~~〉のように、充分「間延び」してるなら何ら「うるさい」なんて思やしないんですが、そもそも小田がどうしてその2つの[シ]を無声のまま歌うことができたか(と言うより無意識に無声化しちゃったか)と言えば、それはまずそれらが比較的短い音だからであり(4/4拍子とすれば16分音符で、この曲のテンポ――アンダンテの範囲?――だと0.2秒足らず? まあ長短の感覚は、絶対時間よりも個々の事例における相対的なもんだとは思いますが)、かつ前後の音節、すなわち[イ]と[タ]、[タ]と[カ]が有声で(長さはいずれも同じく16分)、無声で歌われる[シ]がそれぞれの前にある[イ]や[タ]と同じ高さであろうと錯覚させる音楽的な「文脈」の故、ってなところではないかと。
つまり、歌ってる本人もそうだろうけど、聴いてるほうも無意識のうちに、ほんとは高さの判然としないこの2つの[シ]を、勝手にその直前(この例の場合はってことで、状況によっては直後または前後両方)と同じ高さに違いないと思い込んじゃうというカラクリ。しゃべるときには、東京弁なら必然的かつ自然に無声とならざるを得んのです。それを件の彼女、2つともわざわざ有声母音の[イ]を「込めて」歌ってたんですよ。それ聞いた瞬間、あんた、そりゃなかろうぜ、って思ったのでした。相変らず大きなお世話ではありますが。
当然ながら、オフコースのオリジナルで無声母音のまま歌われるのはサビのこの部分だけではありませず、これまた当然と言うべきか、メロディーの構成要素として曖昧に過ぎるような場合は、さすがの小田氏とて通例どおり(?)、恐らくはこれも無意識のまま、無声化はせず有声で歌っております。〈抱きしめたく〉〈ひとりにして〉〈そう話したね〉 〈好きだった〉のボールド箇所がそれ。
(抱きしめたく〉の[キ]は直後の[シ]と同じ高さではあるものの、結構長いんです、この音節(音符)。その前の[ダ]と同じく、さっきの「愛したのは」だの「たしかに」の[シ]の2倍の長さ、つまり8分(♪)という次第。今度は0.3秒あまり? 0.4秒足らず? 〈話したね〉の[シ]や〈好きだった〉の[ス]も、長さは同じながら、前や後ろの音節とは高さが違うため、無声化するのはより苦しかろうてえ理屈。
これに対し〈ひとりにして〉の[シ]は、長さが半分の16分、つまりサビの2つの[シ]と同じではあるものの、前後の音節[ニ]と[テ]より高く、無声のままではメロディーの動きがわからない、ってことで有声にしたのではないか、とも睨んどります。手前の〈ひとりに〉の[ヒ]は、短いだけでなく、後続音節の[ト]と同じ高さなので、これは遠慮なく無声化の対象……という具合で、何気なくかなり規則的ではあるんですね、小田式歌唱法。
とは思ったものの、この〈ひとりにして〉の[シ]は、無声のままにしちゃっても、音楽的な文脈による「錯覚」の効用でメロディーは損なわれずに済みそうな気はするし、やはりこうした短い無声音節を有声にしたのでは多少煩わしく聴こえるのでは……と思うと全然そうじゃないんですね。
これ、他の3例、つまり充分に長いからこそ有声にしても平気、ってより無声でやるには無理がある音節の半分たる16分より、実はもっと短く発音されてんでした。敢えて確かめようとして聴かなけりゃ、まったく気づくこともなかったでしょう。
8分だの16分だのってのは、音符を当てればってだけのことであって、実際の発音時間(主に母音の持続時間)は概ねそれより短めなんですよね。発話においても、父音(頭子音)とまったく同時に母音が発せられるなんてことはあり得ない上(その時間差を聴き取れる人がいるとも思われませず)、この〈ひとりにして〉の[シ]においては、その一瞬遅れて発せられた母音が、今度は早めに切り上げられて、結果的に有声部分の発声時間はかなり短いものとなってるって寸法。本来なら無声であることをそれとなく示そうとの無意識の欲求によるものではないかと(?)。
それにより、まったくの無声では消失するピッチも聴取可能となる一方、そのピッチを示す有声母音は、素早く引っ込めるという隠し技によってほんの一瞬だけ発せられることになり、本来無声たるべきものが有声にされた故の「うるささ」をも回避し得るという、まさに絶妙の処理。それもまた無意識ではありましょうが、どうやらこの小田氏、無声母音がその条件を満たさぬまま有声で発音されることには、本人も気づかぬまま、相当な抵抗感を抱いている人物なのではないか、とさえ思われてきます。この人だけじゃないでしょうけれど。
さて、この狭母音[イ]を「早めに切り上げる」小田手法、実際には次の音節[テ]の父音たる/t/の前半に当る無音部分を、言わば先取りしてんですよね。……ってのもよくわからない言い方だとは承知致しておりますが、破裂音であるタ行の父音/t/には、まずその破裂の前段階として「閉鎖」が生じなければならず、その閉鎖状態、すなわち舌端と歯茎との密着による一瞬の無音状態を、とりあえず安直に「前半」とは申し上げたる次第。
発話においては、その閉鎖無音状態を1音節分維持するのが、タ行だのカ行だのの破裂父音に連なる「っ」、すなわち促音ってやつの正体でして、破裂音、および破裂の直後に摩擦が連なる破擦音の前の促音ってのは、実は単なる無音なんでした。同じ促音でも、摩擦音たるサ行の子音(父音+母音ってことで)の場合は、閉鎖、無音ではなく、母音の発声を1音節分保留して、父音の摩擦だけでその1音節を埋めるってやり口。
……と、またも逸脱しかかっちゃった。小田唱法に話を戻しましょう。〈ひとりにして〉の[シ]は、まさにその破裂音たる次の[テ]の父音を、記譜上は16分音符となる(であろう)当の「し」の後半に食い込ませ、それによって通常の東京発音では「なんかうるせえな」と思われがちな(俺が勝手に思ってるだけ?)、無声母音の有声化(無声化の欠落ってほうが正しいか)に付随する副作用を大幅に軽減することに成功しているという事例なのでした。その耳障りな(飽くまでおいらの勝手)有声狭母音[イ]を極力切り詰めることにより(32分音符前後相当?)、無声化の欠如とピッチの消失という、二律背反的、つまりは「どっちを取るか」っていう葛藤を一挙に解消、みたいな。やっぱり誰一人そんなこと言わない(考えない)とは思いますけど。もちろん小田氏本人も。
同様の処理は、次の無声父音が摩擦音(サ行とかシャ行とか)の場合にも躊躇なく用いられているのではありますまいか(わかんないけど)。そのような例では、「切り詰めた」狭母音の後半部分が、無音ではなく無声父音のみとなり、母音、ってより何らかの有声音の生起は次の音符まで持越しとなり、それまでは一切発せられない、という具合でして。……相変らずとんと要領を得ませんが。音を言葉で表す空しさよ、ってなところですな。
とにかく、日本語の歌詞の場合、音節1つにつき音符1個という表示法は英語の歌と同じながら、東京語、標準国語には「無声音節」という、英語においては撞着語法としかならないようなものが否応なく顔を出し、かつ、上述の如く、1つの音符で示される1音節内に、有声部分と無声または無音の部分が併存するなんてこともある、ってことなんですが、やっぱりそんなこた誰も言っちゃいねえか。俺も今気がついた。いずれにしろ、こういう実状を音符で示すことは不可能であり、同時に、当の歌手本人も含め、母語話者たる日本人の誰一人(あたしのようなよっぽどズレた者以外は)、生涯そんなことには無頓着。外国人の日本語音声学者のほうがよっぽどわかってたりして。
メロディーを付された場合の無声化狭母音についての論考(与太話)の一環として持ち出しただけだった小田和正の歌い方も、話が何やら佳境に差し掛かって参ったようで、今暫く続きそうな気配も感ぜられますれば、再び一旦ここで区切ることと致します。
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