2018年3月27日火曜日

無声母音と歌メロ(4)

さて、漸く本来の主旨たる「歌メロにおける無声母音問題」に早速とりかかろうと思います。当初からその話がしたくて書き始めたのでしたが、やっとのことでそこにたどり着いたという心地。おっと、漸く片足の先を踏み入れた程度で、まだたどり着いたなどとは到底言い難いところではありますが。
 
                  

余計な言いわけは切り上げ、本題に入ると致しやしょう。まずは既にたびたび言及しております、「言葉を大切に」して伝統的東京アクセントに沿ったメロディーを付した(と言い張る)山田耕筰の『赤とんぼ』、その一番の歌詞の末尾、〈日か〉の「日」、すなわち[ヒ]が、後続の[カ]の前では自動的に母音の無声化を生じ、発話においてはピッチの高低が判別不能の「囁き」にならずにはいられないのが「正しい」東京発音なるに、アクセントの高低には無益極まる拘りを誇る山田先生、この「日」が決然たる有声音で、しかもちょいと間延びした歌メロになっちゃってるってことについてはとんと無頓着、ってことに対する義憤、じゃねえや、冷笑(てえか言いがかり)というのが、実はこの1年あまり言いそびれていた与太話の眼目だったのでした。……って、相変らず文が長くて恐縮。一種の貧乏性が発現したるものと思召されたし。

さてこの無声母音の無視という由々しき問題(と言い張ってんのはあたしだけですが)、アクセント同様、「発音」に対しても「言葉を大切に」した姿勢を貫いた歌メロ作りに徹するならば、必然的に挫折せざるを得ないという厳しい現実の表れにほかならず、アクセント問題だけなら、まだ既存の曲に合致するよう後から言葉を貼り付けていけば回避可能とも言えそうですが(語頭の2音節のみにしろ)、そもそも音程の並びによって成立するメロディーというものにとっては、高さ自体がないってのは致命的。だから山田も藤山も團も、またそれら立派な音楽家を不用意に称揚する(ことによって自らの見識を誇示しているつもりの?)軽佻浮薄のともがらも、これに関しては何ら言及すらしないのでしょう。するしないと言うより、その「問題」の存在に気づいてすらいないというのが実情だとは思いますが。

ことさらこれを問題視しているかのように書いているこのあたしだって、ほんとは「別にいいじゃん、それで」とは思ってんですが、それを無視して平気だってんなら、発話の高低アクセントと歌メロの適合なんぞという不毛を極めた拘りのほうがよっぽど空疎ではないか、ってことなんですよ。いずれも、たかだか東京方言(だけじゃないけど)という「局所的」な現象なんだし。言語よりよほど普遍的な存在たる(たぶん)音楽の前には、すべて枝葉末節……って言ったら怒るかな。だったら無声母音を全部ちゃんと無声のままにした歌メロ作ってみろい、ってなもんさね。
 
                  

どうしても悪口ばっかりになっちまう。ちょっとそれは抑えるよう努めることにして、『赤とんぼ』とはちょいと逆方向かとも思われる事例を挙げときましょう(あたしのこのひねくれた観念を共有しない限り、誰もそうは思わないでしょうけれど)。林古渓作詞、成田為三作曲による『浜辺の歌』という歌曲。童謡ではなく唱歌ってやつですね。民衆由来のものかお上の権威に発するものかの違い、なんでしょう。

さて、『赤とんぼ』と逆ったって、それは別に作詞者のほうが神田生れの東京人(江戸の儒家、林家の出だてえから下町の江戸っ子という風情はちょっと稀薄)で、作曲者のほうが地方出身者だってところじゃありません。ついでのことに申し添えますと、成田は秋田生れで二十歳の頃に上京、なんと件の山田耕筰に師事したってんですが、師匠より20歳ばかり若い明治後半(日清戦争の直前)の生れ。一方の林は山田より10歳ほど年長の明治初期の生れで、まだ幕末の遺風が色濃かった時分ですから、東京語のアクセントもより江戸時代以来の伝統を踏襲するものだったのではないかと。あ、でも『浜辺の歌』(原詩では『はまべ』の由)は、山田の『赤とんぼ』より10年あまり早い大正5(1916)年の作品でした(デビュー作?)。

……などというのはいずれも枝葉に過ぎず、眼目はこの冒頭の歌詞、〈あした〉の「し」にまつわる発音問題なのでした。これこそ、しつこく書き散らしております「無声母音の無視」を端的に示す事例なんです。しかも、アクセント問題にも抜け目なく抵触し、最初の2音節には必ず高低差がある、という「正しい」東京アクセントに背き、[ア]と[シ]が同じ高さになっているという、師の山田の流儀では到底許すべからざる違式の極み?

でもこれ、再三申し述べておりますように、そもそも話すときには2音節目の[シ]の母音[イ]は無声化し、つまりは高さがわからないので、高低を云々する余地がないってのがほんとのところ。で、これまた既に何度も申しますとおり、そんなこと言ってたらメロディーなんか付けられないじゃん、ってことで、もうしょうがねえんですよ。

ま、発話においては3音節目の[タ]が最初の[ア]より高いところから、どうしたってその間の[シ]も高いに違えあるめえ、と見なされるのが東京語ではございます。だって、どんな単語でも、最初の2つの音節は必ず互いに高さが違う筈ですから。つまり、アクセント、ってよりピッチの高低を論うなんざ、やっぱり歌メロに関しては空しい限りってことで。
 
                  

ああ、ここでまたひとつ余計なことを思い出してしまった。この無声母音については、下拙の出生地を含む、東北の北部(青森、岩手、秋田)および北海道の広い範囲が、宛も西日本と同様、「無声化が目立たない」という区分になってんですよね。でも、それはちょっと調査の基準が精確さに欠けていたためではないかと。「目立たない」って言い方にも何やらちょいと「卑怯」な姿勢が嗅ぎ取れなくもなかったりして。……ってこともないけどさ。

生きていれば百歳を超えていよう父方の伯父や伯母だって、あたしの名前「きちろう」の[キ]を有声で発音したことは一度もなかったし(普段は「きっちゃん」って呼ばれてたんですが、[キ]の母音が無声化する点では何ら変らず)、それは「北」でも「下」でも、あるいは「癖」なんかでも同じこと。それぞれの[キ][シ][ク]は悉く無声音で、そうでなかったら聞いてるこっちが落ち着かなかった筈なんです。

尤も、有声無声の前に、多くは父音も母音も訛っちゃうもんで、無理やり表記すれば、とりあえず「下」は[ス(無声)‐↑タ]にさも似たることになり、「北」の[キ]に至っては余計なサ行音が付され、/ks/とでも表すべき破擦音になっちゃうんですよね(/k/の口蓋化が避けられるってのが果して怪我の功名に当るものやら)。無声破裂音に母音[イ]が連なる場合は自動的にそうなるのが、北端に限らず東北一帯の訛りの特徴らしく(東京で会った複数の山形出身者もそうでした)、「ピタッ」って言ったときの[ピ]にもまた余分な摩擦音/s/が付随するという具合。

両親も姉妹も普段はそんな発音はしないんですが、十歳までは青森市で育ち、中学でまたその田舎に引っ越しましたから、今でも簡単にその訛りは真似できます。他地方の日本人にはこれ、英語なんかに匹敵する難音かも知れません。因みに、子供の頃住んでいた地域より中学以降の環境は訛りがきつく、それどころか日常の用語、表現さえ随分異なっていたため、同じ青森弁ながら、自宅と学校とではかなり違う話し方をしておりました。中学生にだって付合いってもんがありますから。
 
                  

それはどうでもよかった。無声母音の話。北海道の大半が青森に代表される東北北部と同じ括りで、西日本(九州は別)と同様の「無声化が目立たない」地方とされているのは、単純に北海道の俚言は(当人たちの意識を裏切り?)東北のそれと基盤を一にするからでしょう。近代以降は全国各地からの移住が相次ぎ、内陸ほど東北弁との類似は薄れるものの、古くから「和人」が住み着いていた南西の端部は、今でも基本的に青森辺りの訛りとよく似てます。

……って、それもとりあえずどうでもよかった。肝心な点は、東京発音における狭母音の無声化が飽くまで無声父音に挟まれた場合の現象であるということ。これは、ガ行鼻濁音のように、語中か否かという条件にはよらず(これも既述ですが、「小学校」の「学」の[ガ]は鼻音だけど、「高等学校」「音楽学校」の場合は完全な単語ではないので、そうならないのが普通……とか)、カ行やタ行といった無声父音に狭母音たる[イ]や[ウ]が連なり、その後にもすかさず無声父音が続く場合は、単語の切れ目かどうかなどは無関係に、否応なくその狭母音が無声化する一方、発話上の休止とか留保(言いよどみとか)があった場合は、逆に音韻の連続性が失われ、いくらでも有声化する、ってより無声化しないんです。

あまり単語内では生じない状況だとは思いますが、たとえば「行くつもり」と一息で言うなら[ク]はひとりでに無声化するけれど、「行く……つもり」というような、躊躇を伴う発言においては、さすがの[ク]も無声にはならない、って感じなんですよね(そういうときは大抵音節自体が間延びしてる?)。そうでないと、どういうつもりなんだかわかりづらいし、何より言いにくいんです。どうやら歌メロにおける有声化もそれに通ずるような。

かと思うと、文末、発話の最終音節が「無声父音+狭母音」の場合は、後ろに何ら無声父音なんざないにもかかわらず、やはり伝統的東京発音ではその狭母音が自動的に無声化するのが作法……だったのが、そうならない事例が以前より増えているのではないかしらと(気のせい?)。「です」だの「ます」だのの「す」の母音[ウ]などは、自分自身も含め、多少とも「かしこまった」状況だとつい有声にしちゃうんですよね。そのほうが何となく慇懃な雰囲気になるってことでしょうか(またも既述でした)。あるいはこれもまた西方からの言語侵略の表れだったりして(?)。

そう言や昔、東京で暮していながらてめえの勝手な訛り丸出しでしゃべる、何かと横柄な奈良出身の野郎がいて、東京発音としてはむしろ正統であるこの「ですます」における無声の[ス]を「無作法だ」って決めつけられて憤然としたことがありました。ご丁寧に「東北の訛りか」などとほざきやがって。まずはてめえこ共通国語たる東京語を少しは話すよう努めるがよかろうぜ、と思う間もなく、そいつに言わせると「東京の人はみんな言葉がおかしい」んだそうな。そんなに奈良弁がエレえてえなら、生涯奈良から出てくんなよ、って思ったあたしが狭量なんでしょうかねえ。いや、たまたまそいつが奈良県出身者だったってだけで、よもやそれが奈良人の属性だなんてことがあり得ないのは、敢えて言うもおこがましきわかり切ったことであるは灼然炳乎。他の地方出身者のほぼすべてと同様、東京の住人なら普段フツーに東京語でしゃべってますよね。
 
                  

うぅ、しまった。逸脱の誘惑にはどうにも抗し切れず、またも関係ねえ話ばっかりになっちまったい。とりあえずその「思い出してしまった余計な話」にだけはケリをつけて、忸怩ながら今回も一区切りと致しとう存じます。

思い出したのは、「東北北部と北海道の大半では母音の無声化が希薄」っていう、統計的調査結果に対する疑義、てえか難癖。そんなこたねえだろう、ってのが、明治、大正生れの伯父や伯母の(当然容赦なく訛った)発音に依拠した我が結論、ってことなんでした。でもそれ、端的に申さば、単純に東京語では無声化する母音が、東北・北海道の訛りでは有声のままであることが多い、ってだけの話でして、同じことではないか、とお思いかも知れませんが、無声化の条件は、前後の父音がどちらも無声音であること、ってのをうっかり閑却しちゃったことによる誤認、あるいは短絡発想なんじゃないか、って思う次第にて。

「臨床例」を示せば、たとえば「靴」の[ク]の母音[ウ]は、/k/と/ts/という無声父音に挟まれるため不可避的に無声化する一方(だんだん東京でもそうじゃなくなってきてますけど)、容赦なく訛った東北弁(北部に限る?)ではこれ、第2音節の[ツ]が[ヅ]に変ずるのですよ。つまり、第1音節の狭母音[ウ]は、後続の父音が訛って有声になっちゃうために、もはや無声化の条件を逸しているという仕儀。ついでにこれ、2つの音節の間、と言うより1音節目の末尾に鼻音/n/が挿入され、[クン‐↑ヅ]となるのが正統派(たぶん)。

なお、この瞬間的な[ン]がないと、次の有声父音も通常の[ズ]と同様、語頭とは違って舌端と歯茎・口蓋との接触が有耶無耶になりそうなところ、この/n/のおかげで、/dzɯ/、すなわち文字どおりの[ヅ]にはなるという次第。東京語の「屑」だと、まあ高低も違いますけど、後半の[ズ]は「図示」とか言う場合の[ズ](ほんとは[ヅ])とはちょいと違うんです。何言ってんだかわかんないかも知れませんけど、そこは何卒ご容赦のほどを。

で、結局何が言いたかったかってえと、「母音の無声化が目立たない」のは、そもそも無声化のトリガーたる後続父音が「訛って」有声になっちゃってるからってことであって、それが訛らず無声のままの、つまり前後の父音がどちらも無声音の狭母音なら、やはり東京発音と同様、決して無声化はせんのです。先日から執拗に耳障りだのくたびれるだのって勝手なこと言ってる「無声母音の欠落」は、飽くまで前後ともに無声音という場合の非無声化ってことですので、そこはどうか。……って、やっぱりこれ、堅気の(まともな)日本人には何のことやらちっともわからなかったりして。重ねてご容赦。
 
                  

そう言えば、これと似た話で、むしろ九州方面でこそ目立つ現象であるガ行鼻濁音の欠落についても、西日本と東北訛りを同一視する向きもいますけれど、やはりちょっとした早計ってやつではないかと(これも既にちょこっとだけ触れておりますが)。ガ行の鼻音化ってのは(英語では/ɡ/と/ŋ/はまったくの別音素……ただし飽くまで標準発音では)、飽くまで語中に生ずる現象であって、既述の如く、一続きではあっても、1個の単語として充分に「熟して」いない(と見なされる)場合は対象外なんですよね。したがって、複合語の場合などは、それを単語と見るか、複数の語の連続と見るかで、東京方言においても以前から話者によっていずれに発音されるかが分れるということで。

東北弁では鼻濁音が欠ける、ってのも(東北ったって広いから、当然いろいろと地域差はありましょうが)、現地では語中か否かというのを超えて、言わば発音の区切りかどうかという(勝手な、あるいは特異な)感覚に応じ、共通語では機械的に鼻音化する明白な語中のガ行音も、半ば発音の便のために敢えてそうしない場合もある(もちろん無意識のまま)、ってことなんじゃないかしらと。とにかく、青森訛りには、九州方言などに顕著な鼻濁音の欠如はありません。伝統的東京弁では容赦なく鼻濁音になるものの中にはそうならない例もあるというに過ぎず、ガ行鼻濁音の父音自体は頻繁に用いられてるんです。

東北でもなぜか、仙台訛りには鼻濁音が欠ける、という記述も散見されますが、これも同様の軽忽によるものではないかと。式亭三馬が「浮世風呂」で揶揄した、田舎者の唸る仙台浄瑠璃の鼻濁音欠落ってのも、ガ行音がまったく鼻音化しないということではなく、江戸では当然鼻音たるべき音韻がそうではない場合が少なからず、それが耳につくってだけのことなんじゃないかしらねえ。仙台を含め、宮城出身の知人はおりますが、西の出身者に多いガ行鼻濁音の欠けた人なんかいませんぜ。まあ、青森生れの自分だってこうなんだから、東京在住者どうし、お互い故郷の地言葉のままじゃあ話しゃしませんけどね。しかし、西国出身の人たちの中には、何十年東京に住んでいても鼻濁音なんざ一切使わないって方もいらっしゃいますから。

蛇足にちゃ長過ぎるぜ、とは先刻承知。とりあえずはまた次回に続く、ってことでどうか。

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