どういうことかと申しますと、やっぱり長めなんですよ、この[シ]。今回改めて聴いてみるまで、あたしゃこれを、直前の音節[レ](「うれしくて」の「れ」です)が長く(付点8分=♪の1.5倍)、当の[シ]はその尻尾に短く(16分で)添えられたメロディーなのかと思っていたところ、どちらも8分だった模様。つまり、[シ]は[レ](カタカナだと階名と間違えそうですが、飽くまで歌詞の音節)の3分の1の長さしかないと思い込んでいたら、どちらも長さは同じで、要するに1拍を二等分して並べた「♫」という体だったというのが実情の模様。
なぜ勘違いしていたかと言うと、それこそその後ろ半分(「裏」などと言ったりしますが)の[シ]がまさに無声子音だったため(以後、「無声父音+無声狭母音」をこう呼ぶことにします。ハナからそうすりゃよかった)。無声母音を伴う音節は、ある程度の長さを超えると、突然メロディーの途中でピッチがなくなり、言わば歌詞はあれども音はなし、って感じになっちゃうんですよね。旋律に空白が生じたかの如き状態。
申し遅れましたが、この『言葉にできない』、テンポは『さよなら』とあまり変りません。『さよなら』のほうが少し速い程度なんですが、こちらの『言葉に……』が随分ゆったりと感じられるのは、速度ではなく、リズムの型の違いとでもいったものがもたらす印象の為せる業、てなところでして。
その違いとは何かと言えば、『さよなら』(のドラム入りの部分)が日本で言う「エイトビート」、つまり4分の4拍子ならその1拍(♩)の半分の長さである8分(♪)で刻み、要するに1小節を8分割するやり方であるのに対し、「言葉に……」のほうは、これまた日本で言う「フォービート」、つまり4拍子における1小節を素直に4拍で埋める手法。ロック、ポップでは前者の8分刻みが圧倒的に普通[よろしければこちら。
拍子というのは、強拍と弱拍が交互に繰り返されることによって(あるいはそう想定することによって……ったって、そもそもこの強弱自体が観念上のものに過ぎんのですが)成立する感覚または概念で、『さよなら』(のサビ)と『言葉に……』とでは、互いにテンポも近く、記譜上はどちらも同じ4拍子(たぶん)ですから、当然強弱の間隔もほぼ同じであるのに、前者ではその強弱の間に1つずつ副次的な拍(とりあえず今勝手にこう表現してます)が挟まって、刻みは2倍、間隔は半分となり、その分動きが倍速であるかのような印象をもたらす……ってこれ、自分でも随分無理のある言い方だなあとの自覚の下にて。だって、所詮言葉や文字で説明するようなもんじゃないでしょ、音なんてもんは。しょうがねえんですよ。でもまあだいたいそんない感じ?
とにかく、そのかなり速そうに聴こえる『さよなら』のサビに出てくる2つの[シ]は、その速さの因たる8分刻みの1つ分をさらに二分した16分という短さのため、無声母音を有声にしている余裕はない、と言うより、その必要がなかった、って感じなんですよね。
いちいち「日本で言う」って断ってますが、この「エイトビート」だの「フォービート」だのって言葉については、常々ちょいと苦々しい思いもございまして、しかしそれは主旨に非ざれば、ここでは敢えて触れずにおくことに致します。いずれまた所思を述べることもありましょうや。
……と言いながら、どうもそれ、この駄文の趣旨にもまったく無縁とは思われず(わかんないけど)、最小限の能書きだけは垂れときたくなっちゃいましたので、以下にそれを。
とりえあえず「ビート」というカタカナ言葉の元ネタたる ‘beat’ ですが、「拍」という訳語ならまだ「ビート」よりはよほどマシかって感じでして、これ、音楽に限らず、詩文の韻律その他の言語的事象を含み(ってよりそっちが先?)、要するに時間の経過を成立条件とする現象や人為における、その時間の規則的、均等な区分の最小単位……って、今思いつきで書いてるんで、精確さの欠片もございませんが、まあとにかく「ビート」= ‘beat’ とは行かないって認識は肝要、ってことでどうか。
音楽でも基本的にはやはり「拍」に相当するのが個々の ‘beat’ で、「エイトビート」の「エイト」に対応する英語は ‘eighth’、すなわち「8分の1」であって「8つ」じゃないんですよね。数字は「ビート(=拍)の数」ではなく、音(符)の長さなんです。 ‘eight beats’ じゃあ文字どおり「8回叩くこと」にしかならないし、 ‘eight-beat’ という形容詞があったとしても(いくらでもあり得ますが)、音楽用語としては意味をなさんでしょう。
「エイトビート」に相当するのは ‘eighth-note groove’ とか ‘eighth-note feel’、 あるいは ‘eighth-note pattern’ ってな言い方で、いずれにしろ「拍」ではなく「ノリ」って感じですね。 ‘eighth-note drum beat’ とも言ったりするけれど、その場合は ‘drum’ がないと、やっぱりどうも個々の「拍」の意味にしかならないようですぜ。
さらに、その ‘drum’ という語(形容詞用法)も、リズムまたは拍の明示を最大の特徴とする現代の大衆音楽(古典的管弦楽だのがエラいのは、そういう刻みを鳴らさないから? ふ、しゃらくせえ)、要するにジャズだのポピュラーだの、もちろん我らがロックだのにおける基幹装置(?)たる ‘kit drums’ の演奏法、編曲上の使用法を意味するものであって、一般義としての ‘drum beat’ は ‘drum stroke’ と同義、つまり太鼓の「一打ち」って意味でしかありません。「ノリ」のつもりなら、 ‘beat’ ではなく ‘groove’ その他のほうが穏当であるは確実でしょう。 ‘groove’ だの ‘feel’ だのにも ‘drum’ という語を冠することはあるようだし、 ‘pattern’ などはそのドラムの演奏様式自体を指すものとは言え、いずれも単に ‘beat’ と言うのとは異なり、初めから複数の拍の連なりを前提とした観念、表現なので、特に ‘drum’ と断らなくても語義に混乱は来さず、ってところではないかと。
しかも、この ‘eighth’ っていう序数(実は分数)を用いた言い方は米語(北米、すなわち合衆国+カナダの言い方)に限るもので、英国式(オーストラリアやニュージーランド、アイルランドも一緒)だと、普通は ‘quaver groove’ ってことになるんですよね。もともとジャズだのブルースだのロックだのという、それこそ ‘beat’、つまりはリズムあるいは韻律を明確(ときに強烈)に可聴化した大衆音楽は悉くアメリカが卸元なので、イギリスでもそういう「軽」音楽の業界では米式の言い方もありなのかも知れませんが。……知らないけど。
ともあれ、これが「フォービート」なら米が ‘quarter-note groove’、 英が ’crotchet groove‘、「ツービート」だとそれぞれ ’half-note groove‘、 ’minim groove‘ ってな塩梅。「エイト」だの「フォー」だのに該当する音符の名前が、同じ英語とは言え、イギリス流の一党ではヨーロッパ古典音楽の親玉たるイタリアと同様、ラテン語風の言い方になってるってこってす。
ついでに申し添えときますと、音符とは無関係の、つまり一般義としての「2分の1」は ‘a half’、「3分の2」なら ‘two thirds’、「4分の3」なら ‘three quarters’……てな具合なんですけど、アメリカじゃあ(カナダでも?)‘quarter’ の代りに ‘fourth’ も用いられ、1/4なら ‘a/one fourth’、3/4なら ‘three fourths’ とも言うそうな。でもそれ、どうやら数学とかでしか使わないって人が多いようですねえ。その北米でだって、4分音符(♩)のことは ‘quarer note’ としか言わねえんじゃねえでしょうか。同様に4分休符なら ‘quarter rest’ となるんですが、それも英国流だとそれぞれ ‘crotchet’、 ‘crotchet rest’ という具合。日本の「~分音符」って言い方はアメリカ式に倣ったものなんでしょうかしらね。やっぱり知らないけど。
蛇足ここまで。
さて、上で開陳致しました「知見」は、NHKのFMからパソコンに録音しっぱなしだった音源によって確認した結果だったのですが、この小田式歌唱(発音)法をもうちょっと確かめたくなり、さらに保存ファイルを検索してみたところ、結構知っている古いオフコースの曲がいくつかありました。別に小田和正でなくてもいいんですけど、無声母音の巧みな処理にちょいと感心しちゃったもので。どのみち偶然、ではないにしても、当人は無自覚のまま、自然にそう歌っちゃってるだけではありましょうけれど。
で、その1つ、『Yes-No』という歌の中ほどに、〈ふたり〉の「ふ」や〈あした〉の「し」という、本来無声音たるべき音節に有声母音を添えて発音されている箇所を発見(そういうのは「無声子音」って呼ぶことにしたんだった)。発見も何も、前から知ってた歌ではあるんですが、改めてそのつもりで聴いてみないと、そんなところにゃ気づきもしません。それだけ小田氏の歌い方、というより発音が、音声学的に(?)極めて自然だっていう証ではないかと。歌メロではあっても、無声母音を無理やり、不自然に有声で発音されると、あたしゃ気にならずにゃいられないたちですから。
この2つの音韻(子音)、[フ]と[シ]ですが、前や後ろの音節とは高さを異にしているところが、つまりは小田式(って勝手に言ってますけど)における無声化の条件が不充分な例。同時に、これもまた『さよなら』における〈ひとりにして〉の「し」、すなわち[シ]という音節と同様、両者ともその有声母音[ウ]と[イ]を早めに切り上げて短くすることによって、有声母音に伴う「うるささ」(勝手な了見とは重々承知)が抑えられてるんですね。
この曲は『さよなら』や『言葉にできない』よりテンポは速いため、当該の無声母音2つに当てられる音符は8分(♪)ということになり、16分である『さよなら』のサビの2つの[シ]よりは長めながら、『言葉に……』における8分に比べればかなり短いんです。因みにこの中間部(既に後半)に挿入された当該部分、テンポはそのままで拍子が代り、4/4拍子が一時的に2/2拍子になってるような感じ。でもこれ、飽くまで記譜上の問題に過ぎず、可能な表記法はもとより多様ですので、「公式」にはどうなってんのかまったく知りません。
これを4拍子のままだと解釈すれば、単純に1小節の長さが2倍に伸びたってことんなり、その場合はいわゆる「エイトビート」だったのが「16ビート」(米:‘16th-note groove’、英:‘semiquaver groove’)に変ったということに。テンポや「刻み」の幅はおんなじだけど、強弱の間隔が2倍になって、要するに「ノリ」が違うってなノリ(毎度恐縮)。でもその拍子またはノリの変更も、この挿入部分の終盤では解除され、件の〈あした〉が出てくる手前、〈今日は‐ありがとう〉の「は」の後、「あ」の手前でまた4拍子、あるいはエイトビートに戻るんです(カウベルは1拍=4分刻みだけど、ハイハットは8分)。って、そんなこたあ曲聴きゃわかるんだし、どう足掻いたって音楽を文章で語ろうなんてのがそもそも野暮の骨頂。わかっちゃいるのに、ついやっちまいやした。何卒ご容赦。
それより無声母音の話。この〈ふたり〉の[フ]と〈あした〉の[シ]における「早めに発音を切り上げることによる有声母音の疑似無声化」(って、また勝手に作っちゃったけど)、特に前者の[フ]にその傾向が顕著で、言わば決然たるスタッカートといった風情。充分に長い音節(音符)なら無声化を無視しても違和感を生ぜず、逆にメロディーの不全を避けるには極めて妥当な処理であるのに対し、有声のまま短く歌う場合は、その有声母音を極力目立たぬよう、ことさら短めに切り詰めて次の音節との間に一瞬の空白が生じたかのようにする、とでもいった絶妙の手法……ってところですかね。やはり当人はすべて無意識でしょう。こういう能力をを天才ってえのかも。
奇しくも、ってこともないだろうけれど、この2つの無声子音、[フ]と[シ]は、次の音節がどちらも[タ]なんですよね。後者における狭母音[イ]は、『さよなら』に出てくる〈ひとりにして〉の[シ]と同じで、その後続父音たる/t/の準備段階である閉鎖状態を先取りすることにより、記譜上は8分=♪であろう実際の長さをそれよりだいぶ短く切ってるってわけですが、前者の[フ]における[ウ]のほうは、同様ながらさらに早く切り上げられてる、ってことです。飽くまであたしが勝手に言ってるだけですが。
一方、この2語の間に出てくる〈すこし〉の[ス]は、やはりごく短いとは言え、〈ふたり〉と同じく語頭でもあり、メロディーの区切りとしても最初の音であるとともに、後続音節の[コ]より高い(筈な)のに、有声にしてはいないんですね(アクセントとの合致などという非音楽的観念は初めから念頭にないのも歴然)。これの場合は、聴く側が勝手に「錯覚」して、実際には判断し得ないピッチを無自覚に聴き取ってしまうということなのではないかと(あたしがそうだってだけ?)。
この2語の間に出てくる〈つつんで〉の1つめの[ツ]が発話の作法どおり無声のままなのは、直後にある2つめの[ツ]と同じ高さだからってことで、やはりこの小田って人、無意識でそうしてるんだとは思いますが、基本的には相当に整合性、一貫性のある歌唱法、発音法を守っているとは見なせそうです。むしろ全部無意識だからこそ、聴いてるこっちも一度として違和感を覚えたことがなかったってことなんでしょう。今回改めて確かめるまでは、『さよなら』のサビ以外まったく気づいちゃいませんでしたから。
と言うより、そんなこた気にしませんよね、普通。その『さよなら』だって、無理やり(飽くまであたしの感覚)有声にして2つの[シ]を歌ってる人がいたからわかったわけで、そうでなかったら、むしろあまりにも当たり前で一向に気づきゃしなかったに相違ありません。
さて、小田和正の歌唱法、と言うより歌唱における無声母音の(恐らくはまったく無意識の)処理法については、今少し所見を記しておきたいと存じます。が、またも結構な長さになっちゃったので、続きはまた次回ということに。
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