2018年3月25日日曜日

無声母音はどうする?(2)

アクセントと歌メロの食い違いだとか、鼻濁音の有無だとか、俺に言わせりゃ「だってあんたらみんな歌聴いて全部意味わかってんでしょうが」っていう、実に些末な事柄を大袈裟に嘆いたり糾弾したりする連中が、誰ひとりとして言及すらしない(飽くまであたしの知る限りってことですが)、「無声母音の無視」という由々しき(かな?)問題につきまして、漸く申し述べることができそうな模様です。ここまでズレ込んだのはすべて自業自得。長くてほんとにすみません。

アクセント云々については、歌詞、メロディーともに、あまりにも極端な制約を受容しない限り(あたしゃごめんだね)到底解消し得ないのに対し、鼻濁音問題なんざ、単にそれを認識しさえすれば一挙に解決可能。いつまでも放置状態なのは、そもそもその発音の欠けた人には肝心のその認識自体が至難であり、当然その必要性を感ずることすらできない、という実情によるものでしょう(ほんとに?)。

いずれにしろ、あっしにとっちゃあ、歌メロにおいても、そうではない発話上の音韻としても、「もういいじゃん。しょうがねえよ」ってな事象。嫌なら「俺だけは生涯そうするまい」って勝手に思ってりゃいいだけ。その点では藤山一郎なんざ立派なもんだったかも。しゃらくせえ、とは思っとりますが。
 
                  

さてそれでは、下拙がよほど重大であるかのように言い募っている無声母音について、まずは歌や音楽とは切り離した実際的な言語音としての現状と、それに対する所思を献言。

……と、その前に、唐突ではありますが、英国(あるいは英語圏全般?)における、言語と演劇ついての余談をひとくさり。

彼の地では伝統的に、言語(つまり英語)における権威は、我が国の文科省だの国語審議会(文化審議会国語分科会?)だのといった、自ら権威を標榜するが如き俗臭紛々たる者どもではなく(ありゃ権威ってより権力か)、書き言葉については文学者、話し言葉については演技者、すなわち役者に帰属するものとされている(ような)のです。当人たちが権威者たることを求めずとも、名優の資質が帰するのは、名文家のそれと同様、畢竟その言語能力にほかならない、とでも申しましょうか、演劇の才とはまず言葉を操る力である、というのが、彼の地における古来の基本認識……なのではないかと。

アイルランド人であるリチャード・ハリスや、コメディアン出身のピーター・セラーズ(イングランド人)などは既に古典的存在ですが、より現代的な例としては、当初シド・ビシャス役で注目されたギャリー・オールドマンなどがおり、多様な英国方言(地域語というよりは主に社会的な)に加え、当然のようにベタベタの米国訛りも自在。

とんでもない極悪人のほか、ベートーベンから妖怪変化まで、姿形だけでもいろいろと楽しませてくれる化け物役者でもありますが、レナ・オリンが恐るべき敵役に扮した[『蜘蛛女』(‘Romeo Is Bleeding’)における、ニューヨークのケチな小悪党刑事役の台詞(およびその主人公による自嘲的独白……だったということが最後に明かされるナレーション)などは、たとえばショーン・コネリーによる少々わざとらしい米国訛りとは違って、誰だかわかんなきゃてっきりその辺の米国俳優かと思うほど(実際本人の容貌は基本的にかなり平凡)。オリバー・ストーンの『JFK』で演じたオズワルドも、本物そっくりでびっくり。視覚的な演技力のみならず、言語能力の高さも光る怪優、ってのは褒め過ぎかも知れないけれど。
 
                  

一方、近年は英国人役を巧みにこなす米国スターも目立ち、ジョニー・デップなどはまことに見事、ってイギリス人の知人が褒めてたりします。キアヌ・リーブスも、件のオールドマンの化けっぷりが嬉しいコッポラの『ドラキュラ』では、普通に上品な英国弁しゃべってたし、『トゥームレイダー』におけるアンジェリーナ・ジョリーの「上流」英国発音(今どきのイギリスじゃ流行らない?)など、まことに見事なものですが、何より凄いのはブラッド・ピット。『スナッチ』における(架空の?)アイルランド訛りなど、英語としては何を言っているのかさっぱりわからないような超常的台詞でありながら、こういう訛りのやつってほんとにいそうだよな、と思わせる絶妙さ。

役者なら当り前とお思いになるかも知れませんが、日本の演劇事情は今も昔もこれに遥かに及びません。なんとか拮抗し得るのは、私の知る限り中村嘉葎雄ぐらいのもの。その点を特に評価されることもないのはいかにも寂しいところですが、東京生れ(と言うより東北以外の出身)でこの人ほど見事な東北弁の台詞が言える役者を、あたしゃほかに見たことがありません。日頃はテレビドラマのヘタな大阪弁をボロクソに言っている大阪出身の友人(「マツタケ」を「マッタケ」と言ったりするほかは完璧な東京弁)も、この中村嘉葎雄に関しては、「今どきこれほど正統的大阪弁が使えるやつは大阪にだってそうはういない」などと褒めておりました。

ところが、一生訛りのとれなかった「昭和の名優」も枚挙に堪えず、ちゃんとした東京語、共通語(それが一等簡単じゃん)すら話せなくても、役者を標榜できるどころか、その演技を絶賛されてたりするんですよね。シェイクスピアの国、イギリスとはそこが根本的な違い……だったりして(だんだん緩んできてるようだけど)。中村嘉葎雄のような、言語的に極めて達者な演技者も、あちらでは決して特殊な存在ではありません。どのみち日本でも埋もれたままだけど。
 
                  

20年ほど前、東京在住の英語国出身俳優たちによるちょっと古い(19世紀?)戯曲の舞台を、付合いで観に行ったことがございます。話はあまりおもしろくなかったんだけど(筋書きはすっかり忘れちゃった)、パンフレットを見たら、上流英国発音のおばさん役をやってる人がアメリカ南部出身の女優だというので軽く感服。ところが、途中たった一言だけアメリカ風の発音をしてしまったのを、隣の席で観ていた知合いの英国人が、「惜しかったねえ」って苦笑したのにまたまた感嘆。腹ん中で、「あんたら厳しいねえ。日本の役者なんてこんなもんじゃないよ」って思ったことでした。

そのたった一言って、 ‘mama’ なんですよね。これ、イギリスでは2音節めに強勢が置かれ、/mə 'mɑː/であるのに対し、アメリカでは逆に/'mɑː mə/。イギリスでも強勢を前に置く言い方はあるけど、その場合は発音も変り、/'mæm ə/って感じ。それをその女優、せっかく格調高く19世紀風の英国式でやってたのに、この「ママ」だけアメリカ弁にしちゃったという次第。それだけのことなのに、演出家でも脚本家でもない観客にも指摘されてしまう、それが英語圏の芝居の厳しさ。単にそいつが特別細かいやつだったってだけかも知れませんけどね(俺に言われるか)。

リチャード・チェンバレン(チェインバリン?)に代表されるように、英国へ渡ってそこを拠点に活動し、やがて英米の映画やテレビで英国人役を多数演じるに至った、という例も稀有ではありませんが(言語的には逆だけど、東京出身者が関西芸人になるような……)、昔の米国では、たとえばジョン・ウェインなど、まあトーキー普及以前のデビューということもあるのでしょうけど、台詞はいつも変らず本人特有の訛りだったりしました(三船敏郎もそうでしたっけね)。到底英国人役などは無理。同時代の英国人俳優には米国人役をこなす者も少なからず、どちらかと言えば英国発音のほうが楽な筈なのに(関西出身者が東京弁を真似るほうがその逆より簡単、というのに似ていると思われたし)、まあそこがいかにもかつてのアメリカ帝国だった、ってところでしょうか。関係ないか。
 
                  

さて、またぞろ本旨から逸れた話柄に耽ってしまったようですが、何のためかと言えば、これも「無声母音の有無」という問題を論じるための布石(なのか?)。東京発音には必須(かつては?)たるこの無声母音の欠落、鼻濁音と同様、決して近年に至って突然出来した現象などではなく、それこそ「往年の名優」たちでさえこの音韻を欠く者は珍しくなかった、というのが実情なんです。

たとえば、父親の坂東妻三郎は神田生れながら、その板妻が後半生を送った京都の生れである田村高廣は、渋い演技によりまさに昭和の名優とされてはおりますものの、ときおり漏らす発音、アクセントの訛りは結局最期まで抜けませんでした。親父の板妻が遺した借金のためよんどころなく役者になった、という話ですし、この兄の成功に倣って、自らの意志によって俳優となった2人の弟、正和と亮のほうが、明らかに訛りの度合は増してますけどね。

特に正和はちょっと無声母音を無視し過ぎ。ちゃんと無声化している場合のほうが割合としては多いものの、東京弁の話者なら(ある世代までは、って言わなきゃいけなくなってきたのがちょいと寂しいところ)、一定の条件下では機械的、不可避的に例外なく無声化するのだから、1つでもそうじゃない発音をすると、やっぱりすぐにバレます。あたしが特別過敏なのかも知れない、とは自覚しとりますが。

「臨床例」を求めてウェブを探ったところ、20年ほど前に当った『古畑任三郎』のオープニングの独白を集めた動画ってのがあったので、早速ざっと聴いてみたところ、やはり結構出てきましたぜ。因みに、自分は当時数回しか観たことがありません(脚本の三谷幸喜って、日芸の学生だった頃の舞台が一番おもしろかったような……)。

てことで、以下にそれを羅列。これ以外にも妙にクセのある発音は随所に聞かれるのですが、明白な無声母音無視の例だけを挙げときました(全部じゃありません)。

第1シーズン
1.第5回 『汚れた王将』:〈気づこと
2.第7回 『人リハーサル』:〈(約)38万キロメートル
3.第9回 『殺人公開放送』:〈します
4.第11回 『さよなら、DJ』:〈(走)った

第2シーズン
5.第17回 『赤か、青か』:〈お試ください
6.第18回 『偽善の報酬』:〈探して
7.第21回 『魔術師の選択』:〈思議
8.第22回 『間違われた男』:〈ついてないって 

第3シーズン
9.第28回 『若旦那の犯罪』:〈
10.第29回 『その男、多忙につき』:〈わた(私)からの
11.第31回 『古畑、歯医者へ行く』:〈周病〉〈チノバシラス・アチノミセテムコミタンス
12.第34回 『哀しき完全犯罪』:〈引出ちゃんと〔読点は可読性のためで、台詞には途切れなし〕
13.第35回 『頭でっかちの殺人』:〈解け(決)して
14.第37回 『最も危険なゲーム・前編』:〈計か(画)的
15.第38回 『最も危険なゲーム・後編』:〈誇り高殺人者
16.第40回 『今、甦る死』:〈計か(画)殺人
17.第41回 『フェアな殺人者』:〈日本人選

……てな塩梅で、ボールド部分が悉く有声。本来の東京発音では絶対にそうなりません。「で」「ま」など、文末の[す]も大半が無声化しないままなんですが、それについては東京人も昔から状況によって有声にする場合があるので(かしこまったりするとつい……)、まあ許容対象としてもいいでしょう(相変らずエラそうに)。

なお、2例め、第7回の〈約38万キロ……〉の後には、〈約3センチメートル〉という台詞もあるんですが、こちらは「約」で一旦切っているので、無声化の例外となります。13例め、第35回の〈解決して〉の[つ]も同様なんですが、こちらはそもそもそこで切ること自体が妙なので(「解決する」は一体のサ変動詞でしょう)、容赦する気にはなれませなんだ。

一方、6例め、第18回における〈〉の[く]では、/k/と/s/に挟まれた/ɯ/が有声のままであるのに対し、その後の〈探して〉の[し]では、東京発音の法則どおり、/ɕ/と/t/の間の/i/が無声化していました。この一貫性のなさもまた不可解。

他にも、たとえば第20回『動機の鑑定』で、「将棋」の[ぎ]が鼻音化していなかったり、かと思うと第33回では〈晩ごはん〉の「ご」が要らざる鼻音になっていたりと(過剰訂正ってやつ?)、俳優なら本来は極力避けるべき破格的台詞回しも耳につきます。とにかく非東京語的音韻は枚挙に堪えず、いちいち言挙げしていてはキリがありません。とりあえずは当面の主題である無声母音の欠落という事例だけを並べたる次第。

しかしながら、京阪の出身ではあっても、まったく訛りのない役者のほうがむしろ大半であり、それは他のあらゆる地方出身者と共通。同じ京都出身の近藤正臣などは、ちょいと気障な二枚目の双璧を成す存在として、一時期は1歳下の正和と対比されることが多かったものの、無声母音の欠落などは微塵もなく、むしろ今どきの東京生れよりずっと模範的な東京語の使い手だったりします。大阪出身の橋爪功や宮迫博之(本業はコメディアン?)も同様。生れは東京ながら、京阪育ちの藤田まこともそうでした。圓生とは裏腹。

結局はすべて各人の意識に帰するってことでしょうかね。いや、役者ってんならそれじゃダメでしょ、ってのが英米的前提……かも。
 
                  

田村兄弟ですが、高廣はともかく、正和には到底江戸っ子の役は無理でしょう。亮もかなり苦しいのに、本人たちだけではなく、周囲の脚本家や演出家も気づかないのか、あるいは看過し得る範囲との判断によるものか、テレビ時代劇で正和と亮が勝海舟を演じたこともありました(病気による前者の降板により後者が継承)。ご丁寧に高廣が父の小吉役。

正和のカツリンなんて(麟太郎てんですよね、あの人)、ジョン・ウェインが英国紳士に扮するようなもの、と言っては大仰かも知れませんが、武田鉄矢のほうがまだ非江戸的訛りは少ないぐらいで(ときどき鼻濁音が欠ける)、あたしなんざ、ひょっとすると海舟がたまらなくなって草葉の陰から呪いでもかけたんじゃ、って思ったほどの違和感。でも皆さんどうも平気なようですね。そこが驚き。

これはやはり、私のまったく個人的な感覚なのでしょうか、鼻濁音の欠如なんかよりも、無声母音が無視されたほうがよっぽど耳に障るんですよね。もちろん、そういう方言での発話なら、あたしだって鬼じゃあるまいし、それをけしからねえたあこれっぽっちも思わないけれど、その訛りを憚ることもなく語り、それで共通語だの東京弁だの、ましてや江戸弁でございってんじゃ、ヤだよ、やっぱり。

田村三兄弟、もともと京都弁に鼻濁音の欠落はないためか、それについては武田や福山のような問題は(あまり)ないものの、長兄はともかく、正和はしょっちゅう、亮もかなり頻繁に無声母音を欠きます。3人とも発音全体に特有の癖があって、それも正和が最も顕著。子供の時分に初めてこの人をテレビで見たときには、なんて変な声なの?って思ったもんですが、当初から、演技力以前にその不鮮明な発声が批判や揶揄の対象となってはいたようですね。

京都弁の鼻濁音は東京よりよほど急速に衰退しているとのことですが、もともと中世以降の音韻に間違いはないようで、そうなると数世紀を経て旧に復するというだけのこと。その数世紀にわたる「夾雑音」の犯人は、やはり足利一味だったのではないか、などと睨んでたりもして。
 
                  

またも閑話休題。無声母音の話でした。

京阪地方の俚言でも、どうやらその欠落は規則的な現象ではなく、むしろ大半は(元来の)東京方言と同様、どうやら自動的に無声化しているのが、テレビ出演者の関西弁を聞いていてもわかるのですが(しかし田村正和は……)、どういうときにちゃんと生起し、どういうときに欠けるのかがわかりません。何らかの法則性はあるのでしょうけれど。

いずれにしても、関西弁を関西訛りで発するのは極めて自然。耳に障るのは、東京弁風に、共通語っぽくしゃべってるときの無声母音の欠如なんです。その点で、やっぱり正和のしゃべりはヤだなあ。いや、決してあの人自体が嫌いなわけじゃありませんから。なかなかおもしろいですよね、田村正和。
 
                  

ええと、さんざん腐してきといて何ですが、正和(および亮)の京都訛り(?)などは、実はまだ比較的低次であるとも言えまして、ひょっとすると大阪弁はさらに緩やか(無声化する度合が高い)かとも思われる一方、逆にまったく容赦なく、無声母音など皆無なのではないかと思しき(って言うか、実際聞いたことないような)方もいらっしゃいます。それは……

と、さながら国枝史郎の伝奇小説か、はたまたごく幼い頃に何度か(飴も買わずに)見物した紙芝居のようではありますが、またしても随分と長くなってしまったので、この続きはまた次の機会にってことで。

マンガ雑誌の人気連載とか新聞小説の如き手口になってきましたな。

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