2018年4月13日金曜日

町奉行あれこれ(13)

町奉行役宅についての駄文を続けます。まずは、思い出したように何ですが、橋の「門内」という言葉について少々。

外濠に架かる橋の御門内ってのは、濠の城側に設けられた門の内側ってことで、建前としてはそれも城塞の内部。現実には屋敷町が城の本体を囲んでおり、ほぼ現代の千代田区辺縁部に相当。

呉服橋御門も鍛冶橋御門も、外濠が南北に通っているので橋の西詰にあり、1つ南の数寄屋橋の場合は、濠の方向がそこで西に曲るため、門は北詰ということになります。後の南町奉行所はその北詰の門内となるのですが、ご承知のようにとっくに濠は埋められて道路となり果て、上記3つの橋は交差点にその名を遺すのみ。「外堀通り」ってのは、外堀(濠)沿いの道路ってことなのかと思ったら、呉服橋以南は戦後まで外濠そのものだったってことで。

前回も掲げましたが、またも新旧の対比を示す図を以下に。「旧」のほうは前回よりは後代のものにしときますが。
 
安政6(1859)年刊『御江戸繪圖』より
Googleマップ 東京駅周辺
 
戦後のラジオドラマ、および映画の『君の名は』が大当りした頃(近年はいちいち「昔の」って言わないと混乱を来すようですが)は、まだ数寄屋橋が残ってたってことになりますが、呉服橋から鍛冶橋までは、前回言及したように、戦後の1948(昭和23)年には埋め立てられ、数寄屋橋の撤去はその10年後。下拙が生れる前年です。

さらにその10年ほど後の小5か小6の頃(どっちだったか忘れちゃった)、親父に連れられて銀座へ行ったとき、「数寄屋橋交差点ったって、どこにそんな橋があるの?」って訊いたところ、「終戦後東京に転勤して来たときはここに川があって、数寄屋橋っていう橋が架かってたんだよ」との回答。ふ~んって思ったのがちょっと懐かしい。
 
                  

また思い出に耽ってしまった。

さて、冒頭で何気なく「千代田区辺縁部」などと書きましたが、江戸の町はよく「の」の字形に発展した、てなことを申します。江戸(城)の防衛線もまた、俯瞰では時計回りの螺旋状に広がるような形状を呈し、中枢に直通する大手門、桔梗門(内桜田門)、それに西丸(にしのまる)大手門、すなわち今日の皇居正門(いわゆる――ほんとは誤認による――「二重橋」のところ)の内側を「内曲輪(うちくるわ)」、その外側、城郭全体を囲い込むのが「二ノ曲輪」、そのまた外周を「外曲輪」と称する由。このうち内曲輪の様子は、防衛上の秘密情報とでもいったところだったのでしょうか、市販の絵図に詳細は描かれておりません。
 
嘉永5(1852)年刊『御江戸大繪圖より
万延元(1860)年刊『萬延江戸図』より
 
現状に即して述べますと、現在の和田蔵噴水公園に隣接して石垣が残る和田倉門(その門内が明治まで会津の上屋敷)をひとまず起点として時計回りに内濠をめぐり、(外)桜田門や半蔵門を経て、清水門と竹橋の間にあった雉子橋門に至るのが「二ノ曲輪」。そこから先(東方)は外濠に沿って、一橋からまた時計回りに、呉服橋や数寄屋橋、四谷門や市谷門を経て小石川橋(後楽園の近く、飯田橋と水道橋の間)まで至り、そこで南東方へ分岐する日本橋川には向わず(外濠と繋げられたのは20世紀なので向いようもなかったわけですが)、そのまま人工水路である神田川を隅田川まで東進するのが「外曲輪」、ということになるかと。
Googleマップ 千代田区・中央区辺り


 
つまり、町奉行所がその中を転々とした地区、俗に「大名小路」と呼ばれていた一角は二ノ曲輪の東端に当り、その東、外濠の東に当る現中央区は外曲輪、といった塩梅。

ただし、このような明確な区分は享保期、吉宗の「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」以降のもののようで、たとえば、それ以前の「丸ノ内」は外曲輪の内側全体のことだったのが、以後はそれよりだいぶ狭い範囲の内曲輪、すなわち本丸、二ノ丸、三ノ丸、西丸のみをそう呼ぶのが公式となった、とかいう話です。

蛇足ながら、雉子橋の位置は今とは異なる、というより今の雉子橋とは別物であり、それよりは西方に、南北方向ではなく東西に架かっていたとのこと。現在のものは関東大震災後に架けられたというのですが、その南に位置したのが雉子橋御門で、やはり石垣だけが寂しく残っております。かつての雉子橋自体はその門の北西方向に当り、その西詰を南に曲がると門がある、という状況だったと思われます。

文久3(1863)年改訂『飯田町駿河台小川町繪圖』より
現状(Googleマップ)
 
……などと、空間的なことを言葉で説明してもあんまり効果がないのは先刻承知。意味わかりませんよね。とりあえず上に添えといた図をご覧くだされたし。

おっとそれから、ちょいと申し遅れましたが、「門」だったり「御門」だったりと一貫性を欠いていることは自覚しておりまして、多少忸怩の感もございます。現代では「大手門」とか「半蔵門」としか言いませんが、かつては「大手御門」、「半蔵御門」と呼ぶのが通例。自分だって21世紀の現代人なのに(かなり使い古しの部類にはなっちゃったけど)、なんせ子供の頃からの江戸好きなもんで、油断するとつい余計な「御」を付けちゃうんです。どうもすいません。
 
                  

さて、江戸の初期には既に大規模な河川工事が行われており、もともと流れていた「平川」は随分位置が換えられ、その一部が外濠に相当する、って感じなんじゃないかしらと。日本橋が架けられたのはその平川であり、いずれにしろその橋もないうちに「日本橋川」なんて言うわきゃありませんよね。

しかし、そうして整備された川や濠も、明治以降、わけても戦後にはさらに容赦のない改変を加えられ、ついには今日の惨状を呈する仕儀とは相成り候……みたいな。戦後の様子なんざ知るわけないし、そもそも東京の子供でもなかったわけですが、50年ほど前の10歳のとき、初めて東京に来て最初に降りたのが「国電」の中央線飯田橋駅(総武・中央の直通運転、日中は各駅停車の電車のことを、御茶ノ水から西側までも「総武線」と呼び、「中央線」は快速その他のことだと思い込んでいる人には、ときに「訂正」を受け辟易しますが)。

ホーム西側からは眼下に外濠が望め、その先、外堀通りの向うには名画座の老舗「佳作座」の看板が目立ってたもんです。それがまあ、30年ほど前その飯田濠が無残にも埋め立てられたばかりか、駅の西側にはやたらと邪魔な歓楽ビル、ラムラとかいうのが密接し、妙に暗くて狭苦しい駅になっちまってもう……。
 
昭和30年代の区分地図より 千代田区 飯田橋駅付近
Googleマップ上の同位置
その佳作座もその後パチンコ屋か何かに化けちゃうことになり、従業員がささやかな抗議運動をやってたところは、後に池袋の老舗生地手芸店、キンカ堂が突然廃業した折に見たのと似た光景。実は佳作座よりキンカ堂がなくなったことのほうが、自分にとってはよほど痛手ではございました。
 
                  

またも昔語りに耽ってしまった。寄る年波……。気を取り直しまして、曲輪、すなわち城の内郭、外郭についての能書きをもうひとくさり。

警備のために設けられた見張所を「見附」と称し、それは江戸中に多数散在していたんですが、濠の橋詰に築かれた「御門」はその主だったもの、と言えるかと。フルネームでは「大手見附御門」とか「半蔵見附御門」とかいうのかも知れませんけど、絵図の表記では、もちろん版元によりいろいろとは言え、たとえば同じ1枚の絵図でも、「和田倉御門」に対して「ゴフクバシゴ門」だったりと、表記のみならず言い方自体にも異同があります。それぞれ当時の一般的な慣習に從った結果なのでしょう。いずれにしろ「見附」という表示はまず見られません。

「赤坂見附」も、自分が所有する10枚の大絵図および幕末の切絵図のうち、そう記されていたのは明暦3(1657)年のやつだけ。江戸の市中(今で言う「都内」って感じ?)に相当するのが、享保以後の「二ノ曲輪」だけであったという古い時期のもので、赤坂は絵図の西端にギリギリ入っているという具合です。

明暦3(1657)年刊『新添江戸之より
北を上に描かれた縦長の絵図の左側下部。赤坂見附は左(西)の端に辛うじて書き込まれています。 
それより古い寛永の絵図(何年かは表示なし)だと、それも見当りません。石垣や櫓が築かれたのは寛永13(1636)年から16(1639)年にかけてとのことなので、あるいはこの絵図の出版時にはまだなかったのかも知れません。
寛永期(1624~44年)の絵図より
「ためいけ」と表記された溜池は18世紀以降漸次埋め立てられ、東京駅東側の外濠同様、今ではとっくに消滅しているわけですが、その「ためいけ」の下、絵図の左下端にある白い部分には「屋しき町あり」と記され、その右(東)には「せんがく寺」の文字も見えます。泉岳寺がこの外桜田から高輪に移転したのは、寛永18(1641)年の火災による焼失のためとのことなので、この絵図は寛永年間でもそれ以前ということはわかります。
 
 
その10枚の中では、元禄6(1693)年の大絵図(例の「坂部三十」って書いてあるやつ)で、やっと千代田区周辺を大きく超えた事実上の江戸全体が描かれるようになってるんですが、以後は幕末まで一貫して「見附」ではなく「赤坂御門」と記されております(表記はいろいろ)。いずれにしろ、駅名には残っているけれど、現地にはもちろん門なんざ微塵も跡形ははく、やはり石垣がちょっと残ってるだけ。まあ、虎ノ門なんぞは、「門」って何よ、ってなもんで、それは、川もないのに呉服橋だの数寄屋橋だのっていう、道路上の交差点の名前になっちゃってるのと同工かと。別に文句言うつもりもありませんが。
 
                  

さてと。厳密には外濠ではないとは思うんですが、実質はその延長であった神田川に沿って設けられた浅草御門や筋違(すじかい)御門(御茶ノ水と秋葉原の間)、それに先述の小石川橋の南詰、小石川御門が、外曲輪に設置された見附の例。小石川橋の対岸、北側が水戸の上屋敷、今の後楽園ってことになります。軍事的な建前としては、浅草見附が江戸城防衛における北東の最前線、ってところでしょうかね。

なお、あたしの地元に近い御茶ノ水駅辺りの神田川が「仙台濠」と呼ばれていたのは、伊達正宗が家康直々に掘削を命じられ、その後数十年の難工事を経て漸く現在の姿にまで造り換えたことに由来、って話です。丘陵部を切り崩して水路や通路(「切通し」と呼ばれる坂道)を築いたという場所は東京中に残ってるんですが、そうして生じた土砂もまた、多くの埋め立て工事に有効利用されました。「築地」というのは元来埋立地を意味する普通名詞だったりもして。
 
万延元(1860)年刊『萬延江戸図』より



この辺、ほんとにあたしの地元なんですけど、左上、北西端に「水戸殿」とあるのが、今は後楽園・東京ドームとなっている水戸家の上屋敷で、その右下方、神田川に架かっているのが水道橋です。その東側の部分、北岸の湯島聖堂(昌平黌)の下を東西に流れる部分、今日御茶ノ水駅のホームが北面する一帯が件の「仙台濠」で、お茶の水橋はその聖堂の左下方、南西に位置します。駅を挟んで東隣に位置する聖橋ともども、近代以前にはまだ架かっていなかったということで。

実は、水道橋同様、その東に並ぶ橋は少なからず現在と位置や名称が異なります。水道橋の東には「昌平橋」まで橋がないかと思うと、そのすぐ東には「筋違(すじかい)橋」があるという具合。川に対して斜めに架かっていた故の呼称……らしい。南の橋詰にあるのが「筋違御門」なのですが、今は橋ともども消滅しており、秋葉原から神田方面に通ずる「万世橋」(当初は「よろずよばし」)は、これよりかなり東寄りに造られたってわけです。さらに東方向を見れば、順に「和泉橋」、「新シ橋」(「アタラシハシ」と表記)、「浅草橋」(および「浅草御門」)、そして大川に注ぐ神田川河口に「柳橋」、という按排になってます。
 
                  

おっと、見附の話でした。またも放恣極まる逸脱に堕してしまい、かくも長くはなり果てたる仕儀にて、懲りもせず続きはまた次回ということで。

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