さてその「御門」の形状ですが、警備のための見張所というにとどまらず、結局はその必要もないまま明治に至ったとは言え、攻め入る敵の進行を滞らせるための、「枡形門(ますがたもん)」という軍事施設の体とはなっていたのでした。
濠に架けられた橋の内側、つまり城側の橋詰に、大抵は2つの門が、石垣を巡らした方形の空間、すなわち「枡形」を挟んで直角に、あるいはお互い斜向いとなるように設けられ、否応なく進路が曲げられるという仕組み。寄せ手がまごついてる間にやっつけようてえ工夫です。例えば、桜田門を警視庁方面から入ると、すぐに右へ曲がり、さらに大きな門を通って皇居外苑に至る、という具合になってますけど、それが枡形門の例。
(外)桜田門 |
で、元来は要塞であった江戸城の外縁たる外濠(およびその延長である神田川)に架かる橋についても、それぞれ内側(城側)の橋詰にはその枡形門が設置されていたのでした。まず橋詰の真際に接する「高麗門」という様式の小さいほうをくぐると、四角く囲われた枡形があり、多くは左右いずれかに進路を移して、二階建ての「櫓門(やぐらもん)」を通った後に、漸く御門内と呼ばれる屋敷街に出られる、という形になってたんです。
枡形門(皇居の大手門) |
エリート級の大名・旗本の屋敷とか町奉行所を訪ねる場合、多くの市民はその二重の門をくぐってたってことになりましょう。絵図で確認し得る限りでは、常盤橋門の櫓門は橋詰の高麗門を入って右直角方向にあり、数寄屋橋門は左、間の呉服橋門と鍛冶橋門は2つの門が平行、というように見受けられます。
常盤橋門/呉服橋門 |
鍛冶橋門/数寄屋橋門 慶応元(1865)年改訂『大名小路繪圖』より |
2つの門の設置角度や、大小いずれが城郭の内側または外側になるかなどは、枡形が「虎口(こぐち)」すなわち城の開口部の内側に設けられる「内枡形」か、外側に張り出すように築かれる「外枡形」かといった、当該の軍事的要因、状況に応じて決るようです。直角式は内枡形の、食い違い式は外枡形の特徴とのことですが、確かに、ウェブで幕末・明治の写真を見ると、北の常盤橋と南の数寄屋橋の高麗門は、橋際が密着する濠端に位置し、枡形はその背後にスッポリ納まっているのに対し、間の呉服橋と鍛冶橋では、枡形が少し(半分ほど?)濠際から外に突き出すようになっていて、その分橋際および高麗門も濠の側にはみ出る形になってはおります。
常盤橋御門(北端) |
呉服橋御門 |
鍛冶橋御門 |
数寄屋橋御門(南端) |
前二者の櫓門は橋から見て横向きに建っており、後者のそれは高麗門の正面方向にあるのですが、出入り口の位置が食い違っているかどうかまでは見えません。後者の場合、橋から見た枡形の前部は左右が濠に面していることになるため、どのみち側面に門を設ける余裕はないわけですが、絵図に描きこまれた図では、大絵図のみならず、それよりかなり縮尺の大きな切絵図でも、枡形と濠際の位置関係は明確ではありません。こうした写真を見なければ、内枡形か外枡形かの峻別はまず不可能でした。ネット社会の効用。
蛇足ながら、「皇居正門」、かつての「西丸(にしのまる)大手門」は、本来外枡形様式であったものが、明治期に外側(橋側)の高麗門を撤去し、奥の櫓門だけになっているということです。濠に突き出していた枡形は石垣部分だけが残り、壁も取り払われているので、奥まった櫓門もよく見えるという塩梅。江戸時代の西丸大手橋に代って明治に架けられた「皇居正門石橋」(俗称二重橋)は、取り払われた高麗門よりは幅が広く、壁のなくなった枡形の石垣一杯近くまで拡げられております。
西丸大手橋(明治期) 後方が「西丸下乗橋」(二重橋) |
皇居正門石橋 |
因みに、二重橋ってのは、その石橋のアーチが2つ連なっているための名称だと勘違いする人が昔から多いのですが(自分も子供の頃そうでした)、その後方にある鉄橋と抱合せの呼称、というのも俗解の慣用化に過ぎぬとのことで、ほんとはその奥のほうの「正門鉄橋(てつばし)」こそが別名二重橋、というのが正しいらしゅうございます。
半蔵門(麹町御門) |
現代の半蔵門 |
現在の鉄橋は前回の東京オリンピックのあった1964(昭和39)年に造られたものだとのことですけれど(どうしてもビートルズ世界デビューの年ってのが真っ先に思い浮かんでしまう)、いずれにしろ、かつてはその場所に木造の「西丸下乗橋(げじょうばし)」があり、それが、濠の深さの故、橋桁が上下二段構えの二重構造だったために、江戸時代から別称として二重橋と呼ばれてたってんですね。現状ではすんなりした鉄橋なので、既にその「二重」は意味を失っているというのが実情。
いずれにしろ、この辺りの門や橋って、明治以前はマル秘っぽく、絵図には一切表示されておりません。今だからこうして能書きを垂れることもできるって寸法。
蛇足ついでに今ひとつ。前回触れた和田倉見附の高麗門、つまり橋際側の小さいほうが、戦時中に焼失した半蔵門の代りにそこへ移築されているという話です(これはウィキのカラ知識)。
何にせよ、この橋詰の見附というのもかなりの面積を占める存在であり、こうした門のある地点では、その分どうしても道が狭まることになるため、通行の便宜上、たとえば町奉行役宅など、門に近接する角地の屋敷は、しばしばその角が削られた形になっていました。門を迂回するように道が拡げられていた、ということでしょう。
再び慶応元(1865)年改訂『大名小路繪圖』より |
それはそうと、古今東西、都市というものは元来それ自体が城塞であった、ということを、以前養老孟司その他の著述で読んだんですけど、なるほど、江戸の町も、少なくとも外曲輪、または二ノ曲輪の内側は、すべて軍事的発想の下に築かれていたような印象はあります。実際にはついぞ敵が攻め入ることもなかったし、慶応4(1868)年にもし官軍の総攻撃を受けてしまっていたら、果してそうした戦国的防御策にどれほどの実効があったのかもわかりません。何せ火器類の破壊力は江戸の初期とは隔絶したものになっていたでしょうから。わかんないけど。
それでも、基本的な構造としては、内曲輪、二ノ曲輪、外曲輪が城の中枢を二重三重に取り巻く形であることに違いはなく。まあ、周縁部の住人は城壁代り?ってほど無慈悲だったとも思いませんが、外曲輪の東には大川があり、それが防衛線の東端とも見られ、つまり外濠の外側に当る今の中央区や港区、新宿区もまた城郭の延長上に属するという具合。
てことで、漸く本論へと立ち戻り(決して忘れてたわけでは……)、「中町奉行所」の所在地や、その存続期間における各奉行の名称の錯綜について申し述べる所存……ではありますが、一区切りついたところなので、それはまた次回。
それにつけても、今さらのようにつくづく思うんですが、こんなことをやって暮してられるのも、会社クビんなってよんどころなく自宅で稼ぐようになったからではあります。それだけに金欠症状はいよいよ甚だしく、正常な感覚ではむしろこんなことやってる場合じゃない、ってことになるのも重々承知。そんなこと言ったって駄目なもんはどうせ駄目なんだから、っていう居直り方式が我が流儀、とでも言っとくしかないような。
そう言えば、あの日葡辞書の編者も、キリスト教に対する迫害がひどくなり、布教活動が停滞したために時間的余裕が生じ、それで校訂作業も捗った、てなこと書いてました。何かと引換えでなければちょっとでも望ましい結果は得られないということでしょうか。
今自分のやってることが果して自分にとって望ましいことなのかどうかは、自分自身にも謎ではありますが。
ついでなので、今回の終りにその日葡辞書の原題を示しておきます。改行は原記のとおりですが、最初の2行だけ大きな活字になってます。2行目は1行目より小さめですが。
VOCABVLARIO
DA LINGOA DE IAPAM
com a declaração em Portugues, feito por
ALGVNS PADRES, E IR-
MAOS DA COMPANHIA
DE IESV.
岩波書店刊『邦訳 日葡辞書』の扉には、原本の表紙の写真が載せてありまして、以下がその和訳なんですが、最終行の「日本語辞書」が、ポルトガル語の最初の2行に対応するという次第。やっぱりそこだけでっかい文字になってました。
イエズス会のパアテレたち及び
イルマンたちによって編纂
され、ポルトガル語の
説明を付したる
日本語辞書
「パアテレ」とは司祭のことで、「バテレン」ってのと同じ。今は普通「パードレ」って言いますけど。「イルマン」はその補佐役とのことで、ここでは日本人キリシタンの協力者を指す模様。なお、‘irmão’のアクセント符合がないのは、大文字表記だからでしょう。それは他の大文字部分とも共通。当時のこととて‘U’も‘V’も等しく‘V’になっちゃってますが、やはり大文字だからってこってす。日本語音の表記には小文字でも「ウ」に‘v’を当ててたりするんですけど、それは可読性のための工夫で、音韻の差異を表すものではない、ってことは以前申し上げたとおり〔上でリンクした記事をご参照くださいませ〕。
……てことで、今度こそ失礼致します。
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