2018年4月13日金曜日

町奉行あれこれ(12)

突然ですが、実は私、先般随分と高みから論難致しました『図説 江戸町奉行所事典』を立読みする5年前、今からだと30年あまり以前の1986(昭和61)年に、「古地図史料出版株式会社」という企業の存在を知り、東久留米の住所を頼りに、西武池袋線沿線に住む友人を付き合せて、直接訪ねてみることにしたのでした。

てっきり小さくても会社然とした建物かと思いきや、一帯はまったくの住宅地で、該当する住所の辺りにもそれらしきものは見えず、諦めて帰ろうかと思ったほど。でもやっぱり悔しいから当該の番地(と思われる所)に建つ民家の前に行ってみると、入口脇にちゃんとその看板が掲げられているのを発見。応対に出た普段着の年輩男性(社長?)に突然の訪問を詫びつつも、しっかり幕末の切絵図の復刻版セットってのを購入し、ホクホクしながら帰途についたのでした。

「切絵図」ったって、切り絵じゃありません(付き合ってくれた友人を含め、ときどき勘違いする人もいますので)。江戸、と言っても23区のほんの中心部だけですが、その全体を示した絵図(道路・区画地図)を、地区ごとに切り分けた体の、言わば各「区分地図」が、つまりは「切」+「絵図」ってこってす。なお、「幕末」と括ってはいても、改訂の時期は絵図ごとに開きがあり、前後数年分にわたるセットではあります。

さて、そのときは2万円しか持ってかなかったので、ほんとはもっと古い時代のものも欲しかったんだけど、カタログも貰ったことだし、後はじっくり選んでから、ってことで大人しく帰宅。結局その後2回にわたり、通販(まだ郵便の時代です)でさらに数万円分、すべて江戸および東京の古地図を入手することにはなりました。今の貧寒極まる我が身にはとても信じ難い豪儀な散財。まだ二十代で安月給ではあったけれど、普段は文庫とレコードぐらいにしか金は使ってなかったもので(もうCDが普通の時代ではありましたが)。
 
                  

それはまあいいや。で、その後も、たまたま三省堂の入口で叩き売り(?)してるのを見かけて買ったのもあったりして、切絵図ならぬ江戸の大絵図は寛永(17世紀前半)から、このところ文中に掲示しております万延元年(1860年:桜田門外の3月3日はまだ安政7年)のものまで、計10枚持ってんです(おもちゃを自慢する幼児のような……)。でも最後の万延版の1つ前は、前々回言及しておりますが、版元は別ながら前年の安政6年のやつなので、時代的には9段階。なかなかこっちの都合どおりに売ってはおりませぬで。

それもまあいいや。ぜんたい何の話だったかって言うと、その頃に道楽で買っといたこれらの絵図のことを思い出しまして、町奉行の役宅が頻繁に移動した元禄後期から享保初期にかけての区画情報を確かめんがため、昨年の暮に殆ど20年ぶりで広げてみたのでした。惜しむらくは、肝心の中町奉行所(ほんとは単に町奉行が3人いた時期の各役屋敷の「任意の」1つなんですけど)が記されている筈の元禄末から享保初年の絵図が欠けておりまして、それでもその前後の状況は視認可能、という状況。

それが、例の『国会図書館デジタルコレクション』サイトにはその間の絵図も多数掲げられているってことに気づき、いずれじっくり覗いてみようと思いつつも、あれやこれやでなかなか実行には至らなかったところ、2017年1月、漸く半日がかりで1枚ずつ確かめることができたという次第。で、その中の1枚、『江戸絵図元禄十四』とのタイトルを付されたファイルを見てみたら、30年以上前に自分が買った元禄6(1693)年の絵図では鍛冶橋門内の南側にあった「坂部三十(郎)」の屋敷が、だいぶ北側の区画に移動しており、翌年の新設町奉行所は、つまりその跡地で間違いなかったってことが判明……というような経緯でしたのよ。

そのページ(コマ番号2/3を参照)、東が上になっており、十字形の折り跡で4つに分れる右上の一角、絵図全体の中心に近い、縦線のちょっと右、横線のすぐ上にあります。「坂部」の「部」は「ア」に見える略字(部首の「阝」だけを示す書き方)、「三十郎」の「郎」も「ら」のような略字です。左(北)側には「吉良上野」の名も見えます。
 
                  

でもこれ、件の事典が言う「鍛冶橋北寄り」という感じではなく(思えばこの「寄り」って言い方が曖昧なんでした)、またイラストに示された新規南町奉行所と同じ位置でもなく(その図もかなり杜撰なので同じかどうかも微妙)、その移転後の南町奉行役宅の1つ北の区画、より明確に言うなら「鍛冶橋内の呉服橋寄り」とでもなりそうな場所。それは同時に「呉服橋内の鍛冶橋寄り」と言い換えることもできるのですが、南の鍛冶橋と北の呉服橋、そのそれぞれの門内、つまり外濠のすぐ内側(城側)に当る各区画の、ちょうど中間を占める区切りの中にその坂部三十郎の名が見える、ってことなんです。
 
 
『図説 江戸の司法警察事典』(1980年刊行の旧版)の図から当該部分だけを掲示
 
まあ、(時代により変りますが)南北(左右)に3つ並んだうちの真ん中の区画とは言え、その南東の端、つまり鍛冶橋に近いほうがこの坂部邸跡、中町奉行所の所在地なので、どちらかと言えば「鍛冶橋内の呉服橋寄り」ってほうが穏当ではありましょうが、いずれにしろこの『町奉行所事典』のイラストとは明らかに食い違っております。それもその筈、「中町奉行所」ってのがそもそもその時々の位置関係による(後世の)俗称に過ぎないのだから、元禄15(1702)年時点における新規町奉行の新設役屋敷の話をしていながら、それとは異なる時期の図を示したんじゃ、どうしたって齟齬が生じるってもんじゃござんせんか。すぐにはそこに気づかなかったこのあっしに落ち度があるんでござんしょうかねえ。
 
                  

その、図版にまつわる錯綜についても後ほど述べる所存ではありますが、このときまた三省堂の立読みで確認したところ(その後、近所の真砂図書館で閲覧どころか旧版なら借り出すことも可能、ってことに気づくのですが)、文章部分による説明では
 
〈鍛冶橋北寄りの坂部三十郎の邸跡に中町奉行所を造り……〉
 
となっており、その後に
 
〈現在の丸の内一丁目八重洲橋西詰の南角、東京駅八重洲口構内左側である〉
 
と続くんですよね。「邸跡」の前に「の」が付いてたんでした。これは記憶違いではなく、単純な不注意によるものだったんですけど、するとこの「邸」、てっきりその前の「坂部三十郎」にくっついて「テイ」と読むのかと思いきや(だからうっかり「の」を飛ばして憶えてた)、さては「やしき」と訓じろってことだったか。でもやっぱり「さかべさんじゅうろうのていあと(ていせき?)」って読むのかも知れず、そういうところもはっきりしねえ本なんだなあ、ってことを今さらながら痛感しとります次第。

いや、そのことじゃなかった。問題はこの文の後半、「現在の……」ってほう。これまでは特に気にもとめず、だから記憶もしていなかったんですが、これも何気なく妙な記述ではあります。「現在」と言いながら、何十年も前になくなっている「八重洲橋」なんてもんを平然と記してるって時点で、「こりゃやっぱり参考にならんわい」って思っちゃうじゃありませんか。

呉服橋と数寄屋橋までの外濠は戦後ほどなく埋め立てられ、当然その濠に架かる橋も今では交差点の名前になっちゃってるわけですが、呉服橋や鍛冶橋、それに数寄屋橋とは異なり、近代以前にはなかった八重洲橋なんざ、「八重洲通り」とは言ってても、その橋の名で呼ばれる地点は「現在」ありませんぜ。ひょっとして自分が知らないだけかと思ってウェブ検索しちまったじゃねえかよ。ちっ、無駄な手間をかけさせやがる。

著者の笹間良彦は、1916(大正5)年下谷生れ、2005(平成7)年没ってことなので、当人の若い頃には1925(大正14)年に架けられたというその八重洲橋は当然現役。しかし1948(昭和23)年に濠は埋められ、橋も消えちゃってんだから、それから40年以上も後の90年代(同内容の旧版は80年刊行でしたが)に〈現在の八重洲橋〉って言われたって、「何のこったい」って思うが道理でげしょ。〈八重洲口構内左側〉ってのはまあ「八重洲口に向って左側」、と言うより「八重洲南口の辺り」ってことなんだろう、との見当はつけられたとしても、名実ともに消滅して何十年にもなる八重洲橋の西詰の南角を「現在の」ってんじゃ、そりゃあぁた、話が通じませんぜ。

その〈八重洲橋西詰の南角〉、〈八重洲口構内左側〉ってのが、元禄14(1701)年の絵図にある坂部三十郎の屋敷の位置とぼんやり合っているかとは思われるものの、〈東京駅八重洲口構内左側〉ってのがまた念の入ったる曖昧さ。駅の「出入り口」の「構内」ってのがそもそも妙なら、「左側」たあ恐れ入るじゃござんせんか。どっちの方角を向いてるのかわかんなきゃ、右も左もあるめえ、って思うあっしがヘンなんですかえ? でもやっぱり〈構内左側〉が〈西詰の南角〉のことだとはとても容易には気づかぬし、その「構内」でいったい東西南北どっちを向いての「左側」だってんだか。当初は何気なく読み飛ばしちゃったけど(本気で読んでたらちょいとムッとしたかも)、改めて見てみると、図と同様、実にいいかげんな記述だったんですね。ダメじゃん。

因みにその八重洲橋、ハナは1884(明治17)年に架橋され、この笹間氏が生れる2年前の1914(大正3)年、東京駅開業に際して撤去されていたとのこと。迂闊にも(?)「現在の」って言ってる八重洲橋は二代目だったってことになるわけですが、いずれにしろ「今現在」は道路にも橋名が残っていない上、江戸の昔にはただの一度も架けられたことのない橋なんですぜ。そんなもんを引合いに出されたってねえ。ま、生きてりゃ百歳を超えようてえ仏に文句言ったって詮無きことは先刻承知。

参考までに、その近辺の新旧を示す図を掲げときます。
 
元禄6(1693)年刊『江戸宝鑑の圖大全』より
Googleマップ 東京駅周辺
 
「坂部三十郎邸跡」が中町奉行所てえこたねえだろ、っていうあたしの勇み足を謝罪するとか言いながら、どうも逆切れ的な太え態度を見せちまって面目ござんせん。でもこれ、発端はやっぱりその笹間先生の誤記または不用意によるものであり、そもそもこの拙文自体の趣旨が、その『江戸町奉行所事典』の杜撰さを論うところにあったわけですから、いつもどおりの太え態度を取ってるからと言って、何ら本末転倒には当らず、って居直っとくことに致します。

主旨ったって、町奉行やその役屋敷についてのこの駄文自体が、もともとは日本語あるいは東京語の発音についての話から逸脱した結果であったことは忘れちゃおりやせん。それをさらに何重にも逸脱した挙句、漸くこの町奉行ネタまで引き返して来た、ってところなんですよね。だから何だと言われれば、毎度変らずそれまでのことではございますが。
 
                  

てことで、次回はこの笹間良彦著『図説 江戸町奉行所事典』に対する無礼極まる言いがかりを再開。それに当って、基礎情報の如きものを改めて整理、確認しておきたいと思っちゃいましたので、ひとまずそれを書き連ねる所存。これまでに述べたことと重複する部分もあるかとは存じますが、自分でも何をどこまで書いたかちゃんと憶えてはおらぬもので……。あまりにもあちこちで道草を食い過ぎた報い。わかっているなら初めから食わなきゃいいのに、とも重々承知。

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