2018年4月25日水曜日

町奉行あれこれ(25)

さて、……という書き出しも使い古しでちょいと気は引けますが、ともかくも言いがかりの続きを。

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前回さんざん文句をつけた③の図ってのは、〈享保二年版分道江戸大絵図による南・中・北町奉行所の位置〉っていうやつなんでした。つまり図中の《北》(本文では《中》)が鍛冶橋門内(の呉服橋方向へ少し寄った区画)から常盤橋門内に移転した年の絵図に依拠したイラスト。でも示されたそれぞれの位置は、本文とは名称が食い違っている上、その移転前の配置、っていうシュールな図版。
 
 

ひとまずこの名称の古地図を検索してみたところ、「国会デジコレ」には享保6年版のもの(コマ番号2/4および3/4に該当範囲あり)は掲げられているものの、それではとっくに町奉行は2人制に復しております。とりあえずその享保6年のやつ、「書誌情報」の記述は以下の如し:

 タイトル
  [分道江戸大絵図]. [乾]
 著者
  石川流宣 圖
 出版者
  山口屋須藤權兵衛
 出版年月日
  享保6 [1721]

「乾」は「坤」と対になる2枚組の1つめで、言わば本来の江戸の市域、2つ目の「坤」は大川の東、本所・深川を示す図たる由。
 
                  

一方、同サイトで閲覧可能な享保2(1717)年のものには『分間江戸大繪圖』というのが2点ございました。「道」が「間」になってはおりますが、表示される情報としてはそっちのほうがよほどこの③の時期に合致するが道理、ってことでその2つを覗いたところ、その年にあった移転の前と後という、なかなか好都合な2例だったのでした。

つまりその2つ、名称も同じで同年の出版ではあるけれど(版元は別)、1つは《北》(しつこいけど、本文中では《中》)が依然鍛冶橋と呉服橋の間(鍛冶橋寄り……さっきの表現とは視点が逆ってことで)で、今1つはその10年前まで《北》であった常盤橋門内にそれが移動、って寸法。

その1つめ、享保2年の、恐らく年初の状況を示すのが:

 タイトル
  分間江戸大繪圖
 著者
  石川流仙 圖
 出版者
  萬屋清兵衛
 出版年月日
  享保2 [1717]

という版(コマ番号4/5参照)で、もう一方の、《北》(あるいは《中》?)移転後の様子を表示したのが:

 タイトル
  分間江戸大繪圖
 出版者
  須原治右衛門
 出版年月日
  享保2 [1717]

という塩梅(コマ番号5/5参照)。

後者には著者名の記載がありませんが、この年正月22日の午後に発生した「小石川馬場の火事」が、夜半には大名小路にも達したと言いますから、それで《北》(《中》?)が類焼、道三堀を越えた常盤橋に移転することになり、こっちの須原版はその後の状況を表しているものに違いありません。しかし大名小路の前に常盤橋内も焼けちまったってことなので、やはり新築したってことでしょうか。いずれにしてもその年のいつから常盤橋で業務を再開したのかはわかりません。わかんなくたっていいようなもんではあるけれど。
 
                  

1つめの萬屋版について、「恐らく年初」と上で申しましたが、それは、この火事による《北》(《中》?)がまだ鍛冶橋と呉服橋の間に記されているだけでなく、数寄屋橋の《南》が「松野壹岐」、すなわち松野壱岐守助義の名義になっているからなんです。この年の2月3日に後任の大岡越前守忠相へと代っておりますので、それ以前の図ということになるてえ次第。大岡はそれまで能登守であったのが、既に町奉行の職に就いていた坪内能登守定鑑(つまり今言った鍛冶橋と呉服橋の間の《北》だか《中》だか)との重複を避けるため、着任と同時に越前守へ改称したとのこと。

ところでこの松野という御仁、この事典は別として、ウィキでも他の各種サイトでも「松野河内守助義」としか記されていないのですが、「国会デジコレ」掲載の絵図を見る限り、例外なく「壹岐守」なんですよね。気になってまた真砂図書館の『寛政譜』を覗いたら、河内守は壱岐守の前の官名のようでした。大岡との交代も火事の影響かしら……と思ってたら、〈享保二年二月二日老を告て職を辭し、寄合に列す〉ですと。

『大武鑑』をめくっても、宝永2(1705)年、同7年、および正徳3(1713)年の各武鑑に〈町御奉行・寶永元年(ヨリ)・松野壹岐守(助義)・数寄屋橋内〉と表記されております[( )内の語は武鑑によって有無が分かれるということで]。

因みに、3人目の新規町奉行として元禄15(1702)年に就任した丹羽遠江守長守の屋敷については、「鍛冶橋」ではなく「呉服橋内」とか「呉服橋土手通」などと記している武鑑もありました。どちらかと言えば鍛冶橋寄りなんですが、中間地点に近いため、どっちつかずの扱いだったってことかと。いずれにしろ、この事典でも各サイトでも、一貫して「鍛冶橋」としか言ってないんですけど、またぞろ誰か言い出しっぺの記述を言わばコピペし続けてるんじゃないかしらと。古い本を開いてみなければ気づかない意外な事実ってものもあるってことで、ネット社会の簡便さに流されちゃいけねえな、ってちょっと思ったことでした。

ついでのことに、上記2つの『分間江戸大繪圖』における各町奉行の異同をまとめますと、「前期」の萬屋清兵衛版では:

 数寄屋橋内  松野壹岐 
 鍛冶橋内   坪内能登
 同呉服橋寄り 中山出雲
 
須原治右衛門版では:

 数寄屋橋内  大ヲカ越前(かなりのくずし字)
 鍛冶橋内   坪内ノト
 常盤橋内   中山出雲

という具合。同じ享保2年の絵図ですが、数寄屋橋の《南》(これも本文中では《北》)の主が松野から大岡に変っているのに加え、この年の何月以降の状態なのかはわからないものの、《北》(《中》?)の中山が呉服橋と鍛冶橋の間から常盤橋へ引っ越しているという次第(ほんと、それがどうした、ってところではありますが)。
 
                  

さて、『分間江戸大繪圖』の「分間(ぶんけん)」は、縮尺を統一した正確な距離の表示を意味し、一方の「分道(ぶんどう)」は観光案内を主眼にした図とのことで、著者たる「圖工 石川流宣」(萬屋版の「分間」と同じ)による解説文(?)の末尾には〈江戸案内巡見圖鑑とも云へき歟〉と書かれております。

いずれにしても、「分道」のほうの「享保二年版」ってのは、とりあえず「国会デジコレ」には見当らず、「国立国会図書館サーチ」というサイトで検索してもその年発行のものは示されません。残っていないだけ、ってこともありましょうけれど、じゃあどうしてこの事典を書いた笹間氏はそれに「よる」イラストを描くことができたのか。あたしゃ「間」と「道」を取り違えただけなんじゃないかと睨んでるんですがね。いや、わかりませんけど、そもそも町奉行所の位置を示す図を作成するのに、住居・道路地図ではなく、わざわざ観光案内に「よる」こたないでしょうに。

……ったって、この人どのみち絵図の内容には用がなく、単に区画表示の参考に使っただけだからそんなのどっちでもよかったのか。ならなおのこと、なんで宝永でも正徳でもなく、享保2年なんていう、番所の位置にとっては過渡期となる年の絵図をわざわざ手本にするかねえ。ああ、中身は関係ないからやっぱりおんなじことなのか。じゃあいっそのこと、全図を同一の縮尺、表示範囲で作りゃいいのに……って、またしても無益なことを思ってしまうあたしの異常さよ。って、自分で言ってりゃあ世話ぁねえか。

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気を取り直しまして、③図についての索然たる言いがかりはひとまずこれまでと致し、次回はこの時代、すなわち町奉行が3人制だった十数年間における各奉行やその役屋敷について、主に「国会デジコレ」の少なからざる絵図から得た知見をまとめてやろうかと目論んどります。この事典のみならず、ウィキを始めとするウェブ上の記述もまた、思った以上に当てにならないのがいよいよ明らかになっちゃいましたので。前回予告した検証結果(?)の開陳ってやつも、それで漸く果たせるのではないかと。

ネットの情報って、最初に誰かが不確かなことを掲げ、とりあえずその反証も見当らないとなると、何やら一瀉千里って感じでそれが拡大再生産され、いつの間にかそれしか見ることができなくなってしまう、ってな傾向があるような。図書館がこれほど頼もしいものだということにも、若い頃は一向に気づいてはおりませんでした。

だから何?って言われりゃ、やっぱりそれまでですが。

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