2018年4月26日木曜日

町奉行あれこれ(26)

「国会デジコレ」(『国立国会図書館デジタルコレクション』っていうサイト名を勝手に短縮)で見つけた「中番所時代」前後の絵図を見ていて明らかになったことどもを、相も変らず漫然と書き連ねることに致します。出版年度は飛び飛びで、かつ同じ年の絵図が複数掲示されていたりもするのですが、その中からいくつか任意に選び、それぞれにおける各奉行(所)の表記を以下に示してこうてえ魂胆。

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まずは、《中》〔中(の御)番所=中町奉行所……を勝手に略記〕が現れる前段階、寛永前期(1630年代)から数十年間、《北》こと常盤橋番所と《南》こと呉服橋番所が、道三堀に架かる銭瓶橋の両橋詰付近に、言わば隣り合っていた状態から、元禄11(1688)年、「勅額火事」の影響で、呉服橋の《南》が鍛冶橋内の北側区画、それまで保科邸と吉良邸が南北に隣接していた敷地に越した後の様子を示す絵図から(長くてすみません):

●元禄12(1699)年発行 江戸大絵図(コマ番号2/3参照)(仮称? 書誌情報では「江戸大絵図元禄十二年」);板屋弥兵衛版
 鍛冶橋内     町御奉行 松前イツ
 呉服橋内(南側) キラカウツケ
 常盤橋内     保田エチゼン 町御奉行ヤシキ
*南→北の順です。色付きの文言は町奉行以外の参考情報……のつもり。以下同。

「イツ」は「伊豆」、つまり「松前伊豆守」で、この前年の火事で呉服橋からこの鍛冶橋に引っ越したんですが、その前にまず鍛冶橋の保科が麻布へ、吉良が元松前屋敷のすぐ隣、呉服橋門内の南東角へ転居してたってことです。文字で書いても何だかよくわかりませんけど、リンク先を覗いてくだされば。

因みに常盤橋内の《北》=保田(やすだ)屋敷から道を隔てた北西側の外濠沿いに、当時随分と権勢を誇っていた「柳沢出羽守」の名が見られます。地元の文京区では六義園(りくぎえん)の殿様としても有名な、元禄時代最大の権力者(六義園、子供の頃に二度ほど連れてって貰ったけど、もう50年近く入ってないや。まあいいか)。

また、鍛冶橋内の南側、すなわち《南》=松前屋敷の向い、元禄6(1693)年の『江戸宝鑑の圖大全』では松平土佐/トサ(土佐藩邸)、永井ユキヱ、伊丹左京、坂部三十と記されている区画には、松平トサ(北)と松平アハチ(南)の2つだけが並んでおり、この配置は幕末まで変りません(先般申し上げました)。前者は土佐藩主の山内氏、後者は徳島藩主の蜂須賀氏で、後者はこの時期の当主、5代綱矩の筈。代々阿波守に叙されていた中で、この人と6代宗員の親子2代だけが淡路守。事情は知りません。どのみち余談でした(全部か)。
 
元禄6(1693)年刊『江戸宝鑑の圖大全』より
(……一応これもしつこく再掲)
 
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次に、この『江戸町奉行所事典』への早まった言いがかりの原因となった、「中町奉行所」が造られたとされる「鍛冶橋北寄りの坂部三十郎の邸跡」が示された図:

元禄十四年江戸繪圖(コマ番号4/5)(これも仮称? 書誌情報では「江戸絵図元禄十四」);貝府屋版
 鍛冶橋内     町御奉行 松前いつ
 同呉服橋寄り   坂部三十郎
 呉服橋内(南側) 吉良上野
 常盤橋内     町御奉行 やすだゑち前

同呉服橋寄り」、すなわち鍛冶橋内と呉服橋の間の区画(の鍛冶橋寄り……すみません)は、この翌年に第三の町奉行、丹羽遠江守の役屋敷、つまり《中》となる場所で、「郎」は「ら」のようなくずし字となっております。

ついでに、常盤橋の《北》、保田越前守屋敷の「だ」は、「太」ではなく「多」に由る仮名になってまして、その北西側、先述の柳沢出羽守の屋敷は「柳さは出羽守」との表記。「は」は原形の「波」により近い字体です(こういうのを今日「変体仮名」などと言いますが、ちょっと失礼なんじゃないかと)。

因みにこの柳沢氏、この元禄14(1701)年後半にはさらに出世し、松平という名誉苗字に加え、犬公方綱吉の諱から一字賜り、保明(やすあきら)から吉保(よしやす)に改名。同時に従五位下出羽守から従四位下美濃守へと躍進してます。時代劇ではよく「柳沢美濃守吉保」って名前で出てきますが、土佐の山内、阿波の蜂須賀などと同様、当主(と嫡子)は以後代々「松平」。「柳沢」は近代以降の法令下での話。何もこんな昔の人の名前まで変えなくてもいいんじゃないかとは思いますが、いずれにしろまたもまったくの余談。

余談ついでに、ついまた図書館で確かめてしまった蛇足情報を少々。『寛政重脩諸家譜』には、〈吉保がとき松平の御稱號をたまひ、代々これを稱す〉とあり、『大武鑑』の慶応4=明治元(1868)年の記事では〈松平甲斐守 保申(やすのぶ)〉との表示。それが翌明治2年の最終版では「柳澤甲斐守」に変っているという次第です。薩長新政府により、徳川に「下賜」されていた特例松平は禁止、ってことになったのは慶応4年の初めだったというのですが、『大武鑑』所収の同年版武鑑にはまだそれが反映されていなかったということになりましょう。

ますますどうでもようござんした。
 
                  

さて余談と言えば、やはり町奉行という主旨とは無関係ながら、かねて問題の(勝手に問題にしてるだけですが)「坂部三十郎」について今少し申し上げたいと存じます。

歴代の坂部三十郎の中で恐らく最も有名な、旗本奴として知られた廣利の孫、廣慶が亡くなったのがこの元禄14年正月で、約半年後に名跡を継いだ廣達はまだ幼児である上、三十郎の名は継承せず、安次郎のまま数えの9歳で死去。それが宝永3(1706)年のことですので、「丹羽遠江」が町奉行としてこの場所に屋敷を構える元禄15年当時はまだ満3歳か2歳ということに。

でも本人は「三十郎」じゃないし、この元禄14年における表示はまだ先代の名義を記したものってことなんでしょうか。翌年の新設番所の地所、この事典の言う〈坂部三十郎の邸跡〉ってのが、果して町奉行役宅を建てるために立ち退かせたものなのか、既に引き払った跡に建てることにしたのかはわかりませず。

ついでながら、なにせ小学生ぐらいで亡くなってるんで、当然嗣子なくして改易。でも7年後の正徳3(1713)年に親戚筋から廣保という人が名跡を継承してます。その人もまたその時点では数えで3つの幼児(へたすっとまだ満1歳の乳児)だったんですが、系図上は先代の養子であり、親のほうは子の生れる数年前にやはり子供のうちに他界しているというシュールな世界。何にせよ、こっちの新たな幼君はその後随分と長生きをし、そのまた養嗣子、廣高氏はエリート旗本に大出世。大名並みの官位官職を叙されて、町奉行も務めました……てなことも、『寛政譜』だの『大武鑑』だのにより既に書き散らしております。

それより「親」の廣達くんのほう。いずれにしろ新規町奉行の丹羽氏がここに居ついた後も、4年ほどは幼い殿様として暮してたんだから、その間の絵図をよく見ればどこかにその名前を記した屋敷はあるんでしょう。「坂部安次郎」になっているとは思われますが。

しかしこの前年、元禄13(1700)年の絵図で同所を見ると、「坂部ハリマ」との表示(「部」は「坂部」の表記と同様、やはり「阝」のくずし字)。年明けに二十代で亡くなる父親の広慶氏も、後の廣高氏と同じくかなり出世したようで、安次郎から三郎兵衛へ、次いで三十郎へと改名の後、従五位下播磨守に叙されていたのでした。その跡継ぎでまだ無位無官なら「三十郎」に違いあるまいと、絵図の作者が早合点したものか、それとも後世の『寛政譜』の情報のほうが不正確で、先代の死去とともに代々受け継がれていた「三十郎」を、実はこの幼き安次郎くん(既に廣達?)も自動的に襲名済みだったということなのか……。しつこく探ればわかるかも知れませんが、只今のところはこれぐらいにしときます。

そのまた前年、最初に挙げた元禄12(1699)年の『江戸大絵図』では、その場所に名前の記載はありません。百年以上後に編纂された『御府内往還其外沿革図書』が、「元禄十一寅年十一月之形(コマ番号54/130)」で「割残地」としているのと符合致します。やはりその年9月の勅額火事の後、1年ばかりはどこか別の場所に移っていたのでしょう。それもよく探せば見つかるかも知れないけれど……やっぱり今は敢えて閑却。切りがないのは自分でも重々承知しておりますので。

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気を取り直しまして、「国会デジコレ」所載の絵図からまた1つ:

●宝永4(1707)年発行 『江戸全圖(コマ番号5/5)』;須原茂兵衞版
 数寄屋橋内  松ノイキ
 鍛冶橋内   坪内ノト
 同呉服橋寄り ニハ遠江

残念なことに、このサイトで閲覧できる絵図は、前掲の元禄14年版の後、この宝永4(1707)年までの5年分が欠けております。
 
                  

数寄屋橋の松野壱岐守はこの3年前の宝永元年に、既出の図で「保田エチゼン」だの「やすだゑち前」だのと表記されていた常盤橋の町奉行、保田越前守の後釜として就任したので、屋敷も当然そこだったのが、この宝永4年の火災で数寄屋橋に移転し、その結果《北》が《南》、《南》が《中》、《中》が《北》へと呼称が変った……筈なんですが、何度も申しますとおり、この事典の本文では、図の説明句とは裏腹に、名称は変更されなかったため実際の位置関係との間に齟齬が生じた、ってことんなってんですよね。

加えて、その前のページにある「町奉行歴任表」の氏名に付された(北)だの(南)だのがまた一部混乱しており、なんかもう3段構えの交錯って感じ。そもそもそういう食い違いこそが、かくも長くこの事典への難癖を続けるきっかけとなったのではありました。

各サイトで「2代目中町奉行」とされている坪内能登守も、初代丹羽遠江守の後任でもなければ、役宅や役職を他の奉行と交換したなんてこともなく、一番北にあった常盤橋の番所が一番南の数寄屋橋に引っ越したためにお互いの位置関係が変っただけ、ってこともこの絵図が示すとおり。それを、いちいち「北町奉行(所)」だの「南町奉行(所)」だの「中町奉行(所)」だのという「名」に拘り、「実」のほうを軽んじるもんだから、無益極まる錯綜に陥り、かつその混乱を自覚することもないまま、明らかに矛盾した記述を掲げ続けているのが、この町奉行所事典および多くのサイト記事(その各々が互いに撞着)、ってことなんでした。わけてもこの事典は、言わば3方向からの齟齬(本文、図版、歴任表)により、一見詳細であるが故にわけのわかんなさもまた一入って感じ。
 
                  

それはそれとしてとりあえず話を続けますと、この宝永4年というのは、八百年ぶりに富士山が噴火し、それに伴う地震や降灰などで江戸もかなりの災難を被った年だったのでした。噴火の影響で新たに側火山というのもできちゃって、それが宝永山てえ次第(寺の山号のようですな)。この年、江戸では火災も多く、『江戸火災史』という、これも図書館で見つけた40年あまり前の本をめくったところ、正月早々に4件(最初の2件は15日と16日の連日)、3月と8月に1件ずつ、12月にも2件発生しておりました。

ウィキぺディアの「町奉行の一覧」を見ると、松野壱岐守が「北」から「南」に変ったのは(あとの2人の称呼と同様に)この年の4月22日らしいんですが、数寄屋橋内に移ったのは9月との記録もあるそうで(いずれも典拠は不明)、『江戸火災史』に記された出火場所や被災地域から推すに、常盤橋番所の類焼はどうやら、日本橋地区(常盤橋の北東方)が火元という3月8日の火事によるものではないかと。1月の4件中、16日の四谷と29日の麻布を除くと、15日と20日の2件も火元は同じく日本橋北東の町地なんですが、延焼範囲が最も常盤橋に迫ったのが3月のやつだった由。

まあ、ほんとはいつの貰い火だかわかんないんですけどね。いずれにしろ8月のは拙の地元である小石川から白山にかけての火事だというし、暮の2件ともども、4月22日という日付から見てもそれは無関係ではないかしらと。常盤橋の屋敷がダメんなった後、松野奉行は一旦内濠沿いの「高倉屋敷」というところで仮営業していたということなので、その4月22日ってのは数寄屋橋に移った日付ではなく、その高倉屋敷で業務を再開した日ってことなんでしょう。あるいは被災後すぐにそこへ避難はしてたのかも。相変らず何ら確証は得られませぬが。
 
                  

因みに「高倉」ってのは、装束の故実における家元のような公家の名で、山科家とともに室町以来の権威とのこと。元来この2家は職掌を分けていたのが、やがて競合するようになり、それぞれ「高倉流故実」だの「山科流故実」だのという流派を立てるに至った、とかいう話です。

近世には、山科家が言わば天皇専属のスタイリスト、高倉家は主に上皇と将軍がお得意さん、ということで落ち着いていたものの、いずれが流行るかは時期によって変り、この時分はどうも高倉流の羽振りがよかったらしい。それに慢心したのか、ほどなく独創性を押し出した山科流に後れをとることになる……てなことが、『國史大辭典』に書いてありました。これも真砂図書館でつい覗いてしまった。

とにかく、将軍の担当は高倉家ってことで、京の都から師範として、あるいは德川家への参候のために江戸へ下向の折、その宿泊所として用意されていたのが、この高倉屋敷だったってんです。普段は儒学者の講演会場などとしても利用されてたんだそうな。
 
                  

ときに、その当時数寄屋橋門内は堀大和守親賢(ちかかた)という小大名の屋敷になってまして、やがてそこを召し上げられて南番所の敷地にされたってわけですが、『寛政譜』によれば大和守叙任は元禄10(1697)年、まだ中学生ぐらいだった勘定になります。その『寛政譜』では触れていないものの、その翌年だか翌々年だかに、側室と用人に対する邪推から「牛之助騒動」と呼ばれる陰惨な事件を惹き起こし、その後家臣数十名に団体で去られるという因果な殿様なのでした。正徳5(1715)年、大坂城出向中に満31歳で死没、とのことですが、実は中風だったとの話もあります。勘違いによって上意討ち(?)にされた件の用人、牛之助(苗字は?)と、そのために「狂死」したというその母親の祟りか、って噂もあったりして。
 
                  

まあそれはさておき、町奉行の役屋敷(役宅)、すなわち御番所(町奉行所)は、いずれもかなり頻繁に類焼しており、たとえ移転には至らずとも、建て替えられることは結構多かったようではあります。享保2(1717)年正月の火事で、前回言及した丹羽遠江守の後任である中山出雲守の屋敷(とっくに《北》の筈ですが、この事典の本文によれば《中》ということに)が類焼し、初期の《北》の位置、常盤橋に移転した折にも、南隣の区画にあった坪内能登守の屋敷(これもとっくに《南》から《中》に改称されている筈)も被災してました。やはり『江戸火災史』の情報ですが、それでも移転はなかったってことは、まあボヤで済んだってことなんでしょう。

話を10年戻しまして、松野奉行の場合は、数寄屋橋の堀邸跡に引っ越すまで暫くの間、先述の高倉屋敷で執務していたということになるんですが、宝永4年のこの絵図で見ると、その位置は鍛冶橋門内の坪内屋敷(就任後2年目)、つまり《南》のある区画から大名小路を隔てた西隣の区画の北西端にあり、《南》からはわずかに北西の方角ではあっても、《中》の丹羽屋敷からは少し南西に当ります(リンク先のコマ番号5/5を覗いて頂ければと。「高クラヤシキ」と表示されてます)。その間、この臨時の御番所はどう呼ばれていたのでしょう。

4月22日というのは、恐らく3月の火事により、この高倉屋敷が仮の役宅となった日で、その後9月に漸く数寄屋橋に落ち着いた、ってことだと思うんですが、そうすると、南北方向を基準にした場合、1つだけ西に寄っているとは言え、この臨時松野屋敷こそが一時的な「中番所」に当り、鍛冶橋門内の坪内屋敷は依然《南》、呉服橋寄りの丹羽(初代中町奉行じゃん)の屋敷が《北》になる筈。

いや、どのみち公式には各町奉行の役職名でもなけりゃその役屋敷(職場兼官舎)の正式名称でもないんだから、その間の記録がなくったって何の不思議もありませんけどね。てえか、そんなこと誰も気にしちゃいねえだろうし。

何にしろ、小規模な屋敷が建て込み、境目もなく相当数の名前が羅列された区画の端に記されているこの高倉屋敷(「高クラヤシキ」の「高」はくずし字ですね)、当座の間に合せとは言い条、町奉行の役宅としてはかなり手狭なんじゃないかとは思われます。実にどうでもいい話ではありますが(全部)。
 
                  

……と言うそばから、ついまた確かめたくなってしまいました。でもここで一旦区切りを入れます。やっぱり随分長くなっちゃったんで。

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