2018年4月24日火曜日

町奉行あれこれ(24)

やっとのことで、長らく懸案であった「中番所」(いわゆる中町奉行所)新設以後の状況を示した図③について開陳。より現実的には、町奉行を1人増やして3交替制としたのに伴い、その3人目、新規町奉行の役屋敷を便宜上《中》と呼んだだけ、と言うべきかとは思いますが、まあそれはさておき――
 
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③〈享保二年版分道江戸大絵図による南・中・北町奉行所の位置〉

 
……というのがこの図の題目、と言うか説明句。あ、遅れ馳せながら、①とか②とかいう丸数字は私が勝手に付したもので、実際は各図の右に縦組み(5番目だけは上に横組み)で、これまた私が勝手に〈 〉で挟んだ説明句が添えられているという体ですね。
 

この③図(というのもあたしの勝手な言い方ですが)が示すのは、②の状態、すなわち《南》こと呉服橋番所(南番所=南町奉行所)が、1つ南の鍛冶橋内に移ったさらに4年後、元禄15(1702)年に、突然新しく3人目の町奉行が置かれ、その屋敷が「南北」の中間に設けられた頃の様子……なんだろうと思うとさに非ず、ってことに気づいたのは漸く2016年暮。20数年前の三省堂での立ち読みの折には、「なんかヘンだぜ、この図」と思ったんでよく見てなかった、ってことは以前申し上げました

まあそれは多分にあたしの勝手な早とちりではあったのですが、ひとまずこの図の内容からは離れ、この事典の本文や、各種サイトの記述など(互いに多少の齟齬あり)を総合し、各位置の推移を概説致しますと:

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【1】まずは、新規の町奉行に任命された丹羽遠江守の屋敷が、4年前に鍛冶橋内の元吉良・保科邸跡に移された《南》の位置から屋敷1つと道を1本隔てた1つ北の区画、すなわち呉服橋と鍛冶橋の中間に当る区画の南東角(いつの間にかそこに引っ越していた例の「坂部三十郎の邸跡」)に設けられたのが、この元禄15年秋ということになります(相変らず文が長くて恐縮)。暮が赤穂浪士の吉良邸討入り(現行暦では1703年1月)なんですが、前年(松の廊下の年)に、わずか3年ばかりで、《南》と入れ代りに移転していた呉服橋から川向うの本所に越してた、ってこってす。

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【2】その話はさておき、この5年後、宝永4(1707)年には、寛永期から《北》であった常盤橋番所が、鍛冶橋よりさらに南方、大名小路一帯の南東端、数寄屋橋門内に移転(やはり火災によるもので、一旦大名小路西側の区画、内濠沿いの八代洲河岸に仮寓)。これにより、新規町奉行の役屋敷であった《中》が最も北に位置することになり、自動的に呼称も「北番所」になった筈……なんですが、どういうわけか、この事典の本文でも各種サイトの記事でも、「名称と位置関係が混乱」ということんなってんですよね。

あたしも20何年前は迂闊にも「そうだったか」って思っちゃったもんですが、それはたぶん嘘、と言ってまずけりゃ、間抜けな勘違いってことにしてやってもいいけど、恐らくは後世の記述を、何ら校異とか校勘に類する作業も経ぬまま不用意に転記した結果ではないかしらと。そんな大袈裟なことを言うまでもなく、なんかおかしいってことはすぐに知れるし、なんでもうちょっと考えねえかな、とは思いますぜ、やっぱり。ひょっとすると、明らかにおかしい筈のことをハナからちっともおかしいとは思っちゃいねえ、ってことなのかしら。それじゃあどのみち、ちょっとだけだって考えようはねえか。

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【3】まあその話もさておき、さらに10年後の享保2(1717)年、つまりこの③図が「よる」ところの『享保二年版分道江戸大絵図』発行の年には、とっくに《北》と成り果てていた《中》が、これも火災の影響でもっと容赦なく北へ移動し、10年前に一番南の数寄屋橋へ引っ越した元来の《北》の跡地(厄介で恐縮)、常盤橋門内に設けられたのでした。

しかしその享保2年の絵図に「よる」この③図には常盤橋はおろか呉服橋さえ描かれてはおらず、「北町奉行所」として示されているのは(本文では飽くまで「中町奉行所」のままだって言い張ってるけど)、その最終移転前の鍛冶橋内、実は呉服橋と鍛冶橋の中間のちょっと鍛冶橋寄りっていう、件の「坂部三十郎邸跡」。

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……という経緯になるわけなんですが、つまるところこの③図は、3番所時代における都合3段階の配置変更中、真ん中の2段階目を示すもの、ということなんでした。そのぐらい、ひとこと添えてくれりゃいいものを、と未だにちょっと思っちゃいます。

加えて、加藤剛……じゃなくて大岡越前が町奉行の職に就いたこの享保2年ってのは(初め北町奉行で2年後に南町奉行、なんていう与太話はいいかげんやめて貰いてえ)、上記の如く3段階の最終段階に至った年であり、その1つ前の段階を示すなら、どうしてそんな「ギリギリ」の時期の絵図に「よる」んだか。でき上がったイラストも不親切なら、そもそも手本の選択がいちいち妙だぜ、この人、って思っちゃうじゃござんせんか。

まあ「妙」ってんなら、斯く申すそれがしとて断じて人後に落つる者に非ず、ってこたあ先刻承知。すみません。
 
                  

さて、この辞典における町奉行所配置の推移については、以前にも箇条書きにまとめておりましたので、ついでにそれも複写貼付、じゃないや、コピペしときます。もともとは各項目の頭に丸数字を付してたんですが、うっかり今言いがかりをつけてる各イラストにも同じものを使っちゃったので、番号だけは表記を変更。

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1.江戸初期の寛永期以来、常盤橋門内と呉服橋門内(銭瓶橋の北詰と南詰)にそれぞれ北町奉行所と南町奉行所があったのだが、元禄11(1698)年に後者が1つ南の鍛冶橋門内北側へ、吉良(東)・保科(西)の屋敷を上地して移転〔東西ではなく、正確には北が吉良、南が保科の模様〕

2.4年後の元禄15(1702)年には、坂部三十郎の屋敷跡に中町奉行所が新設される〔これが、図版ではその前に越して来た南町奉行所と同じ場所だったので、ついまごついちゃったてえ次第〕

3.次いでその5年後の宝永4(1707)年、今度は常盤橋の北町奉行所が鍛冶橋より1つ南の数寄屋橋門内に移動。これにより北から順に中・南・北ということになり、実際の位置と名称に齟齬が生ずる〔件の図版ではそうなってません〕

4.さらに10年後の享保2(1717)年、中町奉行所が元北町奉行所のあった常盤橋門内に移転〔実はさっきから文句つけてる図版はこの状態を示したものだったのでした……と思ったら、単にこの年の絵図に「よる」ものでした。示されていたのは上の③の状況だったんですが、いずれにしろ「~による」ってのがとんだ曲者で〕

5.その2年後の享保4(1719)年、約20年間鍛冶橋門内にあった南町奉行所を廃止したのを機に、北の常盤橋にある中町奉行所を北町奉行所、南の数寄屋橋にある北町奉行所を南町奉行所へと、それぞれ実態に合せて改称〔でもその2年前の状況を示した筈の上の図版では、実際の位置どおりに北、中、南と表示。だからわけがわかんなかったんです。この段階を示す図は示されてませんし〕

6.87年後の文化3(1806)年にはその北町奉行所が、1つ南の呉服橋門内〔当初南町奉行所があったところ……って言ってるけど、ほんとはそれよりちょっと南〕に移り、以後明治までそのまま。

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……という具合なんですが、なんと、この6項目のうち半分の2から4までがこの図③が示すべき3奉行の時代(「三奉行」って書くと意味が違っちゃって、「寺社」「勘定」「町」の3者ってことに)。わずか17年とは言え、町奉行所の位置関係が最も変動した時期であり、どうせ図示するなら、もうちょっとその辺もわかようにするとか、少なくとも飽くまでごく一時期(中間期)の配置を示すものである、ってことぐらい言やあいいに、って思うあたしがわがままなんでしょうかねえ。
 
                  

えー、この駄文の当面の趣旨は、この図③と、それに呼応すべき本文の記述に対する難癖でありますれば、その本題たる言いがかりを続行しようと存じます。

まず、上でも触れましたが、5つのうち、この図にだけ呉服橋がまったく描かれておらず、その南(左)側しか示されてないのがいかにも落ち着かないところ。いつの何ていう絵図に「よる」ものだろうと、屋敷どうしの位置関係がわかりゃいいだろう、とは承知しつつも、移転や新設によるその変遷を示すためにわざわざ5つも図を描いて載せてんじゃなかったの?との思いもまたもだし難く。それならどうして図示の範囲を統一しねえんだよ、っていう軽い苛立ちも覚えつつ。

こうなりゃもうついでってことで、その5つの図も丸ごと再掲しときます。③は重複ってことんなっちゃいますが、まあそこは悪しからず。
 
 
どうせ自分で作図するなら、何に「よる」んじゃなくて、少なくとも表示範囲の縮尺は一定にするとか、とにかく比較対照が難なく可能となるよう考えるのが前提てもんでしょうが、と思わずにはおられんのです。面倒臭いやつだとお思いでしょうが……って、ちょいとした鶴田浩二気分。

でも他人に何かを説明するってのはそういうこってしょう。空間的な事柄を言語で表すのが至難ってのはよっくわかってるからこそ敢えて言うんですが、折角複数の図を用いながら、その図がどれもバラバラってんじゃ、わかるものもわからねえじゃねえかよ。わからねえおいらが間抜けなのか?
 
                  

まあいいや。難癖を続けることに致しやす。

この図だけでも充分まごついちゃうってのに、本文の説明では既述のとおり、実際の位置関係と名称が食い違い、北から順に「中町奉行所」、「南町奉行所」、「北町奉行所」となっていた、ってことんなってんですよね。それが、図のほうでは当然のように各奉行所が実際の位置どおりに記されており、図②で《南》であったものが、③では何の挨拶もなく《中》になってるかと思うと、文章では飽くまで《中》とされていたものが、これまた平然と《北》になっているという不可解極まる表示。

あたしが前にうっかり、《中》と《南》がまったく同じ位置じゃん、って文句つけちゃったのも、かかる錯綜、不統一により、示された位置を見極める前に「ダメじゃん」って思っちゃったからなんでした。……てのも、まあ言いわけに過ぎぬと言われればそれまでではございますれど、5図中最も表示対象が多い(なんせ御番所が3つ!)にも関わらず、この③図ではいわゆる大名小路一帯の北(右)側が切れており、呉服橋すら示されていないのは既述のとおり。それどころか、「北町奉行所」と記された(でも本文では「中町奉行所」)区画、呉服橋と鍛冶橋の中間にある区画自体が右側を切られており、その「北町奉行所」という表示は図の右端ギリギリに書かれているという状態。だからますます間違えちまったんじゃねえかい。ちゃんと見てなかったんだけどさ。

それにしたって、なんでこういう不親切なことするかなあ。殆ど嫌がらせじゃん。そんな意識は微塵もないのはわかっちゃいるし、なんせとっくに故人ですから、死者に鞭打ったとて……ってなことも、既に申上げてはおりますけれど、こういう一貫性のなさ、論理の甘さってのは、相手が仏だからってそうすんなり許せるもんじゃあ……あ、俺この本買ったわけじゃなかったんだ。勝手なことばかり言ってごめんなさい。

いずれにせよ、(実際にはどうだったかわからない)名称の錯綜は、常盤橋の《北》が最南端である数寄屋橋に移動したことによる結果であり、実際は3つの中で一番北ということになってしまった新規町奉行の役宅も、それと同時に《中》ではなく、実状どおり《北》とするのが本来なら妥当至極。しかるに、何度も申しますとおり、本文ではそれを、種々のサイト同様、享保4(1719)年に至って初めて、この図では《中》となっている《南》が廃止され2人制に戻るまではずっと《中》のままであった、って言い張ってんだから、この図に記された各奉行所の名称はどう足掻いたって撞着の極み。ほんとは図の表記のほうが現実的だとは思っちゃおりますれど。

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③の図については、と言うより《中》以降の④と⑤についても、今回まとめて書き散らしてしまい、それでこの町奉行所ネタは(随分な期間を経て)漸く切り上げられるか、と思ったりもしたけれど、やっぱり1回だけじゃ全部は吐き出せませんでした。

例の「国会デジコレ」に、以前は自分にとって情報が空白となっていた元禄末~宝永~正徳~享保初期、要するに町奉行が3人制だった十数年間の絵図が結構掲げられているのをその後見つけちゃったもんで.それらを勘案して自分なりに至った結論、ってほどのもんでもないけど、とにかく各時点における役屋敷の位置関係が判明したことから、各町奉行の名称について流布する錯綜に対しても、「なんだ、こういうことだったんじゃねえか」っていうあたしの検証結果(なのか?)を、次回は開陳する所存ですので、乞うご期待(一応こうは書いとくことに)。

てことで、毎度どうも

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