さて、その前回の終りに触れました、国会図書館のサイトで偶然見つけた「巻羽織じゃない同心姿が描かれた絵」っていうのは、18世紀後半の黄表紙(きびょうし)、『新建哉亀蔵(あたらしくたつやかめぐら)』の挿絵の1つで、羽織袴姿の町人が2人、町方役人3人を出迎えているという図。1人は与力、あとの2人は同心ってことになりますが、3人とも羽織は全然黒じゃない。もちろんそれ江戸の話です(時事ネタにつき、歌舞伎の時代物のように、鎌倉時代の鎌倉という設定にはなってますけど)。
当該ページの画像をトリムして添えておきます。
与力は結構派手な柄の羽織と袴をつけ、残る2人は着流しではなく尻っぱしょりに股引姿。テレビで見る御用聞き、目明し、岡っ引きの類いにちょっと近い格好。与力の羽織の紐は、織紐でしょうか、フサフサはなし(ボタン式?)。同心の1人は柄のある羽織を脱いで手に持っており、その後ろに立っているもう1人は無地の白い羽織を「巻かずに」着ていますが、紐は手前の1人に隠れて見えません。
手前側の、羽織を脱いでいるほうは、少しこちらに背中を向けているため、黒い帯の結び目が見えてるんですけど、よく見かける貝の口という結び方ではありませんね。一文字結び? その帯に何やら黒い棒のようなもの、時代劇ではよく中間(ちゅうげん――侍、と言うより武士階級の最下層に属する「若党」と、庶民階級である「小者」との中間に位置するってことで)が帯の後ろに差している木刀(?)様のものを浅く差し込んでいるように見えますが、これはたぶん十手でしょう。
もともと十手と呼ばれる武具には鉤の付いていないただの棒状のものもあるので(と言うよりそっちのほうが実戦仕様?)、実は同心の十手もその形態だった……のかしら。少なくともこの頃(天明頃)の、与力に随行する同心のはそうだったということになるのでしょう。
手前のその同心、両刀は随分大振りなものをちゃんと差していますが、長大に見えるのは単純に昔の人が小さかったから。同心の刀は1本だけだとか、同心は武士ではないだとか、結構無茶なことを堂々とウェブに流してる人もいて、小池一夫原作の『弐十手物語』っていうマンガもそういう絵になってましたけど、まったくの誤謬です。それは犯人捕縛の緊急出動時の話で、いかなる凶悪犯も生け捕りにして吟味にかけるのが鉄則だから、殺人の具である刀は携帯せず、刃引きした長脇差だけを帯びて、取り押えるのに特化した捕具で現場に臨むってわけです。
その場合の格好はあまり立派な感じじゃなくて、時代劇に出てくる(正体不明の)「捕り方」とか「捕り手」と呼ばれる連中のそれに近いというのが実のところ(いずれの語も本来は文字どおりの捕吏たる同心のことでしょうけど)。奉行所にいる武士階級ではない人員は、奉行や与力・同心の使用人に限られ、逮捕劇には加わりません。いわゆる非人階級の者が末端の捕縛要員として動員されたりもしますから、それとごっちゃになってるんじゃないでしょうかね、あの六尺棒構えた無刀の一団ってのは。いずれにしろ、町奉行の部下にああいう人たちはいない筈です。
さて、十手は懐に隠し持つのが作法との記述も見ますが、それは与力用の小振りなやつのことではないでしょうか。どのみち実用とは程遠く、警察手帳のようなものだった由。同心は背中に差す、と説く者もおり、この絵はまさにそれと合致するものの、そういう記述における同心は当然のように例の黒羽織に着流し姿なので、それもちょっと怪しいですな。巻羽織では帯の後ろに差した十手はどのみち取り出せません。
と言うより、いつだっていざとなりゃエラい人に代って働いたり戦ったりしなくちゃならないのは下っ端。与力の後ろにくっついてる同心こそ、警棒として実用に堪える長めの棒形十手を、いつでも抜けるように後ろに差し、単独で巡回に当る廻方(まわりかた)同心は、与力と同様、鉤の付いた短めのやつを身分証のように懐中に携帯していた……のかも。どのみちあの鉤で刀を受け止めるなんてことは不可能……とのことです。その上部の棒状の部分で受けて、それを滑らせてあの鉤に落し込む、とも言うのですが、いずれにしろかなりの鍛錬を経なければできることじゃないでしょう。八丁堀の連中みんながそんな達人技を会得していたとも思われず。大きなお世話ですが。
絵の話に戻ります。頭はどうかと言うと、与力を除いて画面内の皆が先日言及した「本多髷」。形は全員共通というわけではありませんが、もともとバリエーションが多く、他のページでも男はほぼすべてがそのいずれかになってます。この絵の人たちは比較的マイルドな部類。
足のほうは言うと、同心2人が黒い足袋履いてますね。
ときに、さっき言った帯の「貝の口」ですが、時代劇では平気で江戸っ子がその貝の口、つまり、縦に二つ折りにして上向きにした「手先」が、背後から見て左側に来るように結んでるんですけど、それ、上方のやり方ですから。江戸では横に折った形の垂れ先が左で、手先、貝の口は右です。今でも東京じゃあそうなんじゃないでしょうかね。
これ、時代物映画の撮影所が京都にあった故の、殆ど普遍的、歴史的な誤謬なんだとか。時代考証に謙虚だったテレビ草創期の民放のスタジオ作品では、NHK(の一部の番組)同様、そういうところもちゃんとしてたんでしょうね。それがあっと言う間に、当初は反面教師としていた昔のご存知映画と同じ轍を踏むことに。てえか、その映画会社に丸投げなんだから、そうなったって何の不思議もありゃしませんわな。
ついでながら、「黄表紙」ってのは、戯作の下位区分である「草双紙(くさぞうし)」の一種で、言わばちょいと知的なギャク漫画といったところなんですが、時事をネタにした風刺ものも多く、挿絵は執筆当時の実相を写実的に伝えており、ここに描かれた与力・同心の姿も、その当時の実際の格好を示していると見て間違いないでしょう。
この「新建哉亀蔵」、初版は天明4(1784)年との情報もありますが、どうやら天明7(1788)年の江戸の打ちこわしを題材にしている模様。裏表紙の1つ手前の余白ページには「天明八……」および「享和三年正月元日」と書いてあるんですけど(それぞれ1788年と1803年)、持ち主(貸本屋?)が書き込んだものでしょうか。それ以外の文字は滲んでしまって判読不能。
「亀蔵」は「米蔵」の洒落で、凶作により高騰した米を買い占め、町方の踏み込めない武家屋敷に隠匿していた米問屋が襲撃されたという打ちこわし騒ぎを皮肉って、スッポンたちが米屋(亀屋?)を襲って囚われた亀の子(米粒)を解放している場面が前半に出てきます。実際の打ちこわし(鎮圧に動員された同心の中には落命した者もいたとか)では、その後に再び米が流通するようになったので、「新しく建つや亀(米)蔵」とはその経緯についての風刺、ってことになりしょう。やっぱり天明4年刊だと早過ぎるようですね。
作者の勝川(あるいは蘭徳斎)春道(または春童)は生没年不詳で、この本ともども、詳細はわかりません。物語の最終ページには末尾に「欄徳画」と署名がありますけど、挿絵だけではなく文章も本人によるものでしょう。いろいろ検索して情報をかき集めようにも、あまりにも乏しくて今ひとつ判然と致しません。
何はともあれ、まあ、与力も同心も天明頃はまだ黒の巻羽織じゃないのがわかっただけでも大収穫。これで、大岡忠相が町奉行だった享保期の同心は、後の中村主水スタイル(たぶん19世紀前半の大御所時代=文化文政天保頃のつもり)ではなかったことが確定、と言えるでしょう。それでもまだ、では天明以後のいつの時点であの黒羽織になったのか、ってのは不明ですが。
何らかのきっかけで規定化されたのだとすれば、松平定信(吉宗の孫)による「寛政の改革」の一環ででもあったのでしょうか。天明の次が寛政なんですが、寛政の改革と呼ばれるものは、打ちこわし騒動の天明7(1787)年から寛政5(1793)年まで(定信の老中辞職により頓挫)。天災や飢饉に続く打ちこわし騒ぎでさんざんな終焉を迎えた田沼時代の反動の如きこの御改革、名君吉宗にあやかって質素倹約を奨励するも、かなり不人気だったようで(今に変らぬお上のご仁政。倹約の余地があるのは上つ方だけでしょうよ、どうせ)、なかなかうまくは行かず、定信さんも結局は失脚の憂き目に。水野忠邦による50年後の天保の改革よりはマシだったかも知れませんが、役人の羽織を黒で統一なんて発想は、いかにも華美を嫌う定信公っぽいかも、ってちょっと思ったんでした。
いずれにしろ、八丁堀同心が確実にあの黒羽織だったと言えるのはやはり19世紀以降。ひょっとすると、幕末の記録がいつの間にか江戸時代を通してそうであったかのように誤解され、その誤解が近代以降の芝居や映画で広まり定着しちゃった、ってことだったりして。
ああ、でも……。町方同心ったって、与力と同様、既述のとおり警察業務専任はむしろごく一部。末期には職務が細分化されて30種以上に及んだと言うし(そのため職員は南北合せて300名を超えたとも)、その役目によって服装は違っていたのかも。例の着流しに巻羽織っていう粋な風情は、定町廻、およびそれを指導・補佐する臨時廻(元定町廻のベテラン)だけのもので(府内の中心部が対象とは言え、南北合せて24人だけだったとも――それもまた時代によって変動している筈ですが)、同じく外勤ではあっても、単独ではなく見回りの与力に付き従う同心は、時代に関わりなくあの格好ではなかったりして。幕末でも羽織が黒くない与力・同心もいれば、ひょっとすると享保頃でも定廻(「町」が挿入されたのは末期の由)はやっぱり黒の巻羽織だった……とか?
考えたってわかることじゃないし、確たる史料を把握している研究者がいるとも思えません。とりあえず天明頃の「外役(そとやく)」の与力・同心があの中村主水スタイルでなかったことだけははっきりしましたので、それだけでもあたしにとっては相当な前進。
「外役」ってのは、内勤の事務職たる「内役」に対し、牢屋敷見廻とか養生所見廻とか、あるいは防火専門の風烈見廻とかを担当する与力・同心の班で、もう1つ「組役」というのもあるのですが、これはどうも組屋敷での、言わば在宅勤務らしい。いずれの役も与力の下に複数の同心(大概1人につき2人)が配属されていたようです。
外役には本所見廻というのもあるのですが、これは本来江戸の市中には属さない川向うの担当(大川=隅田川が総武、すなわち東の下総と西の武蔵との境界)。初期には本所奉行というのがいたけど、市街地の拡大に伴い、正徳3(1713)年には町奉行の管轄に。綱吉・柳沢時代が終って、間部詮房や新井白石による(半端な)改革期、六代家宣やその次の幼君家継の時代です(「正徳の治」とは言うけれど……)。その改革のついで、じゃなくて一環だったのでしょう。しかし「御府内」の範囲は曖昧なままで、漸く正式見解が示されたのはそのさらに百年後の文政元年12月(大半は1819年1月)、とのことです。
因みに、幼くして死去したその七代目家継を以て二代秀忠の嫡系は絶え、その後を継いだのが例の暴れん坊吉宗ということに。
さてと、依然単独の廻方同心の格好がどうだったのかはわからないままとなってしまいました。遺存する絵画史料を渉猟すれば確かめられそうなんですが、そこがトーシロの弱み。国会図書館のサイトに登録しようとしたら、何やらIDを郵送しなきゃならないとかで、そいつぁめんどくせえじゃねえか。目録を見た限りでは、そんなにおもしろそうなもんが揃ってるわけでもなさそうだし。
そう言えば、稲垣史生の弟子でもあった漫画家兼江戸風俗研究家、故杉浦日向子(拙と同学年)の『とんでもねえ野郎』という連作漫画(傑作!)に、新米の与力(養子先の先代の致仕により就任)が、やはり尻からげに股引姿の同心2人を引き連れて市中見回りをしている場面が都合三度出てきます。幕末の設定とて3人とも黒羽織ですが、二度目までは、まだ見習いということで与力も袴はつけず着流しのまま。つまり、3人連れの中で唯一お馴染みの同心姿なのがその与力という次第。古参の同心2人の羽織は、これも件の新建哉亀蔵と同じで巻いてませんね。違うのは羽織の色だけということです。
見回りとは言っても、刑事警察官とは程遠く、各地域や施設の視察・点検、風紀の監督や防犯が主眼。専ら犯罪者(強力犯)の検挙に当るのは火盗改、「加役」というやつです(平和な時代では殆ど出番のない将軍親衛隊の御先手組が「兼任」するから)。
町奉行配下で多少とも刑事っぽいのは、「隠密廻」という特命廻方同心。先述の定町廻と臨時廻(南北それぞれに各6名ずつ、計24名。ただし末期、それも一時期の記録)にこの隠密廻(同じく南北2名ずつ、計4名)を加えて「三廻」(さんまわり)などと称します。隠密というだけあって、覆面パトロールや潜入捜査が専門とのことですから、呑気な着流し・巻羽織じゃなかったでしょう。
与力から独立して業務に当る同心はこの三廻だけということになるのですが、全同心の中で常時黒の巻羽織だったのは、その内の定町廻と臨時廻だけだった疑いも拭えません。それも、結局は末期になってからに限られるようだし、やっぱりまだまだわからないままでありました。再三申し上げておりますように、出版物やウェブの記述は、いったい江戸時代のいつごろのことを言っているのか、ってのがどうにも曖昧なんですよね。
町奉行は、江戸が官軍に占領された慶応4年(明治元年)前半に廃止されますが、実はその配下だった八丁堀の与力・同心は、新政府の下で引き続き業務に当り、版籍奉還、廃藩置県後の明治5年頃までは、組織の改編を受けながらもそのまま働いていたらしい。三廻も最後まで存続していたということですが、最終的な人数はどうも半端だったようです。
そう言えば、1968(昭和43)年秋から1年間NHKで放送された『開化探偵帳』って番組がありました。明治7(1874)年の浅草を舞台にした「刑事ドラマ」。例の『池田大助』とそれに続く杉良の出世作、松本清張原作の『文五捕物絵図』の後継番組で、そのまた次の高橋英樹演ずる『鞍馬天狗』ともども、「明治百年」記念の一環だったのかも。大河も2年続きで幕末維新ものでしたし(ただし明治100年に当るのは1967年、『探偵帳』放送開始前年の昭和42年です。今年、2018年も、やはり明治151年の筈ですが、去年ではなく今年の大河が維新ものなんですね。いいけど)。
明治7年と言うと、我が母校、分校区立明化小学校がその年の創立なんですが、「文明開化」流行りとは言え、まだ廃刀令以前の、大半は殆どが江戸時代のままだった時代。で、この時代劇ならぬ近代劇、『開化探偵帳』ってのは、警視庁(ウェブで見たらその年に発足)の「伝法院屯所(≒所轄署)」に所属する探索方、つまり刑事の話で、主人公は元浪人(だったと思います)の緒形拳(役名は忘れました)。背広にインバネス(?)などを羽織ったハイカラな野郎ではありました(まさにハイカラーを付けたシャツ着てたりして)。でも、その主役よりよっぽどお気に入りだったのが、元八丁堀同心の藤井弥太郎というキャラ。こっちは未だに名前憶えてます(字はテキトー)。
川崎敬三扮するその元同心、なんと着流し巻羽織に十手という同心姿のまま。でも頭だけはザンギリという洒落者の江戸っ子で、とにかく登場人物の中で一等魅力的だったなあ。警視庁発足の少し前まで与力同心が現役だったとすると、実際にそういう探索方ってのもいたかも知れない、と思いたいところです。
えー、今回の締め括りに駄目押しの蛇足をひとつ。与力、同心ともに、江戸時代以前から用いられていた言葉であり、江戸時代だって何も町奉行の配下に限ったものではありませんでしたが、いずれにしろ原義はだいぶ違います。
与力は「寄騎」(湯桶読みですな)の書換えで、戦国時代の「寄親」(よりおや≒殿様)に対する「寄子」(よりこ≒家来)の転訛だという話です。しかし「与力」は(または「寄騎」も?)鎌倉時代には既に用いられており、主従関係とは無関係に、他者への協力(者)、加勢(者)一般を指していたとのこと。
一方同心は、文字どおり一致団結あるいは誰かに味方すること、またはする者。これまた決った主に属する(寄騎と同じく下級の)兵士を意味するようになり、当初は寄騎との上下関係はなかったとも。平和な近世では、建前は軍隊の体裁ながら、所定の組織における構成員の上位の者が与力で、その部下が同心ということに。「寄騎」が原義とて、与力は御家人身分ながら例外的に騎馬が許されたのに対し、同心は馬に乗れません。
……って感じで、また次回。
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