2018年4月6日金曜日

町奉行あれこれ(4)

恐縮致しております。ちょっとだけ話を戻すような塩梅で、今回はひとまず時代考証家、故稲垣史生氏の事績について少々。

この人、大阪万博の1970(昭和45)年に放送されたNHKの大河ドラマ、『樅の木は残った』では、珍しくやりたい放題でございました。山本周五郎の原作は終盤のほんの一部に使われただけで、大半はオリジナル脚本というご苦労な番組(数年後に文庫読んだらびっくり)。昔の人気時代もの作家の通弊ではありますが、山本自身はほぼ考証知識皆無。大衆文学の大家とは言え、実は考証者泣かせの代表的存在だったのでした(この3年前に死去)。『水戸黄門』その他、一話完結もののテレビ時代劇では、この人の膨大な短編からパクった話ってのが珍しくなかったんですけどね。

実は私、こうは言いつつこの人のファンでして、テレビシリーズで「これあの話じゃん」っていう回があるとすぐに気づいたものです。読切り式の連続テレビ時代劇にはお誂え向きの作品ばかりで、没後にはちょくちょく利用されてたんですね。まあ、剽窃時代劇の世界では、件の『水戸黄門』の初期に、太宰治の『走れメロス』をそのままパクった話が出てきたってのに敵う例はないでしょうけれど。山本周五郎の話は、世代の近い黒澤明もお気に入りだったようで、原作にした映画がいくつかあります。

ともあれ、NHKの『樅の木は残った』では山本の原作はほんの素材。稲垣さんも、民放での欲求不満をこの大河で一気に晴らした、ってところなのかも知れません。それも当時のNHKならではってことになりましょうか。一部の考証オタクにとってはまさに伝説的な歴史ドラマで(自分以外にそんなこと言ってるやつなんか知らないけど)、江戸前期の風俗が思う存分再現されていたばかりか、わずか数十年間におけるその変遷も余すところなく映像化されていたという、今では到底望むべくもない奇跡のテレビ時代劇。

ところが、折角のその労作に対し、ある視聴者からNHKに投書があったそうで、曰く「番組の初めの頃と後のほうで、裃(正しくは「カミシモ」の上半分、肩衣=かたぎぬ)の形が違う」。……だからそこが見どころなんじゃねえかよ、わかんねえやつだな、と思ったことでした(当時11歳)。その頃うちが定期購読していた『グラフNHK』っていう有料広報誌(月2回刊行)に書いてあったんです。でもさすがに巨匠溝口健二の名画にケチつけたやつなんぞは……いたりして。
 
                  

因みにこの稲垣史生、いずれもとっくに故人ではありますが、林美一(よしかず)と双璧をなす実証的、科学的時代考証の泰斗(司馬遼だの丸谷才一だのもそうだけど、死後にその瑕疵を論って貶めようとする向きがうるさくて。そんなに自分のほうがわかってるってんなら、なんで本人が生きてるうちに指摘できねえんだよ、みてえな。おっとまた……)。両人とも、文献で確認できないものは「実験」によって答えを探る、っていうまさに実証主義者で、文字史料だけに頼りがちな(かつての)学者系考証家とは性根が違います。書かれていないことはわからない、なんて言ってたら、映像なんか作れませんから。

しかし、関わったドラマや映画の出来は、必ずしも当人たちの意図したところに非ず、ってより、殆どの場合「あんなに言ったのに」ってことになってたそうで。後者の林などは、あまりのデタラメぶりに、「俺の名前を出すなら、風俗考証じゃなくて風俗構成とでもしてくれ」と言ったってことです。

その林氏、やはり山本周五郎による名作、『柳橋物語』のドラマ化に際して考証を担当した折には、原作どおりの元禄時代を再現するのはどうせ無理だろう、ってんで、極めて妥当な提言をしています。そもそも冒頭に赤穂浪士の噂話がチラっと出てくる以外は元禄である意味はまったくなく、文章だけの描写でありながら、物語全体がどうしようもなくずっと時代が下ってからのもの(とでもしなければ許容不能)である上、肝心の柳橋にまつわる逸話自体が史実に反する、っていう念の入ったデタラメぶりこそがこの文学作品の真骨頂。まあ小説はもとより虚構ですから。泣かせる話としては珠玉の名作ではありますが。

で、この林さん、どうしたかと言うと、時代のほうを変えるよう指示したってんです。赤穂浪士の噂なんかには触れず、特に時代を明示しなければそれだけでいいじゃん、とは思うんですが、水戸黄門式の民放ドラマで江戸時代全体を括って用いられる結髪、衣装が問題なく使える天保期(遠山の金さんは図らずも合格ってことに)の設定にしたそうです。著書の『時代風俗考証事典』に書いてありました。あたしゃそのテレビ観てないんですけどね(高校出て英国行った年でした)。
 
                  

そういう姑息な、じゃなくて合理的な措置から基本的な時代感というものを学んだ制作者が、後にその手法に倣ったのではないか、と思われる事例もあります。十数年前に1回だけ観た北大路欣也の『旗本退屈男』なんですが、登場人物の1人(丹波哲郎)が、「文化文政の今の世にまるで元禄を思わせるあのいでたち」というようなセリフ(うろ覚え)を言っていて、てっきり原作どおり(読んだことないけど)、と言うより、親父の右太衛門の頃からの伝統を踏襲し、またぞろ「なんちゃって元禄時代」のドラマか、と思って観ていたので、これにはちょっと感心。文政時代の人が「今の世」を言うのにいちいち1つ前の「文化」をくっつけるか?ってところは笑えるけど。

これ、元禄も何も、主役はどうせ宛然三波春夫だし、問題は本人以外の登場人物全般なんですよね。やはり70年頃に観た高橋英樹の退屈男でも、その高橋主水之介を「御前」と呼んで慕う「巻羽織同心」が毎週しっかり出てくるという時代錯誤ぶりでしたから(水戸黄門同様、ヘンだなあと悩んでました)、20世紀末までは元禄も化政も一緒くたってのが標準仕様だったわけです。ウェブで見たら、北大路主演のシリーズは別の局でもその数年前まで放送されており、そっちでは相変らず「元禄」って言い張ってたらしい。いずれも東映の制作。

ああそう言えば、この早乙女主水之介の決め台詞に出てくる「直参旗本」ってのを勘違いして、「旗本ったってそんじょそこらの旗本じゃない。ジキサンなんだよ、主水之介は」てなこと言う人がときどきいます。いや、「いました」か。今どきは話題に上ることすらありませんが、いずれにしろ言葉の意味がわからないならなんで勝手なこと言うかねえ。例によって自分がわかってないってことがまずわかってないんでしょうけど、そのジキサンが何だかわかってないことぐらいは自覚できそうなもの。わかってたら「旗本でも直参だから凄い」なんてトンチンカンなこた言うわけない。

この「直参旗本」っていう文句、まず原作の小説自体に、宛も不可分の一語であるかの如く頻出するようですが、殆どトートロジーですから。直参じゃない旗本なんてどこにいるかってのよ。将軍の直臣であることを誇示する旗本や御家人(当初はほぼ同義)は、自らもいちいち「御直参」と名乗ってたようですけど、自分に「御」をつけてんじゃなくて、主君である将軍家への尊崇の表明。普通名詞としての直参なら、各大名にも、ほかならぬ旗本にも直接の家来ってのはいるわけですが、大抵は将軍直属の者を直参ってんですね。身分の高下は関係なし。だから「不浄役人」とされる町方の与力・同心も紛う方なき御直参。軍人ということになっているサムライの位としては最下層に属するのが建前ではありますが。
 
                  

という塩梅にて、稲垣や林のような先達の苦労も、まったくの無には帰さず、わずかとは言え衣鉢を継ぐ者がいなくもない、ってところですかね。初めからわかってる脚本家は昔も今も皆無ではなく、元禄の話を「文化文政の今の世」としたのも、稲垣らとは関係ないのかも知れませんけど。

それにつけても、文章なら描きたいことだけ書いてあとは知らんぷり、って手も使えましょうが、ってより小説なんかじゃみんなそれをやってるわけだけれど(それで間違いだらけかよ)、画面に映り込むものには隅々まで考証を施さねばならぬが道理。「文学」なんかよりマンガのほうがよっぽど高度な芸術である、なんてこと言ったら50年前には笑われたり叱られたりしたかも知れませんが、明らかにそうなんじゃないスかね。ま、小説もマンガも、随分とお洒落にはなってる一方、昔ほど「何だこれは!」って思わせるような凄いやつにはついぞ出会わなくなっちゃったのは……俺が年取っただけか。

尤も、それこそテレビや映画と同様、絵がとうしようもなく間違ってる漫画、劇画は昔から枚挙に堪えず。しかし同時に、名作とされる多くの文学作品だって、決定的な考証上の誤謬には何ら事欠きませんので、結局はおっつかっつということに(相変らずエラそうだよな、俺も)。
 
                  

逸脱の上に逸脱を重ね、いったい何の話からこんなことになり果てたのやら、という様相を呈して参りましたが、ここで今少し引き返します。

件の『江戸町奉行所事典』では、結局のところ、所期の目的であった「八丁堀の巻羽織はいつから?」という宿題は未解決のままとは相成りましたものの、とても買う気にはならなかったその本で唯一興味を引いたのが、奉行所移転の経緯を図解した箇所と、歴代町奉行の名前を列挙した名簿。「こりゃおもしれえじゃねえか」とは思ったものの、わずかその数ページのために3千円(ぐらいだったかな)の本なんか買うわきゃない。

因みに、著者の笹間良彦(故人)は、武具関係を中心に図鑑類を多数著しており、ウェブで見てみたら、この奉行所事典も『図説 江戸町奉行所事典』というのが正確な書名でした〔同内容の先行書籍を改題したものですが〕。絵も得意なようで、古い絵画史料を自ら模写した(らしい)ものや、本人オリジナルのイラストも豊富。「図説」というだけあって、なかなか楽しい絵本といった風情もあります。

しかし、やはり、と言うべきか、本人のイラストによる与力・同心の姿は、実際の史料に準拠したものとは到底思われず、明らかにテレビなどで見慣れた演劇衣装に引きずられたもの。基本的に時代感といったものが稀薄なようで、実物(あるいはその摸写)を掲げている場合でも、思わず「だからそれいつの絵なのよ」ってつぶやきたくなるようなのばっかり。

大岡忠相の肖像画も、昔から最もよく見かけるやつを載せてましたけど、それどう見たって享保頃の人にゃ見えないし(頭が決定的に違う)、その前に絵のタッチがどうしようもなく江戸末期。結構写実的な劇画風、という雰囲気もありますが、多少とも美術史的な知識、というより感覚があれば、とても18世紀前半に描かれたものなんかじゃないのは一目瞭然。

ウェブで見つけたその絵を添えておきます。
 

 
肉筆画もあるんでしょうけど、これは版画ですね。件の事典に載っていたのもこれだったと思います。大岡の肖像としてはほかにも、毛抜きでひげを抜いている冴えない風貌の、つまり極めて写実的なやつもあるんですが、後から調べたところ、最も有名なこの江戸末期のものは、『新編歌俳百人撰』という、古今の著名人による和歌を集めた本に描かれたもののようで(ってことは大岡が捻った歌も載ってるんでしょう)、柳下亭種員編、一陽斎豊国画、嘉永2(1849)年刊の由。殆ど幕末ですね。

ただしその本、「新編」と名乗っているだけあって、実はその70年以上前の安永4(1775)年に成立したとされる『歌俳百人選』(海寿翁編)を再編集したものらしい。オリジナルにはなかった挿絵を施したということでしょう。田沼意次が老中に大出世した時分の安永4年なら、まだ大岡が没して20年ほど。その頃の絵なら、写実性はともかく、もっと実像に近かった筈だったろうとは思われます。
 
                  

あっと、遅れ馳せながら、「八丁堀」ってのは町奉行配下の与力・同心の別称で、住居であるその官舎、組屋敷の所在地から。もちろん現中央区の八丁堀の辺りで、膝栗毛の弥次喜多が住んでた神田八丁堀とは別です。「丁」は距離(面積)の単位である「町」から転じたもの、とのことですが、それ、もともと「町」(原義は田んぼの区画)の略字としても昔から使われてますから。一丁目、二丁目ってのはそれですよね。
 
                  

ところで、後から気づいたんですが、かなり後世に描かれた、英語で言うところの ‘flattering’、 すなわち随分と持ち上げた件の大岡像、実物の姿とはたぶん似ても似つかないとは思われるものの、実は何気なく描写が細かいですぜ。

脇差が結構長めで、柄巻もしっかり施されているところが、いかにも高級旗本って感じですが(城に上がる必要もない人は、大小揃いの拵えなんていう贅沢なもんは普段差していません)、その柄糸が、時代劇にはついぞ出てこないし居合刀とかモデル刀の類いでも一切用いられていない、「諸撮巻(もろつまみまき)」という巻き方になっているのがはっきりと見て取れるんです。

時代劇の小道具その他では、専ら「諸捻巻(もろひねりまき)」で、柄糸を180度捩って交差させたやつ。撮巻はそれに対し、捩らず(捻らず)、交差する部分を撮んで、「薬練(くすね)」という接着剤(「手ぐすね引く」ってのは、弓の弦にこれを塗って張力を増強すること)で固めるやり方。問題は、中世から明治初期まで、実際の柄巻は殆どその撮巻だったってところ。幕末の写真を見ても、ほんとそればっかり。捻巻は主に子供用だったらしいですよ。

数年前に知り合いの娘さん(当時中学生。直接会ったことはなし)のために書いた解説文に添えた自作の図や、ウェブで拾った写真、さらには10年あまり前にクビになった印刷会社でDTPをやらされた、日本カメラ博物館のパンフレットに掲載された幕末の実物写真などがございますので、気が向いたら「幕末に太刀?」という愚投稿を覗いてやってくだせえやし(話の内容は重複しとりますが)。

でもそのパンフ、『よみがえる幕末・明治 大君の使節たち』とは言ってるけど、解説文は全面的に噴飯ものでした。知ったかぶりにしたって限度があろう、ってなデタラメばっかり。上記の「幕末に太刀?」という記事も、もともとはそれについての恨み言を綴った一連の投稿文の1つなのでした。
 
                  

まあいいでしょう。話を続けます。「諸」は交差する両方の糸に施されたものであることを指し、下になるほうは捻って上だけ撮むという「片捻巻」または「片撮巻」ってのもありますが、まあ少数派です。いずれの場合も、撮んだり捩ったりして曲がる方向は交互に入れ替わるのが普通なんですが、そんなこと言ったって言葉じゃ意味わかんないですよね。写真をご覧くだされたく。この肖像画では上側の糸がどれも右上から左下にかけて巻かれているように見えますけれど。

でもこの絵でさらに細かいのは、と言っても版画という制約もあるからでしょう、ごく簡単に描かれているだけですが、鍔の先から「小柄」の頭が顔を出しているところ。柄の付け根の「縁金(ふちがね)」の手前に、丸みを帯びた縦長の台形が横になったようなものが見えると思うんですが、それが小柄の先です。

時代劇ではしばしばこの小柄を、いったいどこに仕込んでたのやら、まるで手裏剣のように投げつける場面ってのが出てきたりしますけど、これ、武器じゃありませんから。装身具または文房具というべきもので、同じく「笄(こうがい=髪掻き)」という、先端が耳掻き状になったもの(元来は文字どおり整髪用具)と組合せになった刀装品。大小揃いの「殿中差(でんちゅうざし)」(裃差〈かみしもざし〉番差〈ばんざし〉とも)では両刀ともに標準装備され、笄は反対側、つまり表側に装着されます。鍔についている穴はこれらを鞘に取り付けるためのもので、穴の形状が異なるのも、笄と小柄の形に合せた結果です。

……って、それがいったいどうしたよ、って感じですが、これもまたさっきの「幕末に太刀?」に写真を示しておりました。おっと、話の中身も全部繰返しになっちゃってますね。しょうがねえか。

蛇足終り。
 
                  

さて、懸案たる羽織問題につきましては、2016年に偶然、以前言及した『国立国会図書館デジタルコレクション』というサイトで見つけた画像により、享保時代にはまだあの黒い制服じゃなかった、ってのが判明。でもそれについてはまた次回ってことで。毎度あいすみません。

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