とにかく、1991(平成3)年に三省堂で覗いた『図説 江戸町奉行所事典』、目当ての巻羽織の経緯は知れなかったものの、歴代町奉行の一覧と奉行所移転の図解には興味をそそられ、まだ健在であった病的記憶力(健やかなのか病んでるのかわかりませんが、撞着語法ってことでひとつ)を久しぶりに稼働させて、おもしろそうなところを憶えて帰ることにしたのでした。
まずは目ぼしい奉行20名ほどの在職期間を記憶(半分は忘れちゃいましたけど)。で、その一覧表では各奉行が就任順に並べられてまして、それぞれに(北)または(南)という表示が付されていたのですが、なぜか(中)と記された例はなし〔「南北」および「中」という区分については、こちらに記してございます〕。初代「中町奉行」ということになっている丹羽遠江守は南、「後任の」坪内能登守は北ってことになってました。あれ?って感じだけど、とりあえずは記載どおりに憶えとくことに。
〔……などという御苦労千万なるわが努力も今は懐かしい思い出。今は件の真砂図書館で閲覧できるんでした。でもすぐにはその本が見つけられず、結局暫くは余計な手間を食ってしまった……という話については後日改めて。とりあえず、その図書館のやつから複写したページの画像を適宜示すことに致します。まずはその「江戸町奉行歴任表」をリンク。〕
名乗がそれぞれ「長守」と「定鑑」だってのはそのとき初めて知ったんですが、後者の読み方はわかりません。サダアキ? サダカタ? サダカネ? サダシゲ? サダノリ? たぶん正しくは誰も知らないのでは(近親者ででもなければ恐らく当時から)。
まあ北だ南だ、それに中だってのが、単に居宅の位置関係を表すに過ぎず、「中町奉行」なんて役職があったわけじゃないってのはハナからわかってたし、「目ぼしい」連中については南北どっちかってのも先刻承知。いずれにしろ、わざわざ北だの南だのって表示するなら、2人だけとは言え、「中」だって書いとかなきゃ間尺に合うまい、と思う間もなく、(案の定)両者それぞれの在任期間が、他の北町奉行、南町奉行と重複。それどころか、よく見ると(南)と記載された(初代)中町奉行・丹羽の退職後は、かの大岡忠相が出てくるまでの3年間、南町奉行そのものが不在ということになっちゃってます。南がいない代りに北が2人もいるって時期があったかのような記述。
実は、「中」ということになっている筈のこの2人に限らず、その前後20年ばかり、数人分についての記述にも齟齬はあったんですが、それに気づいたのも、なんとか只で済ますため、とにかく憶えようと何度も読んだからなのでした。まあ単純に北と南の表記が混乱しているだけなんだろうとは思ったものの、じゃあほんとは誰が北で誰が南……ってなことをその場で整理するのはいかにも厄介。そのまま憶えて帰ってうちで考えることにしたてえ寸法でして。
丹羽については、初め「中」で途中から「北」になったってのがやがて判明致します(まだネットも使えない時代で、図書館や本屋のハシゴによって何とか……)。それを「南」と言い張るだけでは飽き足らず、記された任期は「中」と「北」を合せたもの、というおまけつきだったのでした。まあ現実には、再三申し上げておりますとおり、当人は一貫して単なる町奉行の1人だったってだけで、中も北もないんですがね。もう1人の坪内も、当初「南」だったのが(北じゃなくてね)、2年ほどで丹羽から「中」を受け継いだかのような話が通説にはなっておりますものの、そういう「与太話」だって後から漸くわかったというのが実情。
両人とも、もちろん「俗称」が変ったに過ぎず、役職を交換したわけでもなければ、役屋敷が移転したわけでもなく、町奉行在任中には一度も引っ越しなんかしてません……ってことを突き止めるのにも結構骨を折ったりして。突き止めるったって、理詰めで行けばそうなる、って勝手に辻褄を合わせただけなんですけどね。いずれにしろ、今ならウェブ検索で簡単に大量の情報が得られ、考える材料にも事欠かない便利な世の中とは相成り、まさに隔世の感……。そうした情報の中から少しでも参考になるものを見つける(見極める)ことができるかどうかは、また別の話ではありましょうけれど。
ことによると、他の奉行の「南北」表示が混乱していたのも、あるいはこの2人についての誤記に引きずられたものだったのかも知れませんね。なんにしろ、軽く苛立ちますな、こういう種類の本でこういう種類の粗漏に遭遇すると(やっぱりエラそうかな、あたし?)。書いた本人が平気なんだから、読んで気づく人もあんまりいなかったりして。まさか買ってもいねえおいらしか気づいちゃいねえなんてこともあるめえが。
……なとど油断してたら、どっこい、混乱はそれだけにとどまらないのでした。この『歴任表」のすぐ次のページには、各奉行所の所在地の変遷を説いたくだりがあり、そこにも明らかな矛盾が……。わざわざ複数の図(たぶん自作)を添えているのに、それがどうしようもなく能書きと食い違ってんです〔これも、20数年後の2017年に真砂図書館のやつから複写したページの画像をリンクしましたが、図のほうは下に直接貼り付けとくことに〕。
『図説 江戸の司法警察事典』(1980年刊行の旧版)より |
まず、元禄11(1698)年に、鍛冶橋門内、西詰の「北角」にあった吉良(あの上野介です)と保科の屋敷を「上地」(あげち)して、1つ北の呉服橋門内から南町奉行所を移転させ、4年後の元禄15年(暮に赤穂浪士の討入り騒ぎのあった年)に、同じ鍛冶橋西詰の「北寄り」、坂部三十郎の屋敷跡に中町奉行所を新設、と書いていながら、個々に図示された南町奉行所と中町奉行所はまったく同じ位置。
吉良・保科の屋敷跡が移転後の南町奉行所だってんなら、それが坂部邸跡ということもあり得ぬし、第一そこには既にその「南」が建ってんだから、同じ空間をさらに「中」が占めるなんてことも不可能。宛然異次元の世界。
因みに、坂部三十郎てえと、江戸前期、17世紀中頃の町奴(侠客、てえか庶民やくざ)の顔役、幡随院長兵衛を殺した旗本奴(侍やくざ)の親玉、水野成之(十郎左衛門)の仲間の1人、坂部広利が有名なんですが、この坂部家では代々「三十郎」が世襲されていたようで、あるいは家督を継いで当主となったらそう名乗る、って習慣だったのかも。
初代(?)三十郎、すなわち広利の親父である広勝は、家康の家来にして戦国生残りの豪傑(だったらしい)。三十郎のほか三郎兵衛とも呼ばれていたというのですが、この人の場合は三十郎が先で、後に三郎兵衛となったのかも。ウェブの「受売りサイト」には、この親子を混同している例もあります。
息子のほうの広利は、初め十郎兵衛で後から三十郎となったようで、不良旗本の一味ということにはなってますけど、この元禄の頃からは30年も前に、三十過ぎで腹を切らされた水野よりはだいぶ年長だった筈。旗本奴と言われつつも、百人組と呼ばれる鉄砲隊の隊長という結構なエリートで、前任者には服部半蔵の名もあります。忍者か?と思われるかも知れませんが、殿様(旗本)です。まあ鉄砲ってのはもともと伊賀とか甲賀とか根来とか雑賀ってのが本場でしたし。
新宿区の百人町はその百人組の組屋敷に由来、とかいう話ですが、組頭は全部で4人おり、坂部は「青山百人組」の頭だったとの記述もあるので、大久保の百人組とは別なんでしょう。屋敷が鍛冶橋内では新宿方面とはだいぶ離れてるし。
おっと、その話じゃなかった。とにかく歴代の坂部三十郎の中でも最も知られた(たぶん)広利さん、さすがに元禄15年じゃあとっくにあの世へ引っ越して久しかろう、と思いきや、死去はわずかにその10年ほど前の元禄4(1991)年、享年81というかなりの長寿でありました。てこたあ、この事典が中町奉行所新設用地であったと主張する「坂部三十郎邸跡」(ったって、図では元吉良と保科の屋敷だった南町奉行所移転後の敷地と同じになってっけど)の「三十郎」とはいったい誰のことなんだか。
長生きした広利の跡を延宝7(1679)年に継いでいた広象(ひろかた)もまた、彦八郎(広義)から三十郎へと改名していたようなんですが、この息子、つまり初代三十郎の孫は、父の死からわずか4年後の元禄8(1695)年に享年51で他界してます。そのまた息子の広慶(安次郎→三郎兵衛→三十郎、さらに「播磨守」に出世)に至っては、やはり10年を経ずして、中町奉行新設の前年(刃傷松の廊下の年)、元禄14(1701)年正月に、享年28にて死没。約半年後に、まだ幼い遺児、安次郎広達が家督相続するも、5年後の宝永3(1706)年に早くも死亡。享年9! 三十郎を名乗る暇もなかったようです。
一旦は家が絶えたかに思われたものの、数年の空白期間の後、正徳3(1713)年に、親戚筋から広保(ひろやす)という人が名跡を継承します。悦之助から三十郎に改名。暴れん坊吉宗だの大岡越前の時期を経て、田沼時代の安永5(1776)年に享年75で入滅。
中町奉行所が建てられた、とこの事典が言い張る「坂部三十郎邸跡」ですが、元禄15年はその空白期間の数年前であり、まだ幼き当主も存命。三十郎の名は継いではいないから、「三十郎邸跡」という言い方にもなるんでしょうかねえ。どのみちそこの地所に奉行所なんか建っちゃいないし、そもそも位置は南町奉行所の南西の方角ですから。
どっかからの引用だったのかも知れないけれど、自分が書いた文章と自分が描いた図とが明らかに食い違ってる、ってことにすら気づいちゃいないようですな。どうすりゃそんなもんをそのまま出版できるんだか。編集者もまた著者に劣らずいいかげんだったってことでしょうかね。
ん~、やっぱりエラそうですかね、あたし。買いもしねえで文句言うのも阿漕とは承知しちゃあおりますが。
それはさておき、ことのついでに、復活した三十郎名義を負う広保のそのまた跡継ぎについても付言致しとう存じます。他家から婿養嗣子としてやって来た広高という御仁で、仮名(けみょう)=通称は主税、十郎右衛門。三十郎は名乗らなかったものの、能登守、山城守という官職名を認められたエリート。旗本奴の広利とは既に百歳以上歳が離れており、没年はわからないんですが、寛保2(1742)年生れのようです。寛政の改革の末期、寛政4(1792)年に大坂町奉行、次いで寛政7(1795)年には江戸の 町奉行(区分上は南)に就任。後者の任期は1年ちょっとだったようで。
あの、これ、坂部家の話というより、町奉行絡みの話題として記しとこうと思ったもんで。つい。
なお、この人の跡継ぎ、広長も婿養子なんですが、母方が坂部家の出。しかし、旗本のエリートコースを歩んだ「非」三十郎の高広さんは実子に恵まれなかったのでしょうか、この広長氏の細君もまた養女だったということです。でもまあ、この広長の代でまた三十郎の名が復活。銕三郎から改名の由。
すみません、坂部三十郎って名前が気になって、その後つい深追いして得た無用の事実を、これまたつい調子に乗って並べてしまいました。本題からはズレっぱなしなのは認識しております。
こうしたどうでもいい(けど自分にとってはおもしろい)情報を仕入れるに至ったのも、実は偶然でして、いろいろとほんとのところが知りたくてときどき訪ねる近所の真砂図書館で、あるとき「念のために」覗いてみた『寛政重脩諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』(の現代表記版、全20数冊)と『大武鑑』[1935(昭和10)年初版、1965(昭和40)年増補改訂、全3冊]っていう、いかにも物好き御用達の本のおかげなんでした。この真砂図書館(ほんとは「真砂中央図書館」だそうで)、文京区立図書館では奇しくも歴史関係が最も充実してるそうで、あたしには実にお誂え向き。改装のため2015年春から1年休館してましたけど。
この2つの本はどちらも、例の『国会図書館デジタルコレクション』ってサイトに古い版が掲げられておりますが、索引などは不備で、そもそも写真ファイルのため、内容の検索は困難というより不可能。前者の『寛政重脩諸家譜』はオリジナル(ただし写本)の画像も見られるのですが、なんせ全部で1500巻を超えるというとんでもない数量。字が大きいんです。古文には違いないけど、その分読み易くはある。だからと言って、中身について検索できないんじゃ不便でしょうがありません。
どうせこうまで話がズレちまったんじゃあしかたがねえ、一応のご説明を。『寛政重脩諸家譜』ってのは、寛政(18世紀末)から文化(19世紀初頭)にかけて幕府が編纂した、大名・旗本各家の沿革を網羅する大部の書(なんせ1530巻!)。あたしが覗いたのは、その現代(近代?)版で、大正時代の初版は8巻のようですが、こないだまたその図書館行って確かめたところ、昭和版は本体22冊、付録3冊に索引が4冊で、占めて29冊というものでした。本屋の立読みとは違い、憶えなくったって書き写してくりゃいいところが図書館の取柄、ってことを、最初にこれ見つけたときにもつくづく思ったもんでした。しかも、こうした参考図書は貸出しの対象外だから、他に閲覧者がいない限りいつでも見られます。こんな本覗いてるやつなんかまずいないし。
えー、そんで、もう一方の『大武鑑』なんですが、これは橋本博著『改訂増補大武鑑』という、またもかなり物好き度の濃厚な本で、鎌倉から明治初めまでの膨大な記録をまとめた、武士の総合名簿。「武鑑」というのは、もともと江戸時代に市販されていた侍の紳士録で、中期以降は年鑑として例年出版されるようになったのだとか。大名編、旗本編などに分れていたというのですが、それを数年置きに、明治2年分までをまとめ、近世以前の武家の系譜を添えたのが、橋本編の『大武鑑』なんでした。序文は徳富蘇峰。
国会図書館のサイトにある初版は全5巻であるのに対し、30年後、昭和40年の増補改訂版は3冊になってます。3冊目だけが薄く、大半は付録と索引。武鑑の記載部分は明治元(慶応4)年と明治2年の2年分だけです。明治時代と江戸時代で分けたってことですかね。ちょっと不便。
でもまあ、図書館にこういう本があったおかげで、なんとか確度の高い情報が得られたわけではあります。当てにならない解説書の類いなんかほっといて、初めからこの2つを見ときゃよかった、ってちょっと思ったものです。今ウェブで見られる情報においても、充分な整合性と信憑性が感ぜられるのは、こうした古文書、またはそれに準拠した出版物に直接当って執筆されたものに限られる、と言ってもよいかと。そうではない、もともと曖昧な記述からの孫引きひ孫引きで溢れ返っているのはご承知のとおりかと。
やっぱエラそうだな、おりゃあ。
でも、たとえば件の坂部三十郎邸、その『大武鑑』の元禄4(1691)年の記載に、
父三十郎
五千石
坂部彦八郎
かちはしノ内
とあり、『寛政重脩諸家譜』の記述とも突き合せるに、これはつまり元は旗本奴だったという広利の跡を延宝7(1679)年に継いでいた広象のことに違いなく、少なくともその時点では確かに坂部家の屋敷が鍛冶橋内、すなわち西詰の門内にあったことがわかる、ってな塩梅なんですよね。
……ああ、そうか。家督は相続していても、隠居した親父の三十郎がその名前をくれない限り、自分はそう名乗れないって寸法か。この年、元禄4年に親父の広利は死んでんですけどね。記載内容はその直前のもの、ってことかしら。
まあそれはさておき、この『町奉行所事典』の記事に対する反証は実はそれだけじゃございませんのです。私の所有する元禄6年の江戸の絵図(道路・住居地図)を見ると、確かに「吉良上ツケ」や「ホシナ兵部」(保科兵部少輔〈ひょうぶのしょう〉――「部」の字は下部が見えませんが、版木の欠損でしょうか)の近所に「坂部三十」(「郎」はなく、「部」は「ア」に見える「阝」だけの略字)と記された場所があるんですけど、それ、既述のとおり吉良・保科の家より南なんですよね。
元禄6(1693)年刊『江戸宝鑑の圖大全』より(事典と同様西が上) |
鍛冶橋西詰の北側、外濠寄りの東に吉良、その西隣に保科、そのまた隣に松平遠江(2年後に他界した信濃飯山藩主・忠倶〈ただとも〉ではないかと)の屋敷が並び、道路を挟んだ南側、吉良・保科の向いが「永井ユキヱ(靭負)」で、その西隣が「松平土佐」(今日では専ら「山内」と呼ばれている土佐藩主)、その南隣が件の坂部三十なんです。つまり、繰返しになりますが、坂部三十郎の屋敷は吉良・保科の南西の方角であり、たとえその跡地に新奉行所が建てられたのだとしても、それは移転後の南町奉行所より南であり、到底「中」にはなり得ないということに。この事典の記述は、どう足掻いたって虚偽または誤謬と断ずるしかないでしょ?
……などと言ってるうちに、またぞろ随分と長くなっておりましたので、やはり中途半端ではありますが、一旦ここで擱筆ってことに。坂部三十郎の話なんか始めるからこういうことになるんじゃないか、とは自分でもわかってます。なんかもう、片側の壁に沿って迷路を進んでるような状態。順調に迷走を続けているとでも申しましょうか、あらゆる枝道に分け入ってはやがて戻って来る……のだけれども、いつ出口に行き着けるかは一向にわからない、みたいな。
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……てな具合に、随分強気で威張り散らしちゃってますが、実はこれ、ほんのちょっとの情報不足による下拙の早計であったことが後に判明致しました。本来ならこの謬見を正してから再録すべきかとも思われますものの、人間の(てえか自分の)不注意ってのがどんなものかを示す事例として、ってより単純に結構おもしろいかと思ってそのまま晒すことに致しましたる次第。
社会(および自然)の状況が刻一刻と変ずるのは今も昔も変りなく、江戸時代の話だって、わずか数年分の記録が見られないだけで、その間の結構大きな変化に気づかずじまい、ってことも充分にあり得る、ってな教訓が得られただけでも、まあ怪我の功名とは申せましょう。
そりゃ負け惜しみてえやつか。まあ、いずれ真相が明かされますんで、どうぞお楽しみに……ったって、別に楽しくもねえか。ともあれ、今回はこれにてご無礼。また次回。
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