ところで、実は幕末の数年間、『大武鑑』に将軍の記載がないんですが、江戸を留守にしてたからでしょうかね。冒頭に将軍の名前が示された最後の例は万延元=安政7(1860)年のやつで、〈家茂公〉と大書された後、2行にわたり〈正二位内大臣右近衛大將征夷大將軍淳和弉學兩院別當源氏長者〉と小さな文字が続きます。現行表記では、將 → 将、弉 → 奘、學 → 学、兩 → 両、當 → 当、って感じですが、いずれにしろこれだけ長ったらしい名前なのに、徳川という苗字はまったく姿を見せません。
それ以前のものも、1世紀以上にわたって将軍の紹介はほぼ同形式で、能書きと名前が後先だったりという異同がある程度。また、当然と言うべきかも知れませんが、官位は一定ではなく、同一人物でも、言わば出世魚のように少しずつ文言が入れ替ったりもします。より古くは、たとえば天和(てんな)元=延宝9(1681)年の『顯正系江戸鑑』とかいう文書からの記述だと――
人皇五十六代 清和天皇六代
義家 頼義長男 八幡太郎
義国 義家三男 式部大輔(しきぶのたいふ) 新田足利両家祖
義重 義国長男 新田大炊助(おおいのすけ)
義季 義重二男 徳川治郎
是ヨリ十七代孫
広忠卿嫡
∴家康公
従一位右近衛将軍征夷大将軍淳和正学両院別当源氏長者 贈正一位太政大臣
……から始まって、4代後に、
綱吉公
正二位内大臣右近衛大将征夷大将軍淳和奘学両院別当源氏長者
……となってたりします。ただしいずれも現代表記(だってめんどくせえんだもん)。
位階の「正一位」は、家康のみならず、歴代の将軍すべてが没後に贈位される仕組み。それはそうと、家康だと「正学」だったのが綱吉の場合は「奘学」になってるんですけど(原記は「弉」の字)、実は家康についても正徳3(1713)年以降は後者に変ってました。「奘学院」は今の表記だと「奨学院」だそうなので、「正」でも音は同じではありますけれど。ひょっとして間違えてたのにやっと気づいたんだったりして。
それにしても、徳川の家祖として掲げてある「義季・徳川治郎」ってのが偽系図の面目躍如たるところで、この人、別の武鑑から採った「御系図」だと、義重の「四」男、「徳河四郎」ってことになってたりするんですよね。その十七代後胤が家康公って寸法。つまり徳川家の起点が何者なのか「御系図」でもはっきりしない。どうも宝永の頃、綱吉の晩年にそういう表記になったようですが、〈德川四郎源義季〉ってなってたりもします。
徳川にしろ德河にしろ、また治郎にしろ四郎にしろ、そもそもその義季(よしすえ)って人自体の正体が曖昧で、名字も得川だったり世良田だったりするかと思えば、「德河(または得河または新田)三郎義秀」というのが同一人物ではないかとの説も根強いとか。いずれにせよ、家康の生家たる松平とは全然関係ないのは明らかではないかと。
これは別に、徳川将軍家が特別嘘つきだったってことじゃなくて、既述のとおり中世以降の名族なんて大半(全部?)がそんなもん。当の殿様たちもみんな自覚の上で、ときどき自分の先祖が何だったかわかんなくなって、うっかり既に届け出てある家系と異なる氏(うじ)を名乗っちゃったり、ってこともあったとか。
さて、大武鑑における将軍の記載例をあと2つ、もっと昔のやつを古い順に挙げておきます。
万治元=明暦4(1658)年:
征夷大将軍
内太臣 家康公
征夷大将軍
左太臣 秀忠公
征夷大将軍
左太臣 家光公
征夷大将軍
右太臣 家綱公
寛文9(1669)年:
征夷大将軍 左大臣
源家綱公
……ってな具合。古いほうの表記では「大臣」が「太臣」になってますね。
いずれにしても、現役藩主としての「徳川」の名は、幕末の幼い尾張藩主、「元千代様」まで大武鑑には登場しません。もう1つの例外が、既に駿府藩主という一大名となっていた宗家の家達(いえさと)で、明治2年の記述では〈徳川中将殿〉。同時に、前年、慶応4(明治元)年までの〈元千代様〉も〈尾張中将殿〉に変ってるって寸法。
まだ少年だったその尾張藩主よりさらに5歳も下だったのが「徳川中将」の家達坊やで、明治2年当時はやっと満5歳か6歳。将軍候補として御三家の上位に置かれていた吉宗の子孫(養子で繋いでますけど)である御三卿の筆頭(本来は)たる田安家から宗家を継いだのですが、建前としてはやはり、最後の将軍、慶喜の養子ということに。その御三卿、すなわち田安、一橋、清水も、この明治2年版が初出で、同時にそれが最後の記載なのでした。
因みにその駿府藩、すなわち駿河府中藩は、この明治2年に静岡藩へと改称するんですが、「府中」が「不忠」に通ずるからっていう気遣いによるものらしい。洒落じゃあるまいし、って気もするけど、あわや朝敵として殲滅されんとしていた立場を思えば、まあその気持ちもわかるような。明け渡した居城は既に皇居となっており、上屋敷が麻布、中屋敷が芝三田、下屋敷が深川と記されておりました。
さて、代々の将軍は「実名+公」で記され、徳川という苗字は示されないのですが、苗字と実名は併記しないのが作法なので、氏(うじ)である「源」は付しても、家康だの吉宗だのっていう実名(じつみょう)にはどのみち徳川という苗字を直接冠することはないのが道理。
御三家の場合は、これも既述のように、尾張だの紀伊だのってのが苗字として扱われていたようで、「名字」の原義(私有地である名田〈みょうでん〉に由来とも言われますが、確たる語源は未詳とのこと)、つまり古代末、中世初期の用法に照らせば、領地の名称こそが本来の苗字、とは申せましょう。上述のお子様藩主、徳川元千代くんだけが例外で、それまでは、時代や状況により称号の表記、文言に異同はあるものの、尾張、紀伊、水戸が必ず頭にくっついてます。
因みに、元治元年の「諸大名御隠居方 並 御家督」欄では、御家督が〈徳川元千代〉となっているのに、2年前の慶応2年版ではそれに「様」が付き、慶応3年には「徳川」が「尾張」に変って、さらに翌明治元年になると再び「様」が省かれます。特に意味はないのかも知れませんけど。で、そのまた翌年の明治2年には、既述の如く〈尾張中将殿〉になるという次第。
どうせまた話が逸れどおしになってることだし、この御三家当主の表記についてもう少々。
まずその明治2(1869)年、〈元千代様〉が〈尾張中将〉に変った大武鑑最後の記載では、他の2家はそれぞれ〈紀伊中納言殿〉と〈水戸民部大輔〉(宗家も〈徳川中将殿〉なんだけど、水戸だけが「殿」なし)。いずれも官軍側についてあっさりと本家を裏切ってんですけど、将軍も実家は水戸だったし、尾張の先々代にして実際の指導者、元千代君の実父である慶勝(安政の大獄で若隠居となってたんでした)などは、支藩から養嗣子に入った人だったんですが、同じく養子に行った会津や桑名の殿様は実の弟。心ならずも敵味方に分かれるという悲劇の兄弟なのでした。
隠居後に自分の跡を継いだ先代、つまり幼君元千代様の養父も実弟で(つまり叔父)、この人は一旦隠居した後、急遽将軍となった慶喜に代り、空いた一橋家を継ぐことになっちゃったりしてます。早々に隠居して幼い後継者に名跡を譲ったのは、井伊大老が殺されて兄貴の謹慎も解け、尾張内部の政治情勢が変ったからだとか。最初は実家の松平家(尾張徳川家の分家)、高須藩主だったから、都合3回殿様をやったことに。
その話じゃなかった。大武鑑における御三家当主の表示例を以下に記しときます。
元治元=文久4(1864)年:
(尾張)徳川元千代様
紀伊中納言 茂承(もちつぐ)卿
水戸中納言 慶篤卿(←慶喜の兄貴)
なお、文久元=万延2(1861)年の記載では、尾張藩主が〈尾張中納言茂徳(もちなが)卿〉となってます。これが3つも殿様やった人なんですが、尾張藩主は2つ目。養嗣子の甥っ子、元千代くんはやっと満で二つか三つで、2年後に譲位。元治元(1864)年と慶応2(1866)年の「御隠居方」欄に「玄同」として記されているものの、その後また3つ目の一橋家を継ぐことになったわけです。
この前年、万延元年の御三家も、〈尾張中納言茂徳卿〉、〈紀伊中納言茂承卿〉、〈水戸中納言慶篤卿〉という塩梅で、やっぱり「一人前」になると徳川とは言わない模様。
ああ、真砂図書館には、この大武鑑にも一部収録されている文化年間(1804 - 1818)の武鑑をまとめた「文化武鑑」っていう本もあったんでした。全7冊+索引2冊。文政武鑑、全5冊ってのもありましたが、文化武鑑のほうだけは覗いてみましたので、その記述も含め、もういくつか遡って並べとくことに致します。
天保4(1833)年:
尾張中納言 斉温(なりはる)卿
紀伊大納言 斉順(なりゆき)卿
水戸宰相 斉昭卿(←慶喜の親父)
文化3(1806)年:
尾張中将 斉朝卿
紀伊中納言 治宝(はるとみ)卿
水戸宰相 治紀卿
享保3(1718)年:
尾張中納言 継友卿
紀伊中納言 宗直(むねなお)卿
水戸中納言 綱條(つなえだ)卿(←この年に死没)
元禄元=貞享(じょうきょう)5(1688)年:
尾張中納言 光友卿
紀伊中納言 光貞卿
水戸宰相 光圀卿(←例の黄門様)
「卿」を使い出したのは、どうも天和元(1681)年辺りのようです。
寛文9(1669)年:
尾張中納言様 光義(←後年、光友に改名)
紀伊宰相様 光貞
水戸宰相様 光圀
明暦元=承応(じょうおう)4(1655)年:
尾張中納言様
紀伊大納言様
水戸中納言様
……と、テキトーに並べてみましたけど、何のためにこんなことやってんだか自分でもわかんなくなってます。単に、将軍と同様、御三家の当主も武鑑では「徳川」と表記されてはいなかった、ってだけの話だったのに。
因みに、最後の明暦元年ってのが、『大武鑑』所収の武鑑では江戸時代最古のものでした。
えー、前回の記事、どうにも長くなってしまったため、話の途中で無理やり区切ったのですが、後半もまたこのとおりかなり長くなってしまいました。とりあえず今回はここまでということに。
次回は漸く徳川から離れてひとまず松平の話に戻る予定。そもそも「山内の筈がなんで松平?」ってのがこの逸脱の発端だったんでした。それ自体が逸脱の上にも逸脱を重ねた話題ではあり、「町奉行云々」という表題からも乖離したまではありますが、当面はこの調子で続ける所存。もはや取り繕う意思すら放棄したる次第にて。どうもすみません。
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