安政の大獄に引っかかって一旦引退したものの、英傑として持ち上げられ、井伊大老亡き後にはすっかり実権者として返り咲いていた豊信(とよしげ)、例の「容堂公」も、現役藩主である従兄弟(養子)の豊範(こっちが本家筋)が「松平土佐守」だったのに対し、若くして「老公」となってからは、飽くまで「前松平土佐守」。『大武鑑』の「諸大名御隠居方 並 御家督」蘭には、万延元=安政7(1860)年に〈土佐侍従容堂藤原豊信〉、翌文久元年に〈高知侍従……(以下同)〉、元治元=文久4(1864)年に〈土佐少将……〉、慶応3(1867)年に〈高知少将……〉と記されております。
これ、「土佐」や「高知」が苗字、「侍従」や「少将」が官職、「容堂」が雅号、「藤原」が氏(うじ)、「豊信」が名乗(なのり)=実名(じつみょう)、ってところなんでしょう。
ここには顔を出していませんが、……
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〔と、再びこの後の部分を切り取って「姓氏問題」の記事中に再録済みでした。我ながら厄介なことをしてしまったもので……。とりあえずその分を飛ばして残りを無理やり繋げます。〕
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……おっと、またも長々と逸脱。どうもすみません。隠居後の豊信、容堂さんのことだったわい。
実はこの頃、現役藩主の父、つまり本人(容堂=豊信)にとっては伯父さんに当る先々々代の豊資(とよすけ)氏もまだ存命で、土佐藩には老公が2人もいたってことになるんでした。井伊直弼にムカついて、自分はまだ三十そこそこで隠居することになっちゃったけど、伯父の豊資って人は、息子が相次いで2人も若死にしたってのに(3人目がまだ幼児だったから甥の豊信が跡継ぎに)随分と長生きで、明治5(1872)年に満76歳で死去。そのわずか半年足らず後に、容堂自身も満44歳で逝ってますが、こっちはたぶん酒の飲み過ぎ。
先輩老公の伯父さんのほうは〈土佐少将兵部大輔(ひょうぶのたいふ)藤原豊資〉だったり[嘉永7=安政元(1854〉年――豊信はまだ現役]、〈土佐少将景翁藤原豊資〉だったり[万延元=安政7(1860)年]、「景翁」の表記が「蔭翁」に変ったり[慶応3(1867)年]だったりしてます。いずれにせよ、「松平」とも「山内」とも言っちゃいない、ってことで。
ともあれ、特例松平については何となくわかったってところで、念のため他の隠居大名の名前もその大武鑑で確かめてみたところ、もともとの苗字が松平の人(徳川一門……の子孫)は、やっぱり松平のままですし、それ以外の「普通の」苗字の殿様も、隠居後の名称(いろいろ並べるからみんな長ったらしい)の初めはやはり現役時代と変らず。
たとえば、やはり慶応3年の記載ですが、〈稲葉四品佐渡守越智正守〉の「御家督」は〈稲葉美濃守〉。この跡継ぎは当時現役老中だった「美濃守正邦」のことで、親子どちらも「稲葉」の苗字は共通、という塩梅。
御三家の隠居も名称の頭は、既述の如く「尾張」だの「水戸」だので、「御家督」、つまり跡を継いだ現役の殿様もそのままですので、やはり名誉松平の山内さんについては、隠居後の苗字が「土佐」とか「高知」ってことになるんでしょう。明治初期の朝令暮改の挙句、その後ほどなく親戚一同山内ってことにはなるんですけど。
さて、「やまうち」が本当なのに、長らく「やまのうち」だと思われてたのは、ことによると明治までは松平という殿様としてしか認識されていなかったからなのかも知れませんね。地元ではいざ知らず。でもその「やまうち」って読み方、結局のところ徳川と同じで、戦国ドサクサの成上りの故、先祖を粉飾する過程で、藤原氏の裔である「の」のつく本来の山内を詐称したつもりが、うっかり「やまうち」って名乗っちゃった、ってことだという話もあります。本家が「やまうち」(当主親子を除いて?)、支藩の殿様は代々「やまのうち」だったとの情報もあるんですが、どうなんでしょうね。
尤も、その「本物」の山内、すなわち「やまのうち」だって、自己申告のとおり、将門を仕留めた藤原秀郷が先祖だとしたところで、その秀郷自身が、後に俵藤太(田原の地にゆかりのある藤原の太郎だってんですが)とも呼ばれる英雄ではあるものの、実は藤原を僭称してただけっていう専らの噂。てことは、中世以降の武家の四大名族の1つ(源平藤橘は平安貴族の代表、ってのはかなり間抜けな勘違い)、藤原氏は初めから偽物だったってことに。その子孫てことになってる多くの佐藤さんもまた……。
おっと、またすべって転ぶところであった。結局今日も長くなっちゃったので、次回に続くってことでひとつ。
結局、話を終らせたくないだけなんでしょうか、あたし。
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