2018年4月10日火曜日

町奉行あれこれ(7)

さて、迷走を続けると致します。まず、前回の(一部誤った内容の)投稿では何気なく書きっ放してましたが、一旦名跡が途絶えた形の坂部家が数年後に相続を認められたという点について少々。

幼くして亡くなった先代の安次郎広達(満8歳?)の跡を継いだのは、3つほど年下で、そのとき漸く中1ぐらいだった遠縁の悦之助広保。で、こういう場合、年齢には関係なく、系図上は自動的に後継者が先代の子(養子)ということになるのですが、江戸の前期には跡継ぎが未定のまま当主が没すると、否応なくそこの家は断絶となり、その手で取り潰された大名家は数知れず、果然国中に浪人者が溢れて社会問題へと発展。そのため徐々に規制は緩められ、しばしば事後の末期(まつご)養子も黙認されることとはなりました。つまり、跡取りのいないまま当主が危篤に瀕してからというだけでなく、急死の場合には当面それを糊塗しつつ、急遽養子を届け出て家督相続を認めて貰うことも可能(かも知れない)、ということになったわけです。

後には、末期とは名ばかりで、先代の死亡が明らかになってだいぶ経ってからでも、体裁だけ生前の遺言ということにして相続を認可する、ってこともあったようです。あんまり厳しくしてると、じゃあ将軍自身はどうなのよ、って不平も出てくるわけで、八代吉宗がその例。やはり満7歳にも届かずに死去した七代家継の死後に後継者として指定されたのですが、建前としては、既に三十を過ぎていた吉宗のほうがその6歳児の「養子」なんです。
 
                  

ところで、三十郎の名義を復活させたその広保の養子にして、唯一この家から町奉行にまで出世した広高さんについて、前回の投稿では没年がわからないと書きましたけど、改めて図書館で調べたら、文化2(1805)年卒とのことでした。

何のことはない、『寛政譜』(寛政重脩諸家譜)の採録時にはまだ存命ということだったんですね。当然そのまた次代の養子、再び三十郎を継承する広長氏もピンピンしてたわけで、没年の記載がないのは当り前。この坂部家は結局幕末まで存続し、文久元(1861)年に半年ばかり「外国御用肝煎」なんてのをやってた人もまた、幸太郎から三十郎に改名していたようです。父もまた三十郎だったというのですが、それが果してこの広長さんのことなのかどうかは判然とせず。

武鑑でも丹念に見て行かないことには、それまでの詳しい経緯はわかりそうもありませんね。真砂図書館の蔵書にはそういった類の本も多いので、暇になって思い出したらまた冷やかしに行こうかとは思ってたりします。

余談でした。……
 
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〔この後、もともとのSNS投稿文では、「セイかシか?」と題し、全5回にわたって既にこのブログに再録している記事へと続くのですが、以下、その既出分を飛ばして当面の話題たる町奉行ネタの再録を継続します。……と思う間もなく、早速また逸脱しちゃうんですが……〕
 
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……てな塩梅で、漸く町奉行所の位置関係に話を戻……すつもりだったんですけど、またぞろその前に1つ気になってたことが。

前回、南町奉行所の移転先たる吉良・保科の屋敷跡と道路を隔てた南西側の向いの屋敷、「松平土佐(守)」とは、何を隠そう、今で言う土佐藩主、山内氏(って言うか、明治以降ずっとそうなんだけど)、ってなことを書いとりました。それについてもざっと申し述べとこうと思っちゃいまして。
 
                  

松平ってのは、徳川氏発祥地の地名にして、本来の名字(ほんとは「松本」だったとも)。家康も、デビュー当時の名前は松平元康ってことんなってます。ただし、このように名(苗)字と名乗を平気でくっつけるのも明治以後のやり方ではありますが。

氏(うじ)と名乗(なのり)[実名(じつみょう)]を並べる場合は、例えば「みなもとよりとも」だの「たいらきよもり」だのというように、間に「の」を挟むって寸法なんですが、それも、名字が家名となって専らそっちが使われるようになるまでの話でしょう。

ともあれ、その松平がなんで徳川なんてことになったかってえと、まあ成上り戦国大名はみんなそうなんですけど(実は平安時代からの田舎武士の慣習だったりして)、朝廷から官職だの位階だの(もちろん名目だけ)を貰って箔をつけるため、体裁上どうしても家柄を粉飾せざるを得ず、それらしい系図やら家系伝説やらをでっち上げるのだけれど、ときどきどうしようもなく虚偽だってのがバレて却下され、家康もつまりはその落第組だったのを、なんとか物知りの悪知恵を借りて、親父の代から言い張ってるとおり、やっぱり清和源氏の新田の流れで間違いござんせん、ってことにしたっていう、苦し紛れの作り話の結果なのでした。新田氏の裔に「得川」って家があった(らしい)ってことで、それにくっつけたため、突然「とくがわ」を名乗ることになったという話です。
 
                  

徳川氏は賎民の出である、てなことを吹聴する人も昔からおりますが、はて、そもそも賎民とはいかなる人々のことやら。卑賤なる民って、そりゃ俺のことか?ってつい言いたくなりますけど、いずれにしても、それを言い出したら、江戸時代の武家貴族、すなわち大名諸侯、明治以後はその領地の規模に応じて自動的に華族ということになった人たちの先祖だって、本当はみんなどこの馬の骨とも牛の骨ともつかない方々、ってのがむしろ常識……かと思ってたんだけど、ときどき本気で自分ちの家系自慢する人もいて、多少気の毒に感じることもあったりします。

貴族層のみならず、足軽階級はおろか、農民や町民でさえ、当然のようにその多くが自らを源平藤橘のいずれかに属するかの如く言ってたんですが、ウソだってのがわかってても、そういうことにしとかなきゃならない諸々の事情があったんです。職業上の資格ですとか、婚姻における家格の調整ですとか……。そんなの全部建前に過ぎないってことは、少なくとも知識階級の人間なら、当の「貴族」自身も含め、公然の秘密として認識していたのが実情。いや、一方には、今と同じく本気で信じ込んでる人も少なくはなかったでしょうけれど。

でもまあ、ちょっと考えりゃすぐわかることだと思うんですが、子孫ってのはみんな自己申告なんですよね。勝手に先祖にされた方々はとっくの昔にあの世へ引っ越しちゃってて、文句の言いようもない。草葉の陰で苦笑いぐらいはしてっかも知んないけど。
 
                  

以前、山口県の「名家」の出だという同世代の人が(その時点でお笑い草なんだけど)、自分とこの殿様である毛利氏(ただし幕末までは松平……ってことすら知りませんでしたが、それは普通か)に比べれば、徳川なんぞは乞食坊主の子孫、などと威張ってんのを聞かされて、やっぱりちょっと気の毒になったことが。

薩摩の島津家(これも明治以前は松平……って、それについてはいずれ)などと同様、鎌倉の御家人が関東近辺から領地へ引っ越して居ついちゃったったのが始まり、ってところが、下剋上のドサクサに乗っかってのし上がった戦国大名との違いでしょうかね。毛利ってのは、厚木の辺りにあった「森」とかいう土地が語源らしい、とも仄聞いたします。洒落?

いずれにしたって、そりゃ単に成上りの時期が早かったってだけの話であり、鎌倉政権下の御家人、言わば将軍公認の家来(ったって、牛耳ってんのは北条得宗家だったんですけど)ってのも、まさに偽系図屋のお得意さんばっかり。まず家系を詳らかにしなくちゃ申請資格も認められない、ってことなんでした。源氏だ平氏だったって、先述のとおり、先祖だってことにされてる人たちはとっくにこの世にゃいないんだから、誰が自分たちの子孫かなんて知っちゃことじゃない。自称子孫ってのは悉く言ったもん勝ちなんです。
 
                  

おっとまた余計な脇道へ踏み込みそうになりました。ちょっとだけ思いとどまりまして、戊辰戦争における官軍の3大勢力、薩長土の3藩の当主が、いずれもその直前までは松平であったという意外な(でもないんだけど)事実について、またも要らざる講釈を垂れようかしらと。

江戸時代の大大名(おおだいみょう)は、ほぼ例外なく、双方の処世的措置とでも言うべきか、徳川家とは閨閥だの門閥だのと呼ばれる関係に類する繋がりがありました。先述のように、松平というのは徳川の起源なのですが、徳川とは先祖を共有する血族の子孫という家系のみならず、政治的配慮などによって後から疑似親戚のようになった家柄など、実はこの松平という名字、おっと苗字を名乗る大名・旗本は無数にあったのです〔名字と苗字については、先述の「セイかシか?」の(4)に再録済みでした〕。

どうしてそんなことになるかと言えば、松平という苗字自体が、最高権力者たる徳川将軍家からありがたくも(ありがた迷惑にも?)下賜される、高級ブランド名だったから、ってとこですかね。「松平之御称号」とか言ったりして。とりあえず大物の外様大名は軒並み松平になってまして、そのほか、何らかの功績によって出世した成上り系の松平も少なからず。

それを真似た、ってより、既にそういう慣例が確立していたのでしょう、各大名もまた、家来の功労に報いんとて、しばしば自分と同じ苗字を与えてます。安上がりな褒賞、ってわけでもないでしょうけれど。

肝心なのは、この名誉松平、いずれも当主とその嫡男だけが賜る、言わば一子相伝の特別な苗字だったということ。その点は、恩着せがましくもそれを認可する側の徳川っていう家名も基本はおんなじです。平安末期に比べれば随分落ち着いたもんだとは言え、苗字ならぬ名字が本来どういうものであったかということを考えれば、それも当然とは申せましょうが〔たびたび恐縮ですが、これについてもさっきの「セイかシか?(4)」にて既述でございました。話柄ごとに順番を入れ替えて再録、なんていう余計なこと考えるもんだから……〕。

例の『大武鑑』を覗いてると、現役当主は例外なく松平なのに、「御嫡」として示された名前は松平とは限らず、毛利とか島津とかのままだったりもします。松平はどのみち本家だけで、支藩はどこも代々もともとの苗字ではありますが、嫡子(実子とは限らず)が松平となるのは、正式な手続きを経てからってことなのかも知れません。
 
                  

いずれにしても、今日では「徳川」という名字[=姓(セイ)=氏(シ)]〔それぞれの語義、字義についても、やはり「セイかシか?(1)」以下、5回の投稿を読んで頂ければ幸甚、みたいな〕の人は結構たくさんいますけれど、これは明治以降の法制下での話。幕末までは、将軍と御三家の当主、およびその嫡子以外にその苗字の人はおりません。その他の息子はとりあえず全部松平……の筈です。明治まで徳川という苗字の人は最大でも8人のみ? 生前に隠居する人もいるから(将軍では初代家康、八代吉宗、十一代家斉の3人だけ)、可能性としては占めて12人ってことになりましょうか。

しかし御三家ではどうも「尾張」だの「紀伊」だの「水戸」だのがそれぞれの苗字のようになっていたものと思われ、将軍は自ら名乗る必要もなければ、まず気安く呼ぶやつぁいなかったろうから、徳川の世では結局その「徳川」って名前、あまり出番がなかったんじゃないかと。時代劇の台詞で「トクセン」って言ってたらちょいと粋(?)な感じはしますがね。

でもこれ、どのみち女子はその限りに非ず、徳川家から他の大名に嫁いだ姫の苗字は何かと言えば、死ぬまで徳川だったということに。普段はわざわざ名乗るにも及ばなかったでしょうけれど。
 
                  

因みにその『大武鑑』、多数の史料から記録を蒐集し、時代を追って編纂した本なので、重複する情報は敢えて割愛している場合もあるようなんですが、所収の各武鑑の記事中、当主として初めて徳川の名が示されるのは、元治元=文久4(1864)年版のものでした。尾張家の〈徳川元千代様〉というのがそれで、まだ幼児のままその年に最後の尾張藩主となった義宜(よしのり)坊ちゃんがその人。明治2(1869)年の記載では〈尾張中将〉となってますけど、それまではずっとこの〈元千代様〉のまま。その明治2年でもまだ満10歳か11歳。没年も明治5年という短命の殿様なのでした。

大武鑑では徳川という苗字の記載自体が極めて稀なのですが、それはもちろん原本である各武鑑がそうだってことで、とりあえず現役の将軍にも、またその「御嫡」にも、その苗字を付した例は皆無であり、上記の〈元千代様〉以前は、ときたま御三家の嫡男の名に冠されているだけです。それも、未だ無位無官の幼名(ようみょう)の場合に限られ、官位や元服後の実名(じつみょう)が示される場合は、必ず「尾張」だとか「紀伊」だとかになってますね。

正徳3(1713)年の項には、珍しく御三家すべての「御嫡」が「徳川」付きで記されてまして、尾張が〈徳川五郎太〉、紀伊が〈徳川長福〉、水戸が〈徳川鶴千代〉という塩梅。このときの紀州藩主は後の八代将軍吉宗であり、長福(ながとみ)丸ってのは九代家重のことなんです(まだ生れたばかり)。たまたま三家それぞれに嫡子がいて、それがたまたま全員未成年、てえか子供だったってことなんでしょう。尾張の五郎太は早世し、水戸の鶴千代(養子)は、5年後の享保3(1718)年の記載では〈御嫡 水戸少将宗堯(むねたか)卿〉と記されてますが、この年に養父綱條(つなえだ)の死去に伴い、満13歳で藩主に就任。

五郎太、長福(丸)、鶴千代は、御三家それぞれの嫡男に代々受け継がれた幼名で、水戸の鶴千代なんかは江戸時代を通じてほんと何人もいます。紀伊の長福だけは、吉宗の跡を継いで将軍となった家重以降、用いられなくなりましたけど。
 
                  

大武鑑におけるそれ以外のトクガワという個人名は、隠居後の元御三家当主に限られ、それも都合2名のみ。元治元(1864)年および慶応2(1866)年の「諸大名御隠居方 並 御家督」という欄にある〈徳川従二位玄同源茂徳卿〉と、宝永2(1705)年の〈徳河大納言對山源光貞卿〉だけです(「河」になってるのは、なんか憚るところでもあったんでしょうか)。もちろん、全部目を通すなんてことはもとより無理ではありますが、索引に頼る限りはそういうことになるようで。 

前者の、「玄同」と号した御隠居に対応する御家督、すなわち現役の藩主は、件の「元千代様」のことで、玄同こと茂徳(もちなが)さんはこの時点で前尾張藩主。また後者の「對山」は、暴れん坊吉宗の父で、元紀州藩主。御家督は〈紀伊中納言〉と記されておりますが、この頃はまだ吉宗の次兄、頼織(よりもと)が紀州藩主でした。

【続く】(……どうにも長いもんで)

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