2018年5月8日火曜日

辞書はみんなおんなじ?

うっかりすると1ヶ月誰とも話さないし、テレビもスマホもないので、情報というようなものはパソコンかラジオからだけ得ているのが実情という生活です(ラジオ番組も録音はパソコンでやってっけど)。

「ウェブの情報はクズばかり」と言う人たちは、どうやって自分がたまたま読んだり聞いたりした話の当否を判断しいるのでしょう。マスコミ報道に限らず、古典的な出版物、名作と呼ばれるものだって結構容赦なく誤謬に満ちてるんですがねえ。結局は可及的多数の知見を勘案して自分で選択するしかないんじゃないかと。
 
                  

以前、知人と飲んでいて辞書の話題になったとき、自分としてはごく当然のつもりで、岩波にはこう書いてあるし、大修館はああ言ってる、というようなことを言ったら、「辞書はみんな一緒だと思ってた」って驚かれたのにこっちが驚いたことがありました。みんなおんなじなら1つありゃ充分じゃん。

戦後の国語改革につれて四段活用が五段活用となったのも、単に仮名遣いの違いによって表記が変った結果に過ぎず、活用自体はそのまま、っていうことについても、編者の意思(思想?)によって扱いは異なる、ってことだってあります(ありました?)ね。音韻自体は近世既に5段階に変じてはいたんでしょうけど、表記が旧来のままであれば、それが音便の結果であることも容易に認識し得たものを、書き方変えちゃったばかりに、辞書や教科書の活用表だって何だかガタガタになっちゃって……って、まあいいんだけどさ。

とにかく、戦後、その音韻変化を表記に反映させよ、ってことになっても、岩波はだいぶ後まで四段で通していたと記憶します。「じゃあどれが正しいの?」って言われても、「それは人それぞれ自分で決めるしかないでしょう」としか返せません。

国語より外国語の辞書のほうがより問題ではありましょうけれど、それはさておき、「いったい何を信じればいいんだ」ってのは、自ら判断する意思を欠いた者の発言ならむ(これを「現実的」に「なろう」と書くのが戦後の5段式、みたいな。そりゃこじつけか)とは思ってまして。

それはまだましなほうか。知識や情報というのは自分で考えるための材料とすべきものであって、偶然見聞きしただけの話を鵜呑みにするなどはあまりに迂闊……なんちゃって。
 
                  

また威張ってしまった。あたしが特別ひねくれた生れつきだってだけのような気も致しますが、文法ってのも畢竟、人為的な規則でもなければほんとは「法則」ですらなく、各研究者による理論、てえより「案」に過ぎぬのが実のところでしょう。学校ではそのうちの1つを教えているだけ、ってことを、昔英国で英語習って初めて知ったのでした。

つまらねえ話で、毎度どうも。

0 件のコメント:

コメントを投稿