2018年5月10日木曜日

英語が屈折語?

和英間の、つまり国語と英語の文法(統語法? 構文法?)の違いなどについてちょっと。
 
                  

自慢話の主語は一人称、後ろめたいときは受動態にして動作主(つまり自分)は示さない。それこそが受動態の効用、ってある英国人が言ってたのを思い出しまして。

たとえば、政府関係者が「減税します」という言い方に対して、「増税されます」って言う、ってな具合。実際にそう言ってるかどうかはわかりませんけど。でもまあ、確かにそういう傾向はあるような気はします。いずれにしろ、毎度どうでもいい話で恐縮至極。どうにもこういう無益な話柄が好きなもので。

調子に乗って今ひとつ思い出したことを。幼い頃、うっかり茶碗を割ってしまい、「割れちゃった」って言ったら、「割らなきゃ割れないだろう」って親父に叱られたことがありました。謝るときには、「割れた」ではなく「私が割りました」って言わないとますます怒られる、というのが日本(語)の流儀? 自分に責任はないと言い張るのか、って感じでしょうか。でもそれをそのまま英語に移植すると、「何? あんたわざとやったの?」と、逆効果になることも。

こうした点について、文化とか国民性の違いだけを論う教師や学者は昔から多いのですが、自分にとっては客観的(科学的?)な統語法則の違いのほうがよほどおもしろい。と言うより、そっちにしか用はない。

英語では主語が(ほぼ)必須というのも、単に、語形だけでは品詞の峻別がならず、名詞は動詞がなければ主語にも目的語にも(と言うより名詞そのものに)ならないし、動詞も名詞との抱合せによって初めて述語(つまり動詞)となり得る、という明白な事実を無視し(あるいは気づきもせず?)、英米人(両者の文化的差異も無視?)は自己主張が強いから必ず主語を言うのだ、などと説く和式英文法は未だに散見されます(文の主語が自己に限るわけでもあるまいに)。

一方、国文法における用言は、たとえその語義がわからずとも語形でそれと知れるため、不要な主語は却って文意を曇らせる場合さえあり得る、ということにもたぶん気づいちゃいないんでしょう。自分が普段どう母語を話しているのかすら考えたこともないような者が、不遜にも外国語の文法などを論じようなんて……と、ついまたエラそうに言ってみました。すみません。
 
                  

でもそれ、どっちかってえと英語のほうがより特殊だってのがほんとなんじゃないかと。と言ったって、おりゃどうせ日本語と英語しか知らねえんだけど、よく言われる、膠着語と屈折語の対立って図式は成り立たないんですよね、どう見ても。英語が屈折語の1つだってのがまずちょっとした誤認、としか思われず。

ああ、そう言えば ‘connexion’ なんかと同じく、 ‘inflexion’ なんて綴りもあまり見かけくなって久しいけれど、あたしゃどうも未だにそっちのほうが好きなんですね。とにかくまあ、その ‘inflection’ を「屈折」とするのは誤訳……とまでは言わずとも、かなりの ‘wild translation’ って気はするんです。語の端部がいろいろ形を変ずるのは、なるほど ‘inflect’ って感じではあるけれど、「屈」だの「折」だのってのは随分雰囲気が違うんじゃないかと。いいんだけどさ。

「屈折」、つまり語形変化……って言うと、歴史的、経時的な変形が第一義だったりするので、厳密には「替変」だとも言いますけれど、とにかくその屈折なんざ殆どしないからこそ、語順が何より肝心ってのが英語の正体。語と語を助詞なんかで糊付けする日本語のほうが、その辺りは明らかによっぽど緩いじゃござんせんか。

英語って、何気なく西欧語の吹溜りのような言語で(偏見?)、15世紀に今のような流儀に落ち着いたということなんですが、それまではそのイングランド語だってラテン語その他と同様、古代以来の相当な屈折ぶりだったとは申します。今じゃ人称代名詞の一部にその形骸を留めるだけの格変化だって、他の欧語一般と同様、あらゆる名詞にあったてえから、昔のほうがよっぽどくたびれそう。

「文法」と訳される ‘grammar’ ってのは元来、(正式な文章語たるラテン語の)文意、語義に対応する正しい屈折法、つまり活用だの何だのという語形の使い分けにおける規範、とでも呼ぶべきものであり、厳密には「格」だの「法」だの「時制」だのという用語も、各語の意味、用法による区分ではなく、むしろその意味の違いを示す形そのもののこと、ってのが、今どきの本場(英語圏ってことで)の文法書の記述では前提のようになってるんですけど、どうもその辺りが未だに日本じゃあ「専門家」でさえわかってないんじゃないかしらと。わかってても敢えて旧来の言い方に従わねばならない、っていう義理みたようなもんでもあるんでしょうかね。どのみち俺の知ったことじゃねえけど。
 
                  

とにかくまあ、たとえば「未来時制」なんて言い方だって、今でも当り前のようにしちゃいるけど、 ‘future tense’ などというものは現代英語(現代ったって15世紀以来)には存在しない、とでも言おうものなら、何をバカなことを、って呆れ顔されりして、ちょっとウンザリ。でもね、ここ数十年の間に出版された英文法の本(ただし英語で書かれた、多少とも「物好き仕様」のやつ?)にはよくそう書いてあんですよね。「時制」という訳が夙に定着している文法用語である ‘tense’ の原義、すなわち時間的要因を示す「動詞の語形」ってのに素直に従えば、最低でも助動詞を付さなければ表しようのない英語動詞の「未来形」なんてものがないのは灼然、ってことなんですがねえ。

同様に、主語も目的語も同形になっちゃってる名詞には、もはや主格も目的格もなく、しかたなく「通格」などと称してはいるけれど、形の違いがないなら、その使い分けを論じる必要もなく(飽くまで意味自体ではなく形の、ってことです)、つまり「格」という概念すら無用、ってのも何気なく現代英文法の実情だったりして。辛うじて所有格は残存する、ってことにはなっちゃいるけど、それだって 's  っていう付足しの有無による区別ってだけのことであり、それはもう語形変化(おっと大変、じゃなくて替変か)と言い張れるもんじゃないんじゃないかと。しかも、必ずしも「所有」の主体である名詞自体に付されるのではなく、 ‘mother-in-law's’ ってな言い方も平気でするじゃありませんか。「義母の」であって、決して「『法の』における母」なんて意味(意味なさねえけど)にゃならねえなあ、中学生だって知ってらい、みたいなね。
 
                  

……という調子で続けてたら、またぞろ無駄に長いだけの駄文に堕するは必至なれば(もう遅いか……)、本来の主旨だけを述べると致しましょう。「仮定法」その他、日本(語)特有の英文法用語に対する恨み言は、いずれまた改めて、ってことでひとつ。
 
                  

てな次第で、何だか思い出したような風情でもありますが、ひとまずは眼目に話を戻すと致しましょう。屈折語だ膠着語だって区別は、単語自体がいろいろ変身するか、そうではなく、別の細かい部品のようなもので各語を糊付けするかの違いであり、いずれも形によって各部の意味や機能は知れる、っていう寸法なんですよね。英語以外の外国語は全然知らないのに、俺もまあ例によって随分とエラそうにものを言うことよ、とは重々承知。それでもまあ、たとえば

「犬が人に噛み付いた」

でも

「人に犬が噛み付いた」

でも意味は変らず、これが

「人が犬に……」

とか

「犬に人が……」

ってことんなると状況は一転。「犬」も「人」も不変なのに、「膠(にかわ)」の役を担う「が」だの「に」だのという助詞が入れ替るだけで、場合によってはたいへんな事態に、という塩梅。

で、こういう仕組みになってるのが膠着語てえやつなのに対し、接着剤の如き助詞にはよらず、単語自体がさまざまに変形することによってそれぞれの立場を明示するのが屈折語、てなところかと。まあさっきも言ったように、「屈折」ってのはかなり無理やりの訳語ではありますが。

膠着語たる日本語にだって用言の活用てなもんはあるし、屈折語とされる各種欧語にも(1つも知らねえけど)、たとえば前置詞なんてのがあって、それは言わば「後置詞」とでも呼び得る国語の助詞(の一部)を、体言の後ろから前に移動させたような存在(ってのはあまりに強引か)……ではありながら、屈折語だろうが膠着語だろうが、各語句はその姿によって構文上の役どころが一目瞭然、ってところは共通。よってその並べ方には結構融通が利く、ってなもんでしょう。

でもそれ、日本では相変らず屈折語呼ばわりされることの多い英語には通用しません。中国語のような(ったって、もちろんそれも全然知らないけど)、変形も糊付けもない「孤立語」ってのによほど近い、って雰囲気も漂います。高校で漢文習ったときも、なんか英語に似てんじゃん、と思ったりしたもんですが、あながち的外れでもなかったんじゃないかしらと。
 
                  

まあ、そうした、「屈折」だ「膠着」だ「孤立」だ、おまけに「抱合」だなどという言語学的分類自体が、現実の各言語における実際の法則に対する、小異を捨てて大同に就くが如き(そりゃ意味違うか)、結構強引な類型化を施した結果に過ぎず……とも愚考致すところではあったりして。いずれの自然言語も、それほど安直にはいずれかの区分にピッタリ納まりゃせんでしょう。飽くまで基本的な作りとしては、ってだけのことなんじゃないかと。知らないけど。それにしたって、今の英語を、ラテン語その他と同類の屈折語と呼ぶのはどうにも無理、ってのが下拙の了見。
 
                  

とりあえず前掲の例を充当しますと、

‘A dog bit a man.’



‘A man bit a dog.’

ではいきなり話があべこべ。語形はまったく変らず、語順が入れ替るだけでまったく違う話に変じ果てるという恐ろしさ。

別に恐ろしくはないか。まあとにかく、たとえば人称代名詞にしか主語か目的語かなんてことを示す語形の別は残っておらず、その残存する「屈折」だって、実際には勝手な語順を許容するだけの度量は持ち合せちゃおりませんよね。 ‘She loves me.’ の主語と目的語は、その形によってそれぞれ立場の違いは明白なのに、これ、順番変えられないじゃん、ってことで。稀少なる屈折語的遺構も、まったくの形骸に過ぎぬは昭然、なんちてね。

動詞や形容詞、副詞の活用ってもありますけれど、もはやそうした素朴な形の違いなど、構文上の意味、機能の厳格な峻別に資するにはいかにも頼りなく、やはり屈折語を名乗るには何かと不足のような。要するに英語ってのは、「屈折」だの「活用」だの「替変」だのってもんについては随分と大雑把、ってのが実情。その代り、当然語順の決りは相当に厳しいものとならざるを得ず、15世紀以降の英語は屈折語に非ず、ってのはそういうところでして、つまり、欧語全般の中でも何気なくかなりひねくれたやつだったのね、って感じ。そんなの、高校出るまで全然知らなんだわい。
 
                  

でもそれ、このとおり語形ではなく語順で各語の意味が決る、ってことんなるってえと、ちょっとでも文が長くなった日にゃ、その構成要素たる各語(やそれが連なった句)の順列にも、許容し得る複数の可能性が生起し、どう並べたところで複数の解釈を可能ならしめてしまう、という困った事態も頻繁に生じるってわけで、誤訳の多くはそうした「罠」にかかってしまった結果……だったりして。そのためにも、文章全体の繋がり、すなわち文脈てえもんを確実に掌握することが何より肝要……なんだろうけど、そりゃ何語にとってもおんなじことか。別に屈折語だからこう、膠着語だからこう、英語だからこうってことでもないような。
 
                  

結局はまた締らねえ話になっちまいやした。毎度恐縮至極。……そればっかり。

と言うそばからまたしても、って感じですが、だいぶ前にもちょっと趣旨の重なるものを書いてました。もっと容赦なく諄いけど。

0 件のコメント:

コメントを投稿