2018年5月13日日曜日

‘subjunctive’が「仮定法」?(1)

日本固有の英文法が誇る支離滅裂ぶりはとっくに思い知っており、もう呆れ果てるのにもくたびれてるってのがほんとのところなんですが、この期に及んで、って感じで、今さらながら辟易の極みという思いにかられることが絶えませず、それに対する勝手な愚痴をまたひとくさり。

ほんとはこれ、既にもう数年前、友人に送り付けようと思って書き始めながら、例の如くあまりにも長くなっちゃったので放棄したままになってた文章ファイルを、今さらのようにほじくり返してるってのが実情。結局のところ、しつこく残ってたそのファイルの中身も、殆ど全部書き直すことにはなっちゃってますけど。
 
                  

とりあえずは「仮定法」なる言辞についての難癖など。

たとえば

〈仮定法は事実ではないこと、現実にはありそうもない仮想や願望を表す表現

という記述を、数年前のその頃ウェブで偶然目にしまして、「またかよ」と思う間もなく、今度は、それを懇切丁寧にも、

〈仮定法とは、ある事柄を事実としてではなく、想像・願望・疑いなどの立場から述べる言い方で、現在・過去・過去完了・未来の4種があります。〉

……などと解説してくださる奇特なお方もいらっしゃるという具合。

一部の文言には下拙が勝手にを付けてますが、後からその迂闊さを論おうとの姑息な魂胆。最初の引用の末尾、「表す表現」なんざ、また随分と間の抜けた言いようではありませぬか。「表す表し方」とか「表現する表現」ってのとおんなじこってすぜ。

2例目のちょいと長めのやつもまた、まず〈想像・願望・疑いなどの立場から〉ってんですけど、その3つが「立場」だたあちっとも知らなんだ。で、その「立場」から〈述べる言い方〉がどうのってんですが、「述べる」ってのは「言う」ってやつのちょいと気取った「言い方」なのかと思ってましたぜ。さっきの〈表す表現〉に勝るとも劣らぬ同語反復技。〈述べる言い方〉というのは畢竟「述べる述べ方」「言う言い方」ってのと変らんのでは?
 
                  

この解説文はこのあと、その「4種の仮定法」の第1種、「仮定法現在」てえやつの「用法」へと踏み込むんでくんすが、曰く

〈現在・未来についての仮定・想像を表し動詞は原形を用います。〉

とのこと。それに続けて、〈(1)仮定または不確実な想像を表す場合〉との小見出しの下に、

かつては原形を用いましたが、現代口語ではこの場合、直説法現在形を用いるのがふつうです。)

と記し、さらには

I wonder if it is true.(それは本当かしら)
 
If he knows about it, he will tell you.(彼はそのことがわかればあなたに知らせるだろう)

 との例文が。

この例文の那辺に「仮定法」なるものの片鱗なりとも窺えましょうや……って、ちょいとまごついちまったじゃねえか。なんだ、その前にこの解説者自身が言ってんだった。〈現代口語ではこの場合、直説法現在形を用いるのがふつう〉なんですと。
 
                  

でもさ、〈原形を用います〉と断言した舌の根の乾く間もあらばこそ、〈かつては原形を用いましたが〉って、それじゃ〈今は用いません〉ってことじゃねえかい。そんでその〈今〉はてえと……じゃねえや〈現代口語では〉……って、あれ? 「非現代文語」の話なんかいつしてたんだっけか……と訝ってると、〈この場合、直説法現在形を用いるのがふつう〉と来るてえ寸法。

この「直説法現在形」てな言い方もまた著しく一貫性を欠くものに非ずや、などといちいち引っかかっちゃうおいらがフツーじゃねえなあ先刻承知なれど、とにかくこのくだり、やっぱり随分といいかげんじゃねえかい。後から「現代口語」云々って言うなら、その前にとりえあず「仮定法」(「仮定法現在」?)ってのが「現代以前の非口語」である、とでも断っとかなくちゃ。

でもそれ、ほんとは近代どころか近世後期の文語(文語体ってことじゃなくて文章語、書き言葉ってことでひとつ)でも、とっくに擬古文的な固定表現以外では用いられなくなっていた、ってのが実情なんですがね(なぜか前世紀のアメリカで復活し、近年はイギリスその他にも波及)。

突然現れる「直説法」という言辞もさることながら、「現在形」てえ言い方がまず気に入りません。枝葉末節に拘り過ぎ、とも思われましょうが、拘るとしたらもとよりそれしかありますまい、との居直りの下に、飽くことなく難癖を続ける覚悟にて。決してこのときに覗いたこの記事に特別恨みがあるわけでもないし、むしろもっと容赦なくトンチンカンな解説サイトだって見ちゃったんですが、まあそこは成行きってことでどうか。
 
                  

とにかくこれ、「原形」てえ言い方との釣合いを取ろうとして「現在形」とは言ってんでしょうけど、その「形」ってのは、「時制」だの、それこそ「法」だのという、飽くまで文中における機能に応じた語形変化とは無関係の一定不変の姿、とでも言ったところ。教科書や辞書の付録にあるような不規則動詞表に並んでる「原形」「過去形」「過去分詞形」というような連中のことです。後の2者、特に最後のやつにはいちいち「形」を付さなかったりするけど、1つめだけはそりゃ「原」だけじゃ何だかわかんねえから、どうしたって「形」てえ字は必須、ってところかと。

この3者は、構文上の役どころに応じて、不定詞だの仮定法だの過去時制だの受動態だの完了相だのとさまざまに名を変えるわけですが、こうした語形の一覧表、いわゆる「パラダイム」 ‘paradigm’ てえやつに並べられてんのは、そういう文中での働きは度外視した固定の「かたち」、言わばまったくの「形骸」だけ。語の「形」、つまり ‘form’ って言ったら大抵はそういう意味であって、そうなると、主語の人称や数によって姿を変える「直説法」(……などといちいち断るまでもないとは思うけど)の「現在時制」を「現在形」と呼ぶのは、いかにも大雑把で、いささか精密さに欠ける言いようなのではないかと。ま、英語が結構得意科目(他よりゃまだまし)だった高校生時分の下拙にとっても、そういう「精密さ」なんざ無縁ではありましたけれど。

いずれにしたって、こっちはまあハナからわかってるからいいようなものの(それでもちょいとまごついちゃうんですぜ)、ほんとに「仮定法」なるものが何なのかまったく知らず、こういう解説を読んで何とかそれを知ろうとする殊勝な学習者にとっては、どうしたってこりゃ不親切の極みてえもんでござんしょう。だって、〈仮定法とは……〉で始まるこの記事、その「用法」を説き始めた途端、その「仮定法」とは対極を成すが如き(ってことも当然まだわかっちゃいない)「直説法」(の現在形)を、「現代口語」では「用いのがふつう」などと言いやがるんですぜ。その「仮定法」が何なのかはますますわかんなくなろうじゃありませんか。それも俺が特別鈍いから?
 
                  

だいぶ前置き(なのか?)が長引いちゃってますが、ひとまずは懲りもせず言いがかりを重ねると致します。拙がこの解説のこの冒頭部分を読んだだけでいちいちケチをつけたくなったのは、本来ならばその文法解説における(古典的?)誤認というようなものに対する苦言を呈するつもりだったところ、その前に国語文としての構造的瑕疵(とは大仰な)が気になっちゃって、仮定法自体についての説明がどうこうってところに行き着かばこそ、枝葉末節に絡め取られて脱することもままならず、ってな仕儀。でもまあ、ついでなんで、もうちょっと毒づいときやしょう。

ここまでの(僅かばかりの)解説を勝手にまとめると、まず「仮定法」の定義として「ものごとを事実ではなく想像その他の立場から述べる4種類の言い方」であるとし、その1種類めである「仮定法現在」の「用法」の1つめが〈現在・未来についての仮定・想像を表〉すもので、〈動詞は原形を用い〉る、としながら、既述の如く、その1つめの「用法」の細目の一番手が〈仮定または不確実な想像を表す場合〉であるとともに、〈現代口語ではこの場合、直説法現在形を用いるのがふつう)だと抜かして、じゃなくて説いているわけです。

現代口語」および「直説法」だの「現在形」だのについては、今さっき文句つけたとおりで、いきなり肝心の「仮定法」とは別の語形、じゃなくて「言い方」を用いるのがふつう、ってのがまず間の抜けた話ではあるのですが、そういう例外的「場合」については、とりあえず後回しにしときゃ少しでも話の流れがスッキリしようぜ、とは思量致すところ。でもこれ、その前にまず不可解なのが、

〈現在・未来についての仮定・想像を表し動詞は原形を用います。〉

という「仮定法現在」の用法を説いた直後に、その用法の下位区分であるかの如く

〈仮定または不確実な想像を表す場合〉

と言ってるところなんです。〈仮定・想像を表し〉って言ったそばから、その「例」として〈仮定または不確実な想像を表す場合〉ってんですぜ。いったいどういう場合なのかてえと、前提条件として示されたばかりのものと違うのは唯一、表される「想像」が「不確実」ってところだけ。するってえと、それ以外の場合は悉く「確実な想像」を表すってことなのかえ、って思っちゃうあたしがやっぱり妙なんでしょうか。でも、文章読解の基本に従えばそういうことになるんじゃねえかしらと。違うのかな。いずれにしたって、「確実な想像」なんてもんがあるとも思われませず。確実だったら、そりゃもう想像の段階にとどまらねえんじゃねえの? わかんないけど。

ともかく、こうしてちょっとでも引っかかっちゃうってことは、たとえちょっとだけにしろ言ってることが間尺に合ってねえってことであり、一杯やりながらバカ話してるわけでもあるめえに、こういう、多少とも「解説」的なことを述べるなら、まず文章自体の整合性てえもんをちゃんと考えて貰わねえと、ってのが我が所思、みたいな。

相変らずエラそうですみません。そもそもそういうお前が書き散らしているこの愚文こそ何だ、と言われればまったくそれまで。でもこれはハナから無益な言いがかりのつもりでやってますんで。誰かに何かを教え示そうなんて意図はさらになく。
 
                  

「仮定法現在」の用法については、この後、〈(2)要求・提案・依頼・希望などを表す場合〉、〈(3)願望・祈願などを表す場合〉と続き、以後のページでは順次「仮定法過去」「仮定法過去完了」「仮定法未来」という、今どきの英米の文法書ではとっくに廃れた、つまり言語法則としての精度の粗さが何段階にもわたって修正され尽している、はっきり言って使い物にならない旧式文法(をさらに日本的に誤解したもの?)の解説、それもごく初歩的な(要するにあまりにも大雑把な)ものが施されてくって筋書き。

(2)の「場合」などは、[注] として、〈提案などを表す場合、イギリス英語ではしばしば shall、 should などの助動詞をつけ加えます〉とまで教えてくれるんですが、「イギリス英語」ってのもまた「英国英語」「イギリスイギリス語」と言うに等しい同語反復であろうし(ほんとは飽くまでイングランド語ではありますが)、ならあんたの言ってる英語ってのはいったいどこの言葉なんだよ、って気にもなろうじゃござんせんか。まあ、当のイギリス人だっていちいちそんなこた言わねえにしろ、英語圏全般を見渡せば、表記でも用語でもむしろ完全に孤立しているアメリカ流をありがたがるたあ、未だに進駐軍ショック(黒船ショック?)から立ち直っておらぬが如し、なんちゃってね。

おっと、再度言っときますが、別にこのサイトのこの執筆者には何の恨みもございませず。無礼は承知の上にて。
 
                  

とにかくまあ、多分に不用意が窺われるこの解説文、ついその文章表現についての難癖が過ぎちゃってますけど、ほんとはやっぱり仮定法についての妄誕、と言うより、その仮定法を説くつもりで並べている文法用語の混乱ぶりをこそ論うのが所期の主旨なのでした(思い出したように)。そろそろその本題に移ろうかと……なんて、今さら遅過ぎるか。半ば以上は予想どおり。いつもながら、しかたがねえや、我ながら。

いえね、あっしだって中高生の時分には英語の授業で概ね上記の如き「文法」を習ったのは憶えちゃおりますものの、実は内心不可解ではありつつ、とりあえずそういう決りに従っとけば試験では正答とされるため、ほんとは何ら釈然とはせぬまま、どうせ学校のお勉強に過ぎねえし、ってんで、まあ学校英語の「処し方」とは割り切り、要するに何となくやり過してたんでした。現実の英語がそうは行かねえだろうことは、おぼろげながらも既に認識してはおったのですが、それはまあ、洋楽の歌詞なんかにもかなり接していた故かと。結構インテリの英人が義兄だったりもしたし。

未だに不思議なのは、どうしてこういうまったく間尺に合わない「規範」を押しつけられてみんな平然としていられるのか、ってところ。それは押しつけられる生徒の側に対しての疑問であって、より冷笑を禁じ得ないのはむしろ、今も昔も自分じゃよく(まったく?)わかっていない、ってことにまず気づいていない教師およびその教師が依拠する教科書その他の執筆者どもであるは言を俟たず(エラそうに)。

まさに今も昔も、要するに百年一日の如く、現実からはものの見事に乖離し、それも大概は(全面的に?)この我が国でのみ流布している妙ちきりんな「英文法」を、何の痛痒も感ずることなく奉じ続けてるてえ不条理極まる状況。もはや気の毒にすら思う余地とてございません。そんな義理などこれっぽっちもあらばこそ、どっちかってえと、とんだ回り道をさせやがって、って恨み言さえ言ってやりてえぐらいのもんで。

高校出るまでは「得意教科」であった筈の英語について、最後まで腑に落ちないところを少なからず抱えたまま、大学受験はせず(何せ数学が……)、姉が結婚して住んでいたイギリスへ語学留学のため(という名目の下)に渡り、通い始めた学校で徐々に高度な文法も学ぶようになると、最初こそちょっとまごついだものの、じきに「なんでえ、そういうことだったのかい」ってなもんで、いちいちそれまでの謎が氷塊。

驚いたのは、例外なく自分より年長だった日本人同級生の多く(ったって、多いときでも20人に満たないクラスに日本人は自分以外殆どいなかったし、いわゆる「進級」のようなものにつれていよいよその数も減り、2年め以降は常時あたしが唯一の日本人)が、大半は大学の英文科卒だったんですけど、「これ、文法間違ってるよね」などとあたしに言うんですよ。

まあどうせ俺は生れながらのひねくれ者。高校で習った「正しい文法」が裏切られるたびに、「ほらな、ざまあ見やがれ」って嬉しくなるような野郎ではあったんですが、それでも「だってこれがほんとの英語じゃん。間違ってんのはあんたらが今まで信じてきたほうでしょうが」という腹ん中の本音は、むしろよっぽど素直な反応なんじゃないかと。ちょっと考えりゃ(いや、わざわざ考えるまでもなく)わかりそうなもんだけど、たとえば、まるで時代劇の台詞のような日本語を、それもところどころ間違えながら、ヘッタクソな発音で話すどっかの外国人に、「日本人は日本語の文法を間違えてる」なんて言われたら、そりゃ笑っちゃうしかないでしょうよ。

折角の本場で折角の本物に接しながら、その本場の本物ではなく、それまで自分が信じ込まされていた偽物のほうをありがたがるなんざ、下拙にはとんと了見が知れませず。ま、いいんだけどさ、もう。でもあれじゃあ、いつまで経っても妙ちきりんな英文法がこの国から一掃できないのも致し方ないか、って気はしますね。これだけ情報に満ち溢れた21世紀のこの期に及んでなお、ってところでもありますが。
 
                  

……と、またも調子に乗って言いたい放題の悪態を並べてしまいました。そもそもこれ、いったい上記の如き「英文法」の那辺を指して下拙が「間尺に合わない」だの「妙ちきりん」だのと言っているのかを説明しようと思って書き始めたものだったんですけど、それが存外骨だってことに今さらのように気づき、改めて辟易してるってのがほんとのところ。と言うより、本気でそれやり出したらまたぞろとんでもねえ駄長文となるは必定。既に枕だけでこんなに長くなっちゃってるし。

まあ極力眼目だけに止めるべくせいぜい努める決意にて、続きはまた次回ってことに。毎度無秩序ですみません。

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