2018年5月14日月曜日

‘subjunctive’が「仮定法」?(2)

さて、「和式英文法」(って勝手に言ってますが)における非合理、不条理の元凶が何かと申さば、それは徹頭徹尾我らが国語たる日本語とは根柢から趣きを異にする英語という言語の法則(人類にとっての言語という大枠では基本は変らず?)を説くのに、肝心の英語(それが主役じゃん)は無視し去った国語、それも尋常の字義、語義とは懸隔した漢語(てえか字音語)を用い、その「国語訳」の妥当性などは何ら顧みることもなく、現実に世界中で日々実用されている当の英語における現実的用法のほうを枉げてでも、著しく穏当を欠くその「和訳文法用語」に依拠した規範を押し通すこそ正義なれ、とでも言うが如き傲然たる迷妄……って感じ?

長えよ。いってえ何言ってやがんだか、とは自分でも思っとります。多少大袈裟に揶揄してやろうとするあまりつい。申しわけございません。

気を取り直しまして、まあその一例が、先日久しぶりに思い出してしまったこの「仮定法」っていう「日本語」だったという次第。しかし、これまた存念の半分でも吐露せんとすれば、途方もない長駄文となるは灼然。いよいよ気を引き締めて眼目だけに集中せねば、って言ってる時点で既にダメなんですよね。ほんと、困ったもんで。重ねて申しわけございません。

そもそも「眼目」って何よ、って、実は今それを考え出したところ。泥縄ってやつ。どうせそういう野郎だったんだ、この俺は。
 
                  

えー、とりあえずこの「仮定法」、見てのとおり「仮定」に「法」をくっつけた語であり、いずれも国語としてはごくありふれた、いわゆる漢語てえやつ(厳密にはその言い方は僭称のような気もするけど、それはさておき)。読んで字の如く、前者は「かりにさだめること」、後者は「のり」という和語のほうが珍しくなっちゃったけど、要するに「きまり」とか「やりかた」とかって意味でげしょ? となれば「仮定法」とは「かりにさだめるときのきまり」または「かりにさだめるときのそのさだめかた」みたようなもんじゃねえかと。とりあえず中学時分の俺は素直にそう解釈したね。だって日本人だもの。成績優秀の(ちょいと鼻持ちならねえ)同級生もそうだったし(たぶん)。

でもそれ、俺のように誤解する中高生の多くには何ら罪はなく。だって、やっぱり日本人だもの。それもまだ子供に等しい年頃ですぜ。日本語の筈のその表記、それも漢字という表意文字を見せられたら、とりあえずその一般的な字義で受け取るのは極めて正常な反応でしょう。そうでなくちゃ国語の文章なんざ読んでらんねえし。それがまあ、この「仮定法」(意味不明の文法用語としてはほんの一例ですけど)てえ漢字の場合はそうも行かねえってことんなったら、悪いのはどうしたってそういうわけの知れねえ文法用語の訳を捻り出し、それを百年にもわたって放置するばかりか、大威張りで教えてくれ続けてる諸先生のほうでござんしょう。

単純にこれ、意味が通りません……とは思ってもいないようで、それは取りも直さず、教えてる側の多く(悉く?)が、わけのわかんないまま、英語という外国語の正しい規範として受売りし続けてるってことに相違ありますまい(ほんとか?)。意味が通らねえのは、どうやら訳語に用いられた漢字の意味が、日常的解釈ではとても思い至るべくもない特殊な(古臭い)もんだったから、ってのが実情なんじゃないかと(わかんないけど)。

幕末明治の知識層なら、漢学者ならずとも、今どきのいわゆる学識経験者なんぞは到底足元にも及ばない漢字の知識があったわけで、そういう昔の物知りが捻り出したこの種の訳語が、今どきの日本人の大半にはまったくの判じ物とならざるを得ないとしても、そりゃまったく無理からぬこと。それを、本来の字義が何であったかなんて考えもせず(知らなきゃ考えようもねえか。そいつぁ俺もおんなじだったけど)、勝手にフツーの解釈でやっちゃうもんだから、 ‘mood’ が「法」、つまり何か「決ったやり方」ってことか?って勘違いし、かくして ‘subjunctive mood’ の訳語たる「仮定法」が、めでたくも「表現」だの「言い方」だのてえことにはなる、って寸法(「法」の前の「仮定」ってのがまず曲者なんですけどね)。
 
                  

でもそうは行くかい。あたしだって高校出るまでは、なんせ英語がほぼ唯一何とかなってた科目ではあったし、一応文法てえもんも概要はわかってたつもりだったのが、ロンドンの英語学校に通い始めて半年ばかり、いよいよ本格的に本場の英文法習い出したところ、初めは全然話がわからずまごついちまったんですよ。

ハナは、単純に自分の読解力、理解力の不全によるものか、と思ってたんだけど、やがて、高校で習い覚えた文法用語が、それに対応する筈の(ほんとは逆だけど)英語とはいちいち意味が食い違ってる、ってことに気づき、既に英文自体は大概読めるようになってたから(外国人学生のために書かれた教科書類は新聞や雑誌なんぞよりよっぽど簡単)、以後、英語についての話はすべて英語のまま、と言うより英語のみによって学ぶよう心を入れ換えたんでした。そしたらまあ、驚くほどよくわかるじゃありませんか。なんだ、日本で習ってたのがおかしかったのか(やっぱりね)、ってなオチ。
 
                  

この「仮定法」に類する訳語、英和辞典には未だにそのまま載ってますけど、まあそこは、どのみち語義や用法を説明することなく、所詮英語を日本語に置き換えてるだけですから(しばしば単なる安直な因襲に従って)。つまり、日本の辞書では金輪際こうした用語の正確な意味を知ることはできないという仕組み。

それに対し、英米の辞書にはもちろんちゃんとその文法的な定義、用法が簡潔に記載されており(あたしの好きな、多少ともオタク向きの文言よりは、旧来の一般義ってのが普通ですけど)、重ねて不思議になるのは、どうして日本の英語教師はそういう「本場」の辞書だの解説書だのを読まねえのかな、ってこと。読んでいてなお、(真意がわからぬため?)相変らず我が国固有の伝統的トンチンカンに義理立てし続けるしかない、ってことなのかも知れませんけれど。ほんとかね。
 
                  

とにかくもこの「仮定法」という、故意に中高生の誤解を誘おうとしているのか、とでも言いたくなる奇妙を極めた訳語(教師自身が概ね誤解してるんだってことも今じゃわかってますが)を見せられるだに、そりゃなかろうぜ、ってところなのに、あたしが習ったときには、その「仮定法」の例として、

‘If I were (または was) a bird, I could (または would) fly.’

というような、随分と間の抜けた文がよく示されてたんでした。こんな感じだったな、と今勝手にでっち上げたんですが、「飛び立ちかねつ 鳥にしあらねば」とでも言うならまだしも……って、そんな話じゃなかった。こういう「そりゃそうだろ」ってなつまらねえ例文には、駄目押しの如く『これを「仮定法過去」と称し、「現在の事実に反する仮定」には、このように「過去時制」が用いられる』とかなんとか、尤もらしくもさっぱり要領を得ないお題目が抱合せのように添えられてんが通例。

とりあえず、「事実に反する仮定」ってのがよくわからねえ。現在のだろうがいつのだろうが、事実のとおりならわざわざ「仮定」なんざする必要もなかろうし、「反する」ってのが「現実には不可能」ってつもりなんだろうとは「忖度」してやらねえこともねえけど、なんでいちいちこうも曖昧な言い方するんだよ、とは即座に思っちゃったあたしがやっぱり捻じ曲ってんでしょうかねえ。しかもそれ、後で気づけば、実際の英語表現の法則に「反する」説明だったし。

それよりこれ、軽く恐ろしいのは、こういう「文」を「仮定法」の例だって言われちゃうと、そうか、仮定法ってのは「文の形式」みたようなもんなのね、って思っちゃうところ。いや、教師がそう明言していたとか、教科書その他にはっきりそう書いてあったとかってことでもないんですが(忘れちゃったし)、とりあえずウェブの英文法サイト(ただし日本人による日本語の)には、結構臆面もなくそのように言ってるものも少なからず、やっぱり昔の(今も?)中高生が陥る過誤をそのまま「正しい文法」として信奉し、ご親切にもその「知識」を不特定多数に向けて掲げてくださってる、ってことなんでしょう。飽くことなき誤謬の拡大再生産。

ざっと言っちゃえばこれ、ひとまず日本の「仮定法」が何なのかはさておき(未だにどうもわからねえし)、それを訳語とする筈の原語、すなわち ‘subjunctive (mood)’ に該当するのは、この例文中、 ‘were’ の1語のみであり、同義の ‘was’ は「直説法」……じゃないのかも知れないけど、英語では紛う方もなく ‘indicative (mood)’。肝要なのは、しつこいけど「仮定法」はともかく、‘subjunctive (mood)’ は、構文上の機能に応じた動詞の「形」の1つ、またはその形が用いられる事例であり、決して「言い方」でも「表現」でもなく、まして「文の形式」などではないってことで。

この(勝手に作った)例文の後半、いわゆる主節(という言い方にも難があるんだけど、それについてはまたいずれ)に出てくる ‘could’ や ‘would’ さえ、臆することなく ‘can’ や ‘will’ の「仮定法」だと言い張る解説サイトもやはり散見されるのですが、そいつぁいくらなんでも乱暴に過ぎましょうぜ。まあ、この文全体を指してぼんやりと仮定法だって言ってる「解説」記事だってあるんだから、まだかわいいもんだとも言えましょうが。

そもそも助動詞に仮定法などという「形」があるのか、と言うより、 ‘subjunctive’ の語義に鑑みるならば、従属節たる前半、つまり「条件文」として括られるこの種の複文における「条件節」に用いられるのが、日本では「仮定法」と訳されている動詞の語形でこそあれ、主節とされる「帰結節」に出てくる助動詞、それも専ら ‘mode’ すなわち 'mood' 、つまりは 「(叙)法」(この「叙」の有無についてもいずれ)という機能、言うなれば話者の存念を示すという役割を担う ‘modal [auxiliary (verb)]’、 「(叙)法助動詞」に、「仮定」だろうが何だろうが、そもそも「法」なんていう形の区分など何ほどの意味があろうか……と、一応書いてはみましたが、やっぱりわけが知れませんな。そのわけの知れなさこそ、和訳英文法用語のいかがわしさを如実に物語るものである、とでも思召されたく。ほんとか?
 
                  

まあ、このとおり何言ってんだかわかんなくなっちゃってるし(俺が書いてんだった)、「いずれ」などと言って後回しにしちゃってる話もあったりして、どうやら文章の運びをしくじったような気もして参りました。今回はひとまずここでやめとこうかと。前回の書き出しからしてまずかったんですが、なんせもうまったく無計画に書き散らしてるもんで……。それはまあ毎度のことなんですが、今度ばかりはちょっとぐらい全体の構成みたようなものを考えてからにすべきだったか、などと今さらのように少々悔やんでたりして。

難癖の対象、つまりやっつける相手が1つではなく、日本に流布する英語の「仮定法」に対する誤謬はもちろん、その「仮定法」という訳語自体、さらには関連する類似の訳語の不条理ぶりを論おうとしてたんですね。そりゃひとまとめに書き散らすなんてわけにゃ行きませんわな。

加えて、その言いがかりの根拠とでも申しましょうか、そういう和訳語を施された原語、つまり英語における文法用語の実際の意味や来歴などを述べるとともに、その原語による言わば精度の高い文法についても記述しようなどと目論んでたわけだから、どうしたっていつにも増して話が込み入ったものになるは必定。……などと、今さら威張ったってしょうがねえけど。

とりあえず、ちょいと考えてから続きを書くことにします。またも恐縮至極。

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